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本編
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しおりを挟む案内されたホールのどこを見回してもカレンと面識のある人間はいそうになかった。それはどうやら夫のシークも同じようで、少しばかり離れた彼もすぐにそばへと戻ってきた。
「知らない人間ばかりだ。よく考えてみれば俺はそういった筋には知人が少ない」
「私もです。……というより、余所者は私たちの方のようですね」
視線を浴びているのはむしろ私たちだった。おじ様の功績を祝うような場に来る人はそもそも年齢層も違うため話しかけるのも憚られる。出席者の家族や子息子女もいるだろうと考えていたけれど、同じ年頃の出席者は見当たらない。
「俺たちがわざわざこんな場に夫婦揃って呼ばれたのも気になるところだな。何を企んでいるのか」
「えぇ……」
気は抜けない。あの人は目的のためならば何をするか分からない男だと私はよく知っているから。
「俺は今までああいうタイプ……気を悪くしないでくれ、君のおじ上のような話の通じない相手と接したことがないから、何を考えているのか分からん。昔からああだったのか?」
「はい。アレクと私が子どもの頃から……」
頷きかけてふと考えた。なにも物心がついた時からそうだったわけではない。むしろアレクのことに関してはどこか放任しているところもあった。アレクが私や他の同じ年代の子どもたちより秀でていることを知るまでは、厳格ではあったけれど、ときおり優しい表情を見せていたような記憶がある。けれど子どもを溺愛するようなタイプではなかったし、だからこそ突然見せたアレクへの執着心に子供心にも私は恐怖を感じたのをよく覚えている。
「カレン?」
「……ずっと昔は、実家の家門に執着はしていたかもしれませんが、今ほど酷くはなかったかもしれません。どうしてあのようになってしまったのか……私にもよくわからないのです」
「まあ人というのは些細なきっかけで変わってしまうものだ。良くも悪くもな」
「そうですね……」
おじ様を理解したいとは思わない。アレクをあんな目に遭わせたあの人を軽蔑している。会場の息苦しさに憂鬱な気分が加わって眉を寄せたカレンは、ふと視線を上げた先に見知った顔がいることに気付いた。向こうはまだこちらに気付いていないようだったけれど、私は考えるよりも先に足を踏み出し口を開いた。
「ステュー」
名前を呼び掛ければピクリと視線の先の男の肩が揺れる。
「……どうしてお前がここにいる」
以前と同じ、驚きと戸惑いの顔。どうやら彼は私たちが招待されていたことも今日来ることも知らないらしかった。彼の動揺する様子を見ているとなんだかうるさかった心臓もだんだんと落ち着きを取り戻す。
「カレン」
追いかけてきたシークにゆるく頷いてみせた。
「アレクの弟です。……こちら、私の夫の」
「シーク・ラストハートだ。この前こちらに訪れた時にすれ違ったのだが挨拶をし損ねたな、よろしく」
一応紹介しようと夫に手のひらを向ければ自ら名乗り出てくれた。ぐっと眉を寄せたステューもさすがにここで言い合う気はないのか大人の対応をしてくれる。
「ステュー・ブラックリードです。……兄とはお知り合いだと聞きましたが、私と言葉を交わすのは初めてですね」
私にちらりと一瞬だけ視線を向けたステューは、心底うんざりという顔をした。
「どうやら最近の父の機嫌の悪さの原因はあなたたちでしょうか。可能であるのならさっさとあの愚兄を返していただけると助かります」
「この家の者は成人してとうに自立した息子を拘束して監禁することになんの疑問もないのか?」
少しばかり苛立った声音を出した夫に彼は平然とした様子で答えた。
「俺には関係のないことですから。兄がどうなろうと、どう生きようと、俺の知ったことではありません。ただ兄のせいで苦汁を飲ませられたこともありますし……自分だけ飄々と生きているのは気に入りませんね。成人して自立したというのならいつまでも誰かに甘えて逃げ隠れるのはいかがなものでしょうか」
きっと彼には彼なりに、私には分かり得ない葛藤があったのかもしれない。ただそれを汲み取るには私はあまりに子どもだったし、自分のことで手一杯だった。
あなたは愛されているのだから少しばかり傷付けたっていい、なんて。そんなはずはなかったのに。
「ステュー。あなたと話したいことがあるの」
今更卑怯でもいい。私はアレクを自由にするためにステューが味方にいてくれた方がありがたい。
「──俺はない。俺のことが死ぬほど嫌いなんじゃなかったのか?」
「あなたに思うことはこの前話した通りよ。あれが今の本心」
「はっ、そうやってアイツのために俺を味方に引き入れようとでもしているのか?さすがだな、旦那を連れてまで愛人を助けようとは」
「……愛人だと?」
夫の低い声にステューがぴくりと肩を跳ねさせる。私も苛立ちを感じないわけでなかったけれど、なんとか穏やかな声を振り絞った。
「あなたが私とアレクのことをどう見ているのか簡単に想像がつくけれど、それは全て間違いよ」
「口ではどうとでも言えるだろうな」
「あのね、ステュー」
私がここで何を言っても彼は信じないだろう。けれどちゃんと自分の口で説明して、知って欲しいと思った。
