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第三章 青花翠

十五

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 舞衣は綺麗な女の子だ。

 芯の強そうな、それでいて愛嬌のある目をしている。今日はストレートに伸ばした長い髪を、仕事のため一つに縛っている。はきはきした物怖じしないしゃべり方で、周りからの信頼も厚い。

 夏央や冬華とは腐れ縁だと言っていた。この二人と彼女は、どこか似ているので、波長が合うのだろう。三人で仲良く廊下でしゃべっていたのを見たことがある。
 
 入学式の日、翠はデイケア組の名簿を、一般クラスのボランティア部に渡す係を、自ら志願した。そして一般クラスに接触した。ボランティア部のメンバーに先に会いに行き、できたらあなたたちのところへ行きたいと申し出た。

 皆は一瞬きょとんとした顔になったが、部長の三年生が「いつでもおいで」と言ってくれたのを合図に、それぞれ優しい言葉をかけてくれた。
 
 あの時に思い込んでしまった。普通の人はちゃんとわかっていると。
 けれど実際移った先に待っていたのは、無知という名の遠慮のない視線だった。
 
 舞衣とは、夏央姉弟を通して知り合った。
 彼女の分け隔てなく接してくれるやり方に、すぐに翠も心を開いて、気がつくと参考書や本を借り合う、良き相談相手になっていた。
 
 彼女はボランティア部ではなかったが、しょっちゅう部室に遊びに来ていた。「お前、暇人かよ」と投げかける夏央に、「どこの部も入ってないもん」とからかうように返す彼女は、いつでも楽しそうで、親しみ深い雰囲気があった。
 
 そしていつも周りに人がいた。取り巻きというほど熱狂的なファンではなくて、友達という言葉がピッタリな関係の仲間が。
 
 舞衣は時々友達を連れてきたりもした。その一人が的場である。的場は比較的おとなしい女子で、あまり多くを語らない人だった。舞衣の後ろをついて歩いて、適度に盛り上がった現場を崩さないような引き際を知っている者だった。「そろそろ戻ろうか」と的場が言うと、舞衣も素直に従った。この二人の関係が理想だった。
 
 ご飯をすべてたいらげて弁当箱をしまうと、チラッと舞衣を見た。
 的場と何やら話し込んでいる。委員の話だろうか。それとも何気ない会話だろうか。翠はテーブルから二人の姿をじっと見つめていた。
 
「ん、どうした、翠? 寂しいのか?」

 舞衣が気づいて、椅子の背もたれから振り向いた。

「馬鹿か。俺はちびっ子じゃねえよ」
「でもあんた、『かまってちゃん』でしょ」
「はあ!? ちげーよ! どこがだよ!」

 翠が顔を真っ赤にして怒ると、舞衣が、

「だって、あんたは何か言いたいことがあると、後ろからじっと見つめるじゃない。熱い視線を」とおもしろそうに言った。

「いつ俺がそんな女々しいことしたよ!?」
「……自覚ないのかよ」

 今度はあきれたように溜め息を吐く舞衣に、ああ、全然勝てない、と翠は思った。いつだって彼女のほうが一枚上手だ。悔しいような心地いいような、ぼやけた感覚に揺られる。

「仲いいわねえ、あなたたち」

 年配の保険医がほんわりと言った。もう一人の保険医も、ニコニコと微笑ましそうに見ている。

「そりゃあ、こいつ、かわいいですからねえ」

 舞衣がしれっと言い放ったので、翠は口にしていた売店の麦茶を吹き出しそうになった。

「ねえ、的場、この子かわいいよね」
「うん。弄りがいがあるわ」

 舞衣と的場がクスクス笑い合って、翠は次に口にする暴言を考えていたが、沸騰した頭は見当はずれの台詞しか出てこず、わなわなと震えるばかりだった。
 スッとした、控えめな目もとと奥ゆかしい顔立ちとは裏腹に、的場は少々からかい好きのようだった。
 
