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第二章 伊織佳純
七
しおりを挟む病院の待合室は今日も混雑していた。学校は外来日で休みとなっている。まだ朝の九時台なのに、この心療内科は人気があるのか、いつでも人が途切れたことがなかった。
佳純は空いた席に腰を下ろして、文庫本を広げた。読むのはたいてい「さらりと読める軽い話」である。佳純にとって「心に突き刺すような」重いメッセージ性のこもった物語は、余計に精神を悪化させるものだった。ティーンズ向けの文庫や少女小説などはまさに流し読みするのにもってこいの話なので、一番多く手に取っていた。
ヒロインがついに相手役の男の子とキスをできそうな雰囲気まで読み進んだところで、名前を呼ばれた。これは王道のラブストーリーなのできっとヒロインは上手く行くのだろうなと思いながら、佳純は本を閉じて診察室に入った。
担当医と挨拶を交わして、近況報告をした。
「友達ができたんですね。それはよかった」
三十代後半くらいの男性医師は、あの時「あなたは運がなかっただけですよ」と言ってくれた恩人だった。左手の薬指にはめられた結婚指輪がきらりと存在感を放っていた。
「あのあと、悪夢は見ていないですか?」
担当医はパソコンに佳純の現在の症状を打ち込んで、確認するように訊いた。
「悪夢は見なくなりました。ただ、明け方に起きる癖がついてしまって」
初めの頃は自分のどんなことを話したらいいのか戸惑って途切れ途切れになっていたが、今ではすっかり言葉が口からすらすら出てくる。
「四時近くに起きてしまって、そのあと寝ようとするんですけど、眠れなくて。結局朝七時までぼうっとしています」
「夜は何時に寝ていますか?」
「十一時前には」
担当医は「ふむ」とつぶやいてカタカタとキーボードを打ち込む。
「伊織さんの年齢は一番眠い時期ですから、確かにちょっと睡眠が足りていないかもしれませんね。授業中に眠くなったりもしないですか?」
「はい。元気です」
「家に帰って昼寝することは?」
「それもないですね」
キーボードがまたカタカタと打ち込まれた。
「聡子さんと稔さんは優しいですか?」
ふいに話題が今の養い主に移った。佳純は一呼吸おいて、はっきりと口にした。
「二人とも優しいです。特に問題ありません」
嘘はついていない。聡子と稔は家族と離別した佳純をここまで育ててくれた。二人はいつだって温かかった。
十五分ほどの診察を終えて、佳純は病院を出た。担当医は人気の医師なので一人に対しての診察時間はどうしても短くなる。あの穏やかな人柄が、見る者を安心させるのだろう。ここの大病院は有名だ。会計待ちも近くの薬局も混んでいる。最初の頃は辟易したがいくらか慣れた今では、こうして文庫本を読みながら待つこともできるようになった。
ようやく会計が終わり、薬局で薬をもらうと、駅まで歩いた。十月に入る空は秋雨前線の影響で灰色に濁っていた。傘をカツ、カツと地面に鳴らしながら向かい、駅構内の大型書店に寄った。
積み上げられている書籍や雑誌などを眺めるのは楽しい。今の話題や流行はこれなのか、とすぐにわかるからだ。世間が何に興味があるのか、佳純は知ることが楽しかった。
話題になっている少女漫画の最新刊を一冊買い、電車に乗った。停車駅で降りて次はバス停に向かう。
バスを待っている間、雨が降り始めた。一応屋根はついているのでなるべく身を縮ませて雨から避ける。やがてザアザアと本格的な降り出しになった頃、バスが遅れてやって来た。「お急ぎのところ大変ご迷惑おかけ致します。ただいま十分ほどの遅れでございます」と運転手のアナウンスのもと車内に入り、奥の二人掛けの座席に着いた。
雨が窓に貼りつく様子を見て、佳純は、こんな時も雨が降っていたなと遠い日のことを思った。
もう記憶から捨てたはずの、捨てたいと願っているはずの過去が、ぼやけた輪郭を持って佳純の頭の奥に鈍い痛みを与えた。
○
長男の兄とは十二歳の差があった。そのせいか長兄のことはほとんど親のように思っていた。長兄は次兄とともに、いなくなってしまった母の代わりの家事や役目を全うしていた。この二人の兄は佳純にとって母親のようなものだった。
三兄と四兄とはほとんど話していない。この二人は反抗期が激しく、夜遊びに没頭して、しょっちゅう家を空けていた。
五兄とは年が近かった。四つの差があったが、彼は親しみある雰囲気で、佳純とよく遊んでくれた。この家にとって、または父にとって、佳純はようやくできた一人娘だった。
父にはよくかわいがられた。兄たちのことを鬼のような形相で怒鳴りつける父も、佳純と接する時は表情を崩して、でれっとした顔になった。
父の大きな手のひらで頭を撫でられる時、上手く力加減ができていないために、少し痛かった。父は体格もよく、母とともに田舎の大きな日本家屋で、五人の息子と一人の娘を育て上げた。
佳純の故郷は日本の中でも特に田舎の地方の村だった。そこで子どもを六人も持つ家は珍しかったので、伊織家はよく目立っていた。両親は明るくて社交的な面があったため、あの時の佳純の世界はまだ平和だった。
母が亡くなり、父が男手ひとつで六人の子どもを育てなくてはならなくなった日まで。
○
ぼんやりと、雨の降る外の景色を見ているうちに、バスは住宅街に入っていた。