それが大きな驕りであることにも気付かなかったのは、私が彼との関係をいつまでも同じものだと考えてしまっていたからだ。
「俺の言ったことが理解できないならもう一度言おうか」
その瞳にもう戸惑いの色は一切なかった。代わりに侮蔑と怒りが籠って、まっすぐに私を突き刺している。
「俺には関係のないことだ。お前と話すことはもう何もないしお前からの謝罪を受け入れる気もない。自分を中心に世界が回っているとでも思っているのか?自分の言った言葉に責任を持て。俺はこの先も出来る限りお前の目に映らないよう生活する。だからお前も俺と和解しようだなんて馬鹿らしいことを考えないでくれ」
「──何があったか知らないが失礼じゃないか?」
誰に言っているんだと身を乗り出した夫の手を掴む。いつもは冷たく感じる彼の手が温かく思えるくらいには、私の指先は血がうまく通っていなかったらしい。
「そう……そうね。ごめんなさい」
一度壊したものがもとに戻ることはない。自分の手で彼のことをひどく傷付けておきながら、私は彼も和解したいはずだと信じて疑わなかった。なんと傲慢だったのだろう。
「ステュー。今日は我慢してちょうだい、あいにく私はまだここでやることがあるの」
「……好きにしろ。俺は挨拶が済めば部屋に戻るからな。父の機嫌をこれ以上下げてくれるなよ」
もう話すことはないと言いたげに背を向けたステューはそれきり振り返ることもなく人の集まりの中へと溶け込んでいく。
「カレン、大丈夫か?手が冷たい。体調が優れないのなら無理にここへいなくとも」
「いいえ。今日すべてに蹴りをつけにきたんです」
それが上手くいってもいかなくても、今日ですべてを終わらすつもりでここへ来たのだ。ステューとのことがうまくいかなかったのは仕方がない。アレクのためにも気持ちを切り替えなければ。
「そうだな。俺も早く終わらせたい」
「ごめんなさい、あなたまで付き合わせてしまって……アレクのことも」
「申し訳なく思う必要などない。ゼノも懐いているし彼が屋敷に滞在していること自体は悪くないが、なにしろ俺は心が狭いからな。妻のことをよく理解している男がずっとそばにいると不安になる」
「そんなこと」
夫の心が狭いだなんて思えるわけがなかった。こんなにも巻き込んでも、愚痴ひとつ言わずに付き合ってくれる人だ。
「……ふふ」
「なんだ?どうして笑っているんだ?」
アレクと離れて、ステューにひどい言葉を投げて、結婚してからも後悔したことはたくさんあった。あの頃に戻れたらと考えるたびに、戻れたとしても同じ選択しかできないだろう自分をもどかしく思うこともあった。
「私、あなたの妻でいられて幸せです」
「な……なんだって?」
「あなたみたいに立派で優しい人と一緒になれたことが、きっと私にとって人生で一番幸福なことだって最近思うことが増えて」
そこまで言ったカレンは慌てて口を止めた。本心とはいえ今、私はとんでもないことを言ってしまったのではないか。こんなのは愛の告白に他ならない。
ぽかんとした顔でこちらを見下ろしているシークに気まずさと恥ずかしさが募って顔を逸らした時、低く重い声が私たちに向かって発せられた。
「もう着いていたんだな」
「──おじ様」
貼り付けた笑顔だと分かるのは氷のように冷たい瞳が私を突き刺しているからだ。
先程まで夫との間に流れていた暖かい空気はどこへやら、その場は一気に冷たくなる。今すぐにだって逃げ出したくなるほどの重厚感に一瞬身を引きそうになったけれど、隣にいたシークが一歩踏み出したから、なんとかそれは耐えられた。
「妻ともどもご招待ありがとうございます」
「はは、つまらない会だが楽しんでくれているか?」
私たちの顔見知りなんてほとんどいないことを知っているだろうにそんなことを聞くのだから性格が悪い。
「さて、場所を移すか」
「え?」
「話がある。カレン、お前だけついてこい」
「──私もご一緒します」
すかさず割って入ってくれたシークをおじ様が今度は敵意を隠すことなく睨みつける。
「私は姪と二人で話がしたい。それともなんだ?まさか私が姪を取って食うとでも思うのか?」
どちらかといえばそれに頷きたくもなったけれど、ここで下手に粘って機会を逃すよりもいい。
「旦那様。大丈夫ですから、ここにいてください」
「カレン、だが」
「大丈夫です」
アレクをあんな目に遭わせたとはいえ私はラストハート公爵の妻だ。おじ様も手を出したりしないだろう。
「……わかった。だが君が戻ってくるまで俺はずっとここで待っている」
「ありがとうございます」
「いつもと違って物分かりが良いことだな。──ついてこい」
大丈夫だからと夫に頷いて足を踏み出す。恐怖心からかうるさいほど心臓が鳴っていたけれど、必死にそれを悟られないように隠す。
会場から遠のいて人のざわめきも消えていく。静かな廊下は、かつて私がアレクとともに駆け回った場所だ。
懐かしさに目を細めた私は不意に目の前で立ち止まったおじ様にギョッとした。
「ここでいいか」
「はい?」
てっきりどこか応接間にでも行くのだと思い込んでいた私は、外廊下に隣接している小さな中庭の噴水の石段に腰を下ろしたおじ様に驚いた。
「お前も座れ。今朝も下男がしっかり拭いていたから綺麗だ」
「は……はい、おじ様」
冷たい風が頬をさしたけれど、並んで座った私たちの間には先ほどのような冷え切った空気はもうなかった。
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