 食べ終えた弁当箱を抱えて、席を立つ。「あ、図書室?」と声をかける舞衣を無視して、保険医二人に頭だけ下げると、翠はバタンと扉を閉めた。

 教室に戻り、他人の笑い声であふれた中にある自分の机に行き、鞄に弁当箱をしまって、南の階段へ向かうと、舞衣が先に待っていた。

「図書室でしょ?」

 舞衣は当然のように翠の行きたい場所を言い当てた。

「……神出鬼没かよ、お前」
「先輩に向かってお前呼ばわりしない!」

 また無視してスタスタと階段を上ると、舞衣はさっと駆け上がって翠の前をずんずん進んだ。相変わらず自分が主導権を握りたがる女の子だ、と翠はあきれ気味に思った。

「図書室が地下じゃなくて上にあるっていいよね。やっぱりお日様の光、浴びたいし」
「ふーん」
「三階なのもポイント高いなあ。上過ぎず下過ぎず。窓見るとちょうど空と地面が絶妙なバランスでさ」
「確かに景色はいい。落ち着く」

 何気なく口にした言葉に「だよね!? この感覚わかってくれる人ほかにいないと思ってた!」と舞衣は異様に喜んだ。

「はしゃぎ過ぎだろ」ぴしゃりと言い放っても彼女は、

「最近、私、ファンタジーにはまってるの。あんたはミステリーだったね」と明るく返す。とことん自分のペースに巻き込みたいらしい。翠も観念して彼女に歩幅を合わせた。

 三階に着き、南側の廊下に面している、木の色をした大きな扉を開く。
 日の光が当たって、少しだけ明るい色合いに染まったドアノブを下げる。
 カチャン、と軽やかな音がした。
 
 中に入ると、昼休み中の図書室はけっこう生徒がいて、周りに注意してささやき合いながら、静かに本棚を探す者であふれていた。
 この部屋は一階の保健室の次に広い大部屋で、蔵書数はちょっとした自慢になるほどだ。
 
 文庫本のコーナーに寄ると、二人は自然と各々好きに行動し始めた。
 翠は巨匠と名高いミステリー作家の列へ。舞衣は外国のファンタジー文学のところへ。
 しばらく本棚を眺め、適当なものを物色し、受付カウンターで図書カードに貸出しのデータを入れてもらうと、空いているテーブルでそれぞれの持ち出した本を見比べた。
 
「アガサ・クリスティーか。王道だね」
「まだ読み始めて間もないから。もう少ししたらマイナーなのも読んでみるつもり」
「ミステリーって、本格派とそうじゃないやつって区別されているけど、あんたはどっち?」
「どっちもいいところがあると思うから、両方だな」
「そうなんだ。私はこれにしたー」

 舞衣の差し出した本は、外国でベストセラーになったシリーズものだった。

「それ、どっちかっていうとSFじゃね?」
「え、マジ? ハイファンタジーかと思ったんだけど」
「俺、SFとハイファンタジーって、あまり区別がつかないんだけど」
「私もー。読書家から見たら、私たちって本のミーハーかもね」

 舞衣がおかしそうにクスクス笑う。その横顔を見て、鼻筋のラインがきれいだな、と思った。

 別のテーブルで勉強している生徒たちがいるので、ひそひそささやくような声で言葉を交わしていたが、知らず盛り上がっていたようで、ちらりと視線を向けられた。
 
 あわてて声を落として、作家のプロフィール欄のページをめくる。
 
 翠も舞衣も、壮大な物語を紡いだ作者の著作歴を見るのが好きだった。
 どこで生まれたのか、どんな学歴だったのか、どのようにして作家デビューしたのか、それこそ一人の人生の物語を見るみたいで、わくわくした。
 
 最初にそのことを舞衣に告げた時も、
 
「こんな趣味持ってるの、私しかいないと思ってた」と彼女はパッと花が咲いたように笑った。

 気がつけば、二人は一緒に図書室へ行く仲になっていた。
 
「この作家、遅咲きだったんだね。四十代でデビューだって」

 舞衣がこっそりとささやいた。生まれ年とデビューした年を計算していたらしい。

「この人のほうは三十代デビューだな」

 翠も手にした作家のデビュー年を数えた。

 楽しいと思った。
 彼女といる時間が、いつしか癒しになっていた。
 自分一人きりで図書室に通って本を物色していたあの時が、まるで遠い過去のように思えた。
 無理にしっかりしなくてもいいというのは、飾らないでいいということは、翠にとって大きなことだった。

 あら、かわいい子ね。

 初めて会った時、彼女はそこらへんにいる野良猫を見つけたかのような調子で、言った。

 デイケア組?

