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第三章 青花翠
十三
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記憶の中の妹は、いつも泣いていた。
厳格な祖母に叱られ、両親も働いていて家を留守にしていたため、泣きつく先は必ず兄の自分のところだった。
翠はその時、この無力で小さな妹を突き放したら、置いていったら、どうなるのだろうという思いにかられた。
それは唐突で、現実味のない邪念だったけれど、やけにリアルに翠の頭にこびりついていた。
祖母は、妹のほうをよく叱っていた。泣きわめく頻度が自分より多かったからだ。翠は身体の具合の悪さでだるく沈んでいたことはあっても、喘息が起こる夜以外は、わりと静かだった。悪目立ちしていたのは、たいてい妹だった。
翠の記憶に鮮明に残っているのは、大学病院の診察室だ。
大人の男の先生が、聴診器を翠の胸に当てて、真剣な顔で考えていた。診察台のベッドに寝かされ、何やらごちゃごちゃした機器をつけられた。あの時の母の不安そうな顔は、ずっと翠の脳裏に焼きついている。妹も一緒に連れられて、父の付き添いで診察を受けた。
「ぜんそく」という言葉は、当時の自分にはまだぴんと来なかった。診察を終えて会計待ちの座席に座っている時、母が妹の手を握って、父の横顔を、果てのない悲しみのような表情で、見つめていた。
父は、一言、「嘆いても何も始まらんぞ」と言い切った。それは突き放しているようで、どこか温かみのある言葉だった。
翠たち四人家族は、黙り込んでいた。
帰り道、母がレストランで昼食を取ろうと言い出した。
「だってこんな時間になっちゃったじゃない」と明るく言い、近くの大型ファミリーレストランを見つけた。その声はどこか無理のある明るさだったが、父も合わせて、「お前たち、何が食べたい?」と優しく問いかけた。
翠は妹の手を握って車道側を歩きながら、「ラーメン」と言った。すると両親はおかしそうに、「もう少しほかのものも食べなさい」と笑った。
翠はどことなくほっとした。妹は頭が痛むのか、翠の手をギュッときつく握りしめて、俯いていた。
昼時が近い病院からの帰り道は、車が頻繁に走っていて、翠は、歩行者の白線の内側に妹を歩かせた。親からのいいつけで、それはもう身に沁み込んでいた習慣だった。
空の色は、まだ思い出せない。
○
三学期が始まった真冬の雲一つない晴天。翠はジャージのファスナーをしっかり締めて、持久走の準備運動をしていた。
周りの生徒たちは、適当に身体を動かしながら、仲間と気だるげな会話をしている。日光が気持ちいいのか、寒い寒いと言いながら、女子たちは互いの手をさすり合っている。
翠は一人外れたところで、身体を温かくさせるために、手や足をのばしていた。準備運動さえしっかりやっていれば、少なくとも倒れるようなことは、いい加減ないだろう。
体育教師が合図をして、皆は一列に並んだ。翠は一番端の位置に行き、深く息を吸った。笛が吹いた。わっと皆が一斉に走り出した。友達同士と並びながら、三十人の生徒たちは思い思いに固まって、校舎一周の持久走に励んだ。
真冬のランニングは気持ちがいい。冬は早朝がいいものだと枕草子が書いていたが、長い時を経た今の日本でも、それは当てはまるようだ。しんと冷えた空気に風が頬を撫で、吐く息が白く見える、一時限目の授業。翠は皆に遅れないように、走るスピードを調整しながら、夕莉のいるデイケア組の校舎の裏を周るため、生徒たちの後ろをついて行った。
下り坂に差し掛かり、草木の生い茂る裏道を慎重に走る。下りの走りは勢いがつくが、スピード調整が難しい。ここでバランスを崩す者も少なくない。自分もその一人なのだが。
今日は大丈夫。そう言い聞かせて、翠はチラッと、デイケア組の校舎を見た。
窓に目をやると、窓際の生徒たちのほぼ全員が、つまらなそうに頬杖をついて外を眺めていた。よっぽど退屈な授業なんだな、と翠はおかしくなった。
夕莉を探していた。無意識に。名字は最初だから、席替えをしていなければ、最前列の窓際の席のはずだ。注意深く視線を動かしたが、夕莉の姿は見えなかった。学校を休んでいるのだろうか。自分は今、実家にはいないので、妹の事情は分からない。
自分は妹を捨てた。そのはずなのに、今もなお面影を追っている。自分の片割れを。分身を。
校舎を過ぎ、坂を下り終え、Uターンして上り坂に差し掛かる頃、息が切れ始めた。とたんに呼吸が苦しくなり、ゴホッ、と嫌な咳が喉から出た。徐々に失速する。
だめだ。倒れてはいけない。迷惑をかけてはいけない。自分はもう普通の人間なのだから。
翠は懸命に自身に言い聞かせた。けれど足がもたつき、重くなった。汗が噴き出ていた。ジャージのファスナーを開けて半そで姿になる。腰にジャージを巻き付け、息を大きく吐いて、吸ったりしながら、緩やかな傾斜を進む。
上り坂は皆にとってもきついらしく、すでに歩いている生徒がいた。せめてこの人には負けたくないと思い、走る速度を落とさずに坂を駆け上がる。先まで、あと少し。上り坂を超えたら、次は本校舎に戻るだけだ。できる。もう何度も失敗したのだから、今度こそは走り切る。
それでも、息は途切れ始めていた。翠の意思とは裏腹に、身体は悲鳴を上げている。急に、目の前が暗くなった。大きな黒い丸穴が点々と、視界に見え始めた時、景色がぼうっと色を失くし、頭が非常に熱くなった。