はっと気づいてあわてて停車ボタンを押し、バスのほうも、はっと気づいたように止まると、佳純は腰を上げて座席から立ち上がり、バスを降りた。
ザアザア降りだった雨は少し勢いが弱まっていた。
傘を差して住宅街を歩く。東京のこの家に引き取られてからまず驚いたのは、家の小ささと密集具合だった。今のこの家は東京の中では充分大きな部類に入るが、佳純の昔の家はその倍以上はあった。そして空気の淀みにも驚愕した。アリの大群のようにひしめく東京の人々は、この狭苦しい環境に気でも狂わないのだろうか。ここは郊外なのでいくらか静かだが、都心部など佳純にはとうてい行けるはずもない。夕莉と翠はおそらく東京出身だろう。どこか孤高な感じがするのは東京人の特徴だ。
佳純は、まだ自分の出身を話せていなかった。本当は、話すつもりもないのだが。
家の中に入り、聡子から診察代をもらうと、またアイスを食べた。子どもが六人もいた佳純の家は、誰一人として誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントをもらったことがなかった。六人分の出費は痛いからだろうと、今なら納得がいくが、あの頃はアイスを食べることが唯一の娯楽だった。
夕飯は、佳純の好きな生姜焼きだった。
○
文化祭の日が近づいていた。一般クラスの校舎が華やかに飾り付けられるのを、佳純は下校のたびにぼうっと眺めていた。
デイケア組のほうはいつもと変わらぬ毎日である。ただ夏央と冬華があまり顔を出せなくなっていた。
祭りの一週間前になると、ボランティア部は準備期間のため部活動休止となった。夏央たちのいない午後の活動に、クラスはつまらなそうな空気になっていた。
帰りの時刻が来て、校門をくぐろうとすると、そこには色とりどりの装飾がされてあった。ふと本校舎のほうを見上げると、学年ごとの垂れ幕が存在感を露わにしていた。その見事な仕上がりに佳純と夕莉は圧巻した。
「わあ、すごく盛り上がりそう」
「本当に小学校と違うんだな……」
夕莉が呆けたようにつぶやくと、佳純はおかしくなって彼女の腕を組んだ。
「夏央先輩たちからまだ連絡ないね。忙しいのかな」
佳純がそう言うと、夕莉はチラッと視線をやった。
「文化祭、先輩たちと周れなくても、一緒に出ようか」
夕莉がそう発言したことに、佳純は少なからず驚いた。引っ込み思案な彼女の性格を察するに、夏央たちがそばにいてやれないのなら、欠席すると思い込んでいたからだ。
「夕莉がいいなら、いつでも付き合うよ。二日とも出るつもりなの?」
「うん。もしかしたらお兄ちゃんに会えるかもしれないから」
久しぶりに出てきた翠の名に、佳純は少しドキリとした。
今や接点は何一つないのだが、彼の低くて色っぽい声や、整ったクールな顔立ち、そっけない態度など、何一つ忘れたことなどなかった。それは夕莉も同じだろう。
「……翠君のクラス、わかる?」
「二組。先生から聞いた」
夕莉はぐっと悲しげな表情を浮かべると、帰り道を歩きながら、佳純に兄のことを話した。
「お兄ちゃん、一般クラスに移ったけど、やっぱり体力的に、皆についていくのが大変みたいなの。体育の授業で何度も発作起こしたり、ほかにもいろいろ……。体育なんて見学すればいいのに」
「きっと、一度休んだらその分ハンデだと思われるから、嫌なんじゃないかな。皆と対等でいたいんだと思う」
「それはわかるけど……」
夕莉は口ごもると、おもむろに頭を抱えた。苦しそうな息を吐き、側頭部に手をやりながら歩いていた足を止めた。
「頭痛? どっかで休もうか」
佳純が背中を撫でると、夕莉のか細い声が聞こえた。
「大丈夫……。すぐに治るから……」
実際、立ち止まっていた時間はそれほど長くなかった。夕莉は「いたた……」と呻きながらも、再び歩き出した。そして言った。
「お兄ちゃんのこと考えると、頭痛がひどくなって……。もう考えないようにしているんだけど……」
夕莉の悔しそうな声を聞きながら、佳純はあの日、入学式の時に出会ったこの双子の兄妹を、思い出していた。
出席番号順に座らされた講堂の座席。自分の前に、寄り添い合うように二人が座った。
席に着く直前、兄のほうが一度だけ、後ろを振り返って、デイケア組の面子を見た。
その美貌に、釘付けになった。
すぐに妹も兄のほうを向いた。妹もまた可愛らしい顔立ちをしていて、儚い美貌が目に眩しかった。兄は対照的に、耽美的な美しさを秘めた冷たい瞳で、つまらなそうに佳純たちを一瞥した。
その排他的な雰囲気に、佳純の心は持っていかれた。
自分の固い髪質とコンプレックスのそばかすが、これほどまでに恨めしいと思ったことはなかった。
だから、勇気を出して声をかけた。ただ仲良くなりたいとひたすらに願っていた。卑しい気持ちも確かにあった。けれどそれ以上に、この人たちとちゃんと釣り合う関係になりたかった。
兄が離れていったのは、もしかしたら自分のせいじゃないかと思うと、止まらなかった。夕莉に申し訳なくて、二人とも兄の話題を軽妙に避けていた。
夕莉が兄のことを話し出したのは、今日が初めてである。彼女が兄に突き放されて大泣きしたあの時から、夕莉はずっと家族のことについて黙っていた。兄が寮生活をしていることを知ったのも、先生づてから聞いた。
ゆっくりと帰路を歩きながら、二人はそれぞれの過去について沈黙を貫いていた。
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