 彼女が何の気なしに尋ねたので、翠はこくりとうなずいた。

 ボランティア部に遊びに来ていた彼女とは、その日は二言三言交わしただけで終わった。
 
 しばらくしてまた会い、日常会話のような他愛のない話をして、別れ、そして数日後、再び会って少し深い話をして、気がつけば自分の隣に彼女は歩いていた。
 
 そして同時に、妹はどこか遠くへ行った。
 
 自分が遠ざけた。後悔はなかった。むしろ清々しかった。
 
 それなのになぜ、時々、胸がつぶされそうに痛むのだろう。
 
 本を開き、文字を追うことに集中し始めた舞衣を邪魔しないように、自分も読書にふける。お互いがお互いのペースを乱さないこの関係が、何よりも心地よかった。

「保険係になんかならなきゃよかったなあ」

 ふいにその言葉だけが翠の耳に大きく響いた。周りを気遣うひそひそささやくような声だったのに、なぜか矢を放つようなスピードで突き刺さった。

「うちのクラスにさあ、移ったやつなんだけど、これが大変で」

 今朝、翠を保健室まで連れて行った彼の声だった。男子にしては少し抑え目な声が、溜め息交じりに吐き出された。

「体育なんかできるわけがないのに、聞かん坊みたいに出まくってさ、それでお約束のように倒れるの。笑っちゃうだろ」

 彼の友達が一笑した。

「女子たちがさあ、もう、かわいそうって感じで、優しくしてて。皆が皆そいつの面倒見てくれてるの。どこの箱入り息子だよ」

 まあ、顔がいいから。まさか一番楽そうだった係が、こんなことになるなんて思わなかったよ。

 二人の男が笑い合っている。翠のすぐ後ろで、翠と同じように本棚を眺めている。そして一冊の本を取り出して、翠のすぐそばを、気づかずに通り過ぎていく。
 
 一瞬、彼の持っていった本の背表紙が見えた。研究資料のようだった。
 
「外に出ようか」

 舞衣の声が聞こえた。聞き心地のいい柔らかな甘い声。

「今日、いい天気だし」

 翠が答える間もなく、舞衣は席を立ってスタスタと歩いていった。

 翠は凍りついて動かなくなっている全身を何とか動かし、強い衝撃を受けたような痛みに揺れている頭を抱えながら、彼女に追いつこうと図書室を出た。

「あのさ」

 翠は、一階に下りて中庭へ出た舞衣の背中に声をかけた。

「別に、あの男のこと何とも思ってないから。好きでもないやつに勝手なこと言われても、どうでもいいから」

 舞衣は翠のほうを振り向いて、つぶやいた。

「嘘ばっかり」

 彼女の目は真剣だった。

「他人の言葉が一番怖いくせに」

 翠は、ぐっと黙った。舞衣の甘い声が一段低くなって、重いトーンになった。

「本当は、恋しいんでしょ? あのデイケア組が」

 舞衣は文庫本を抱えて、再び翠に背を向け、日の当たる場所に出た。

「私には虚勢はらないでよ」
「虚勢なんかじゃない」

 意識せずに出た声は、情けないほどかすれていた。

「強くなりたかったんだ。できる人間だって思いたかった」

 俯いて、地面に生えている芝生を見つめる。人工的に植えた草。人の手で作り出された草。

「あそこは、ぬるま湯みたいで、気持ち悪かった。だから出て行きたかった。逃げたいわけじゃなくて、先に進みたかった」

 その進んだ先に何があるのか、考えもしないで。

 翠は顔を上げた。舞衣がこちらを見つめていた。舞衣の茶色い髪が、太陽の光を浴びて、ふと透けたような色になった。

「変わるよ」

 舞衣の声は力強かった。

「一学年上がれば、きっと皆、大人になる。一つ年を重ねるだけで、こんなに違うんだから。だからこんなことで悲しまないで」
「悲しくなんかない」

 翠は懸命に否定した。こんな些細な悪口でショックを受けている自分が許せなかった。

 舞衣は眉尻を下げて笑った。しょうがないなあ、と翠に近づき、手を取った。

「昼休み終わっちゃうから。今日はここまで。明日また会おうね」
「……うん」

 舞衣は翠の手を強く握った。そして合図をするようにニコッと笑うと、手を離し、中庭からホールに入る中扉を開け、校舎へ戻った。

 五時限目の予鈴が鳴るまで、翠はしばらくそこに佇んでいた。

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