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第二章 伊織佳純

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 廊下を突き抜けたところにある保健室へ入ると、夕莉が「先生」と保険医のほうへ駆け寄った。

 保険医はまるでずっと待っていたかのように、柔らかな笑みを携えて「青花さん」と夕莉の肩に手を載せた。
 
「青花君。お友達が来てくれたよ」

 保険医が奥のカーテンをそっと開けて、中の様子を見た。続けて「……友達?  舞衣か?」と、あの懐かしい低い声が聞こえた。眠いのかどことなくとろんとしている声が、余計に懐かしさを増幅させた。

 カーテンの奥から、翠が現れた。

 しばらく経った間に背が伸びたのか、身体つきがほんの少しだけ大きくなったような感じがした。
 
 切れ味鋭い刃物のようなスッとした目に、困惑したような瞳が、その場にいる者を捉えていた。
 
「久しぶりだな、翠」
 
 夏央が代表して彼に挨拶をした。

「ああ、久しぶりです。すみません、ずっと忙しくて……」

 翠は夏央を見るとほっとしたように笑顔を浮かべた。「冬華先輩も久しぶりですね」と言いながらベッドから下りて、二人に歩み寄ろうとした。

 その時、夏央と冬華の陰に隠れていた夕莉が、ひょこ、と顔を出した。

 佳純も続けて翠の前に姿を見せたが、彼は自分には目もくれていなかった。
 
 妹の姿を見て、時が止まったかのように硬直していた。
 
 そして見る見るうちに、その冷たい美貌が殺気を漂わせた。
 
「お兄ちゃん」

 夕莉はそのことに気がついていないようだった。

「久しぶり。身体は大丈夫?」

 当然のように兄を気遣った妹に、翠は、突き刺すような鋭い視線を向けた。

「何でここがわかった」

 押し殺したような声に何かを感じ取ったのか、夕莉がおびえたようにビクッとした。

「一般クラスに移ってから、ずっと体調悪いって聞いて、お兄ちゃんのクラスの出し物に皆で行ったんだけど、いなくて、保健室にいるって言われたから」

 たどたどしく説明する夕莉に、翠はこれ以上ないほど殺気じみた瞳で、がなった。

「出て行けよ」

 その場にしんとした沈黙が流れた。皆が彼の威圧感に負けてたじろいでいた。

「あの、私、ずっとお兄ちゃんのことが心配で」
「うるせえんだよ!!」

 夕莉の紡いだ言葉を、翠は怒声で叩き潰した。夏央たちまでもがどうしたらいいのかわからず、互いに困惑した表情で見つめ合っていた。

「何でこうも俺の前に現れるんだよ! もういい加減離れろよ! 俺がどんな思いで……!」

 そう言いかけたところで、突如ドアが開いた。

 何のためらいもなく入ってきた一人の女子生徒に、全員が唖然とした。
 
 佳純は彼女を見ると「あっ」と小さな声を上げた。
 
 あの時、同じように堂々とデイケア組に入ってきた女子生徒―飯塚舞衣がいたのである。
 
「ま、舞衣?」

 夏央と冬華がそろって素っ頓狂な声を上げた。やはり彼らは知り合いらしい。

「あら、失礼。お取込み中?」

 舞衣はすました声で、冷静に事の状況を把握した。

「翠を迎えに来たんだけど。倒れたって聞いたから」

 先ほど夕莉が言ったこととほぼ同じことを言いだした舞衣に、ただ一人、翠だけが返事をした。

「ああ。来てくれてありがとう。一緒に帰ろう」

 翠は誰の顔を見ることもなく、保険医から学生鞄をひったくって、夕莉の横を通り過ぎた。

 妹に一瞥すらくれなかった。
 
 佳純は隣にいる夕莉から、あふれ出ている激情を、受け止めきれずに逸らした。
 
 翠は舞衣のもとへ行き、「いきなり大声出してすみませんでした、先生。それじゃあ先に失礼します。夏央先輩、冬華先輩、お元気で」としらじらしい挨拶をすると、バタンと無情にドアを閉めた。
 
 その場にいる誰もが動けなかった。

「何で」

 夕莉がこらえきれなくなったように、一言つぶやいた。

「何で。何でよ。ちゃんと言ってよ」

 夕莉の息が上がり始めた。ついに彼女はしゃくり上げて、その場に泣き崩れてしまった。

 苦しそうに息を吐き、頭痛が起こったのか、頭を両手で抱えてしゃがみ込んで、「うぅ……」と喘いだ。
 
 倒れてしまった夕莉を保険医と介抱しながら、佳純は、気まずそうに顔をしかめている夏央と冬華に、言葉をかけた。
 
「先輩、話してください。飯塚舞衣さんと、あなたたちは、どういう関係なのか」

 夕莉を空いていたベッドに運びながら、夏央と冬華も観念したようにソファーに腰かけると、佳純に事情を話し出した。

 翠と飯塚舞衣が初めて出会ったのは、ボランティア部がデイケア組に接触した頃だった。

 翠はその時、夕莉に付きっきりで登下校していた。夕莉に気づかれないうちに一般クラスに接触するのは、昼休みの時しかなかった。翠はその時間を有効的に活用して、昼の活動をしているボランティア部に、たびたび会いに行っていた。

