36 / 56
本編
36
しおりを挟む「いい加減にした方が良いのではなくて?おじ様がとてもお怒りだと聞いたわ」
十六歳の夏のことだった。時間が空いたからと私の部屋に転がり込んだアレクに冷たいお茶を淹れた私は、ふとそんなことを口にした。
何のことだか言わなくとも分かったのだろう、彼はにやりと笑ってこちらを見た。
「なんだ、嫉妬か?」
「…学園中の美女に手を出したら次は下町へ。最近はあまりガラの宜しくないお友達といらっしゃるようね」
「良い奴らだぜ」
開いていた本を閉じた彼は私の淹れたカップに手を伸ばした。夏だというのに長袖を着た彼は、額から汗を流していた。
「暑いのなら上着を脱ぎなさいよ」
「いやぁ」
「…大丈夫なの?」
いつか聞いた言葉に、彼は恐ろしいほどの無表情をこちらに向けた。
「大丈夫じゃないって言ったら、どうにかなんの?」
正直ゾッとした。初めて見るその表情は、怒りのような、焦りのような、何かが確かに滲み出ていた。
この時きっと私は縋るべきだった。話してくれと、彼に向き合うべきだった。けれども私はそうはしなかった。
「確かにそうね。私には何も出来ないもの」
逃げたのだ。彼と向き合うことから、彼の事情に首を突っ込むことから、真夏でも長袖のシャツに袖を通す理由から。
「だよな。気にするな。俺は大丈夫だから」
彼は笑った。泣きそうな顔で、いつものように取ってつけたような笑みを浮かべようとして失敗したような顔で、笑った。
それを見て後悔したけれど、その時の私はやはり見て見ぬ振りをした。
たった一人の大切な人を、私は見捨てたのだ。
十七歳の夏、アレクと私の婚約が解消された。
「おい、勝手すぎるんじゃないのか!」
「──兄さんには分からないだろう。アレックスは、私の息子はカレンなどでは釣り合わん。アイツならばもっと上の、もっと素晴らしい家系に入ることも出来るだろう!」
父と叔父の言い合いを、私とアレクは呆然と見つめていた。来年には入籍だけ済ませてしまおうという話すらあったのに、こんな歳になってから婚約解消されるなんて思ってもいなかったのだ。
私たちに興味なんてなかったくせに、アレクに人並み外れた能力があると分かった途端に言い合いを始める。馬鹿馬鹿しい、と感じた。
「ちょっと待ってください、俺はカレンと婚約解消するなんて話は…」
話に割って入ったアレクを、叔父は躊躇いなく殴った。
「私のすることに反論するのか!お前は私の駒となり忠実にあれば良いのだ、余計なことを考えるな!!」
ただ一発殴っただけならまだマシだろう。だが彼は何度も何度も、アレクを殴り叩いた。
「何をなさるんですか!!」
止めて入った私を睨みつけた叔父はふんっと鼻で笑った。
「正気ですか!?自分の息子をこんなに痛めつけるなんて!!」
「何が悪い?私の息子ならば私の所有物だ。所有物をどうしようが私の勝手だろう」
その時にようやく気付いた。ある日から何年も、彼の身体に絶えなかった生傷。
彼が何年も、真夏でも長袖を着た理由。
叔父の思い通りにならないと、彼はひどい折檻を受けていたのだ。
62
お気に入りに追加
6,357
あなたにおすすめの小説
貴方誰ですか?〜婚約者が10年ぶりに帰ってきました〜
なーさ
恋愛
侯爵令嬢のアーニャ。だが彼女ももう23歳。結婚適齢期も過ぎた彼女だが婚約者がいた。その名も伯爵令息のナトリ。彼が16歳、アーニャが13歳のあの日。戦争に行ってから10年。戦争に行ったまま帰ってこない。毎月送ると言っていた手紙も旅立ってから送られてくることはないし相手の家からも、もう忘れていいと言われている。もう潮時だろうと婚約破棄し、各家族円満の婚約解消。そして王宮で働き出したアーニャ。一年後ナトリは英雄となり帰ってくる。しかしアーニャはナトリのことを忘れてしまっている…!
7年ぶりに帰国した美貌の年下婚約者は年上婚約者を溺愛したい。
なーさ
恋愛
7年前に隣国との交換留学に行った6歳下の婚約者ラドルフ。その婚約者で王城で侍女をしながら領地の運営もする貧乏令嬢ジューン。
7年ぶりにラドルフが帰国するがジューンは現れない。それもそのはず2年前にラドルフとジューンは婚約破棄しているからだ。そのことを知らないラドルフはジューンの家を訪ねる。しかしジューンはいない。後日王城で会った二人だったがラドルフは再会を喜ぶもジューンは喜べない。なぜなら王妃にラドルフと話すなと言われているからだ。わざと突き放すような言い方をしてその場を去ったジューン。そしてラドルフは7年ぶりに帰った実家で婚約破棄したことを知る。
溺愛したい美貌の年下騎士と弟としか見ていない年上令嬢。二人のじれじれラブストーリー!
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる