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第三章 青花翠

十四

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「保健係、あとは頼むぞ」

 体育教師に背負われて本校舎の校門に着き、クラス全員の目に見つめられながら、翠はよろよろと二人のクラスメイトに腕を引かれて、保健室のほうへ歩いた。

 体育教師が自分を探している間、クラスの皆がどんな話をしていたのか、簡単に想像できた。
 
 あいつ、まただよ。もう体育出ないほうがいんじゃないの? 何で出るの? 迷惑かけんなよ。
 
 彼らはこういう会話を、翠に直接聞かれないように陰でかわすのが、実にうまい。巧妙に翠のいない隙を狙って、翠がどれだけ自分たちのクラスの足を引っ張っているのか語り合うのだ。
 
 こんなクソみたいなクラス、早く無くなってしまえばいいのにと、翠は仕返しに思っている。それが態度に現れているようなので、翠の周りから人が消えるのは案外早かった。もともといたわけではないが。
 
 体育教師のもとに集まる皆の楽しそうなざわめきから外れて、翠は二人の保健委員に支えられながら、下駄箱で上履きに履き替え、ホールを通って保健室へと入った。

「青花、やっぱりデイケア組に戻ったほうがいいよ」

 扉をノックする間際、普段は温和な性格で知られている、控えめな顔立ちの男子が、つぶやいた。

「それ、喘息だろ? 今日だけじゃなくて、普通の授業でもしょっちゅう発作起こしてるじゃん。
 俺はよく知らないけど、喘息って、深刻なやつって聞いたよ。
 お前の場合はまさか死にはしないだろうけど、やっぱりさ、無理だよ。ハンデを抱えた人が、その、普通の人と一緒に……ていうのは、まだ難しいんだと思う」

 男子生徒は丁寧に、それとなく言葉を濁して言った。左側についている、だいぶ背の高い男子のほうも、黙って相方の話を聞いている。そして同意するようにうなずく。

「せめて体育だけでも休んだら?」

 男子生徒は気遣うように声色を変えた。

「……普通学級に、体育は必須科目だろ」

 翠は苦しく息を吐きながら、言葉尻を強めた。

「でも、身体の弱い人は大体が見学しているよ」
「俺はそんなやつらと一緒のカテゴリーに分けられたくない」

 男子生徒はあきれたように溜め息を吐いた。

「お前は普通の人間じゃないじゃん」

 じゃあ、お前たちは? お前たちは何をもって、自分たちを普通の人間だと思い込んでいるのか。いつ俺たちが「普通以下」の人間だと区別したんだ。デイケア組のことを知りもしないで、よく面と向かって自分たちは優しい人間ですと言えるな。

 喉元まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込み、何かに熱く燃えたぎっている心臓の鼓動を感じながら、翠は保健室の扉を開けた。
 
 保険医がすぐに来て、
「青花君ね。そこに座って」と的確な指示を出した。

「保健係さん、いつもありがとう」と若い保険医が笑いかけると、男子生徒二人は照れたように頭を掻いて、「じゃあ、またな」と去っていった。

 大人の前で、まるで友達のように振るまった二人に、軽く殺意を抱きながら、翠は指定された奥のベッドにドサッと倒れ込んだ。

「まずは水を飲みなさい、水を」と年配の保険医が、小さな冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いで翠の前に持ってきてくれた。だるく身体を起こして水を飲み干す。

「二時限目は、ここで休みなさい。私、あなたの制服持ってくるから」と年配の保険医がカーテンを閉め、早足に保健室を出た。

 若いほうの保険医が、「今日の昼休みの当番は、一組の飯塚さんと的場さんです」と柔らかく告げた。
 
 翠は目だけで了承の合図をし、布団をかぶって壁側を向いた。
 
 若い保険医が察したようにその場を離れ、タイプライターらしきものを打つ音だけが、部屋に響いた。
 
 今日は舞衣が来る日か。あいつに借りた本、まだ読み終わってないや。
 
 うつらうつらしながら彼女のことを思っていると、年配の保険医が帰ってきた気配がした。保険医はそっとカーテンを開けて、眠りに落ちかけている翠のベッドの端に制服を置くと、自分の持ち場に戻っていった。
 
 母親のような深い優しさに包まれているような気がして、家族のことを思い出した。父、母、そして妹。あの三人は、自分のいない家でも、いつも通りに過ごしているのだろうか。
 