 飯塚舞衣は、夏央と冬華の腐れ縁だった。

 彼女は保健委員会の副委員長で、昼休み時間に、週に二回、保健室に滞在していた。

 夕莉と面識がないのは、昼休みは佳純と一緒に弁当を広げているからだろう。
 
 翠はその間、夏央たちのところに行き、彼らを通して舞衣と知り合った。
 
 次第に翠は彼女と仲良くなった。
 
 その時から、彼の妹離れは始まっていたのだろう。なぜ急に夕莉を拒絶するようになったのかは理由が掴めないが、翠は「外」の世界に憧れを抱き始めた。
 
 デイケア組に甘んじることは、翠にとって、許しがたい屈辱なのだろう。彼は佳純たちの組を出て行きたくなったのだ。夏央たちと出会ったあの日から。

   ○

 佳純はそこまで聞くと、ベッドで寝込んでいる夕莉に真相を告げた。夕莉は泣きながらも、しっかりと兄の事情を聞きとっていた。

 話を聞き終えると夕莉は一言「ごめん。弱くて」とか細い声で言った。佳純は曖昧な笑みだけを浮かべた。
 
 夕莉が落ち着くまで、佳純は保健室で待っていた。

 後夜祭を控えた空は、橙色の夕暮れを地平線に残して、青々と深くなっていた。夏央と冬華は周りとの付き合いがあるため、最後まで佳純たちに詫びながら、保健室を先に出て行った。
 
 佳純は薄暗い青の空に佇む薄い雲を、窓越しに見上げながら、実家で暮らしていた頃の、広々とした空と重ね合わせていた。
 
「お兄ちゃんが、寮にまで入ったのは、私のせいだったのかな」

 夕莉の声が途切れ途切れに聞こえたのは、後夜祭が始まって、皆の楽しそうなざわめきが聞こえ出した頃だった。

「私はずっと嫌われていたのかな」

 彼女のあきらめに満ちた声に、佳純も思わず過去の一部を吐きだした。

「私も、ずっと兄に嫌われていたから大丈夫。あなただけじゃないよ」

 夕莉が驚いたように身体を起こした気配が、カーテン越しに伝わった。佳純は「そろそろ帰れる? あとで先輩たちにメールしておこう」と言って、夕莉の学生鞄を持ち出し、ソファーから立ち上がった。

 カーテンが開いて、夕莉が泣きはらした目でベッドから下りた。「鞄、ありがとう」と言いながら佳純から荷物を受け取り、黙って状況を見守っていた保険医に頭を下げながら、二人は学校から帰った。
 
 帰り道、佳純は校門を抜けようとした夕莉を止め、こっそりと、後夜祭で盛り上がっているグラウンドへ足を運んだ。皆に見つからないようにそっと、木の茂みに隠れたベンチに腰かけて、訥々と、夕莉に過去の家のことを話した。

 記憶をたどると、死んでもいないのに、まるで走馬灯のように、兄たちの顔が一人一人浮かんできた。
 
「私は」

 これは絶対に誰にも言わなかった過去だ。それを今、言う。友達のために。自分の分身のために。

「兄に、二階の窓から突き落とされたの」

 夕莉が息をのんだ。これを話したら自分は息ができなくなるのではないかと思っていたが、意外にも頭は冷静で、呼吸は正常のままだった。

「私の家はここからすごく遠い田舎の村でね。兄が五人いて、両親と八人家族だった。大家族だったから珍しいってよく言われていたな。
 でも、お母さんが死んじゃってから、お父さんが狂っちゃって。兄たちに事あるごとに八つ当たりしていたの。
 私は台風の目のような立ち位置で、私だけ父に愛されていて穏やかだった。
 それで、落とされちゃった。二階から」
「……誰に?」

 夕莉がおずおずと訊いてきた。佳純はありのままの心情を述べた。

「それが、わからないの。
 突き落された時に覚えているのは、夕暮れ時の、夜が迫った暗い空と、やけに綺麗な夕焼け。
 そして、家の庭の、大きな蜜柑の木。その木に引っかかって私は助かったの。
 八歳の時だったから、記憶に残っているのはそれくらい。
 誰に落とされたのかは、誰も教えてくれない。自分で探し出すしかない」
 
 佳純は、あの時と同じような、深い青に染まった空を見つめ続けていた。夕暮れ時の空は、青だ。橙色の夕焼けは、地平線にしかない。本当の夕暮れとは、深い悲しみのような青い空のことなのだ。

「……少し、昔の話をしてもいい? あなたを救えるヒントが隠されているかもしれない。私とあなたは、似ているから」

 夕莉が決心したようにうなずいた。佳純は心の奥底にしまった記憶の箱を開けて、ゆっくりと、自分の身に起こった出来事を語り始めた。

   ○
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