坂を上り切ったと思った瞬間、体重を支え切れなくなって、翠はガクンとそのまま地面に倒れた。
○
厳格な祖母に叱られ、両親も働いていて家を留守にしていたため、泣きつく先は必ず兄の自分のところだった。
翠はその時、この無力で小さな妹を突き放したら、置いていったら、どうなるのだろうという思いにかられた。
それは唐突で、現実味のない邪念だったけれど、やけにリアルに翠の頭にこびりついていた。
祖母は、妹のほうをよく叱っていた。泣きわめく頻度が自分より多かったからだ。翠は身体の具合の悪さでだるく沈んでいたことはあっても、喘息が起こる夜以外は、わりと静かだった。悪目立ちしていたのは、たいてい妹だった。
翠の記憶に鮮明に残っているのは、大学病院の診察室だ。
大人の男の先生が、聴診器を翠の胸に当てて、真剣な顔で考えていた。診察台のベッドに寝かされ、何やらごちゃごちゃした機器をつけられた。あの時の母の不安そうな顔は、ずっと翠の脳裏に焼きついている。妹も一緒に連れられて、父の付き添いで診察を受けた。
「ぜんそく」という言葉は、当時の自分にはまだぴんと来なかった。診察を終えて会計待ちの座席に座っている時、母が妹の手を握って、父の横顔を、果てのない悲しみのような表情で、見つめていた。
父は、一言、「嘆いても何も始まらんぞ」と言い切った。それは突き放しているようで、どこか温かみのある言葉だった。
翠たち四人家族は、黙り込んでいた。
帰り道、母がレストランで昼食を取ろうと言い出した。
「だってこんな時間になっちゃったじゃない」と明るく言い、近くの大型ファミリーレストランを見つけた。その声はどこか無理のある明るさだったが、父も合わせて、「お前たち、何が食べたい?」と優しく問いかけた。
翠は妹の手を握って車道側を歩きながら、「ラーメン」と言った。すると両親はおかしそうに、「もう少しほかのものも食べなさい」と笑った。
翠はどことなくほっとした。妹は頭が痛むのか、翠の手をギュッときつく握りしめて、俯いていた。
昼時が近い病院からの帰り道は、車が頻繁に走っていて、翠は、歩行者の白線の内側に妹を歩かせた。親からのいいつけで、それはもう身に沁み込んでいた習慣だった。
空の色は、まだ思い出せない。
○
三学期が始まった真冬の雲一つない晴天。翠はジャージのファスナーをしっかり締めて、持久走の準備運動をしていた。
周りの生徒たちは、適当に身体を動かしながら、仲間と気だるげな会話をしている。日光が気持ちいいのか、寒い寒いと言いながら、女子たちは互いの手をさすり合っている。
翠は一人外れたところで、身体を温かくさせるために、手や足をのばしていた。準備運動さえしっかりやっていれば、少なくとも倒れるようなことは、いい加減ないだろう。
体育教師が合図をして、皆は一列に並んだ。翠は一番端の位置に行き、深く息を吸った。笛が吹いた。わっと皆が一斉に走り出した。友達同士と並びながら、三十人の生徒たちは思い思いに固まって、校舎一周の持久走に励んだ。
真冬のランニングは気持ちがいい。冬は早朝がいいものだと枕草子が書いていたが、長い時を経た今の日本でも、それは当てはまるようだ。しんと冷えた空気に風が頬を撫で、吐く息が白く見える、一時限目の授業。翠は皆に遅れないように、走るスピードを調整しながら、夕莉のいるデイケア組の校舎の裏を周るため、生徒たちの後ろをついて行った。
下り坂に差し掛かり、草木の生い茂る裏道を慎重に走る。下りの走りは勢いがつくが、スピード調整が難しい。ここでバランスを崩す者も少なくない。自分もその一人なのだが。
今日は大丈夫。そう言い聞かせて、翠はチラッと、デイケア組の校舎を見た。
窓に目をやると、窓際の生徒たちのほぼ全員が、つまらなそうに頬杖をついて外を眺めていた。よっぽど退屈な授業なんだな、と翠はおかしくなった。
夕莉を探していた。無意識に。名字は最初だから、席替えをしていなければ、最前列の窓際の席のはずだ。注意深く視線を動かしたが、夕莉の姿は見えなかった。学校を休んでいるのだろうか。自分は今、実家にはいないので、妹の事情は分からない。
自分は妹を捨てた。そのはずなのに、今もなお面影を追っている。自分の片割れを。分身を。
校舎を過ぎ、坂を下り終え、Uターンして上り坂に差し掛かる頃、息が切れ始めた。とたんに呼吸が苦しくなり、ゴホッ、と嫌な咳が喉から出た。徐々に失速する。
だめだ。倒れてはいけない。迷惑をかけてはいけない。自分はもう普通の人間なのだから。
翠は懸命に自身に言い聞かせた。けれど足がもたつき、重くなった。汗が噴き出ていた。ジャージのファスナーを開けて半そで姿になる。腰にジャージを巻き付け、息を大きく吐いて、吸ったりしながら、緩やかな傾斜を進む。
上り坂は皆にとってもきついらしく、すでに歩いている生徒がいた。せめてこの人には負けたくないと思い、走る速度を落とさずに坂を駆け上がる。先まで、あと少し。上り坂を超えたら、次は本校舎に戻るだけだ。できる。もう何度も失敗したのだから、今度こそは走り切る。
それでも、息は途切れ始めていた。翠の意思とは裏腹に、身体は悲鳴を上げている。急に、目の前が暗くなった。大きな黒い丸穴が点々と、視界に見え始めた時、景色がぼうっと色を失くし、頭が非常に熱くなった。
坂を上り切ったと思った瞬間、体重を支え切れなくなって、翠はガクンとそのまま地面に倒れた。
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