 決まった週に必ず、三人からの手紙が来るが、翠は両親にしか返事を書かなかった。
 
 たった一度、最後の別れのつもりで、一冊の愛読書と、それに沿った一行の文章を当てて出したことを除いては。
 
 妹は、いつになったら自分のことを忘れてくれるのだろう。

   ○

 十時半頃に起きて、カーテンの中で制服に着替え、休み時間に一度教室に戻った。

 クラス全員分の視線が一瞬そこに止まり、すぐにもとの友達のところに戻って、何でもないように話し出す。
 
 この光景もだいぶ慣れた。ロッカーに体操着を戻して、次の授業の教科書を出し、机に着いてノートを開くと、デイケア組時代に夏央たちから熱心に聞き取った、メモの殴り書きが残っていた。
 
 そっか、このノートにも書いてあったっけ。
 あちこちの授業ノートにいろいろなことを書いてきたせいで、どのページを切り取ってファイリングしていたのか、すっかり忘れてしまっている。
 
 ペンケースからカッターを取り出し、メモの欄を切り取る。多少ガタついてしまったが、割ときれいに切り取れると、鞄に毎日入れているファイルに、新しい一枚を入れた。
 
 大人になればきっと変わるよ。
 
 いつか誰かが言っていた。
 誰の台詞だったのか、もう記憶が定かではない。
 子どもと言わると腹が立つが、大人と言われても、少しむっとする。自分はそんな完璧な存在じゃない。でもポンコツとも言われたくない。結局、自分はどっちに転ぶのだろう。大人か、子どもか。またはそのどれでもないのか。
 
 翠は気だるい気持ちで、次の授業の予鈴が鳴るのを聞いていた。

   ○

 教室に自分の居場所はないので、昼休みになるとさっさと弁当箱を持って、保健室へ向かった。

 舞衣に返すための本も準備して、職員室の対面にある、大きな間取りの部屋の扉を開ける。
 
 すぐそこに彼女の姿があった。
「保険委員」とネームプレートを胸に下げて、二人の保険医と一緒に仕事をしている。
 もう一人の的場まとばという保健委員の女子生徒は、壁の本棚の整理をしている。

「舞衣」
 声をかけると、飯塚舞衣は、翠の差し出した本を受け取って、

「おもしろかったでしょ?」と得意げに言った。

「実は全部読む時間がなくて、飛ばして読んだ」
「えー、ちゃんと読めよー」
 
 舞衣は唇を尖らせた。

「だって今の俺ほとんど一人暮らしだもん。部屋の掃除も洗濯も、自分でしなきゃならないし」
「学生寮はコインランドリーとクリーニング部屋が備えられているし、食事も三食ちゃんと作ってくれるでしょーが」
「それでも家にいる時と違うんだよ」

 翠が多少むきになると、舞衣は、
「まあ、学校の課題もあるしね」とあっさり引いた。

 彼女のいいところは、言葉の駆け引きが上手いところだ。相手の感情を敏感に感じ取り、その場の空気が悪くならないように最善の注意を払う。翠に限らず誰に対しても態度を変えないので、きっと彼女を信頼する仲間は多いのだろう。

 飯塚舞衣は、一つ年上の二年生で、夏央と同じ保健委員だった。

 週に二日保健室で作業をこなし、夏央と入れ違いにここへ来る。毎日のように保健室で昼休みを過ごす翠は、頻繁に出会う夏央や、舞衣などの上級生たちと、だいぶ話せるようになっていた。舞衣と同じクラスであり友達の、的場という女子生徒も、優しくて気遣い上手な先輩だ。
 
 同じ学年のクラスメイトより、余裕のある落ち着いた上級生たちと関わるほうが、楽しかった。
 
 彼らは一つ学年が違うだけで、見違えるほどに大人な対応をしてくれた。年が一つ上になると、これほどまでに成長するのかと、翠は彼らをまぶしく思った。自分もいつか、こんな風になれるのだろうかと。
 
 広いテーブル席で、食堂の料理担当のものが作ってくれた昼ご飯を食べていると、舞衣がすっと横に座った。

「あまり意気地になりなさんな」

 一時限目の体育の騒動のことを言っているのかとすぐに気がついた。

「お前らみたいな人間にはわかんねーよ」

 ふんと鼻を鳴らすと、舞衣は困ったように笑って「まーた、そういうこと言う」と頬杖をついた。

「あんたは普通扱いしてほしいのか、気遣ってほしいのか、どっちなのよ」
「どっちでもねーよ」
「曖昧だなあ」

 舞衣はそう言うと話題に興味を失くしたらしく、再び保険医の机のところに戻った。そして的場と楽しげな会話をしながら、チェックリストらしきものを作成している。翠は無言でご飯を口に入れた。

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