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本編
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しおりを挟む「何時頃なら相手の時間が取れるか聞いておいてくれ」
夕食の席でそんなことを言ったシークに思わず顔が引き攣ってしまった。まさか朝に言っていたことは本気なのだろうか?
何が楽しくて私の唯一の安らぐ場所を脅かす必要があるというのだろう。
「旦那様もお忙しいことですし、無理にお会いにならなくとも…」
「いいや。妻が普段世話になっている人だ、少し無理をしてでも会いに行くさ」
「…はぁ…」
どうしましょう、味が全く分からなくなってきたわ。今日こそは切り出そうと昨夜に決めていたのに、こんな輝いた笑顔を見せられてはどうしようもないじゃない。
「あの、ですが」
「旦那様。失礼します、お客様がいらしております」
私の話を遮ったのは客の来訪を告げたメイドの声だった。こんな時間に何の客だろうと考えたが、どうやら彼には心当たりがあるらしい。
「少し行ってくる」
「…分かりました」
仕事関係だろうか。フォークを持っていた手が何だか妙に疲れてしまって、かちゃりと皿の上に置く。
「奥様?お気分でも…?」
心配そうな顔をしたのはいつも部屋で茶を入れてくれるメイドのアリサだ。
「…いいえ」
旦那様と話した後はいつだって妙な倦怠感に追われる。これは結婚する前からで、言うなれば二度目に会った時からだ。
どうして彼がこんな冴えない女を選んなのかは分からない。大人しくしている形だけの妻が欲しいのだろうと持っていた。だからきっと離縁だって喜んでもらえると思っていたのに、今でも思っているはずなのに、私が切り出せないのはどうしてだろう。
「…お客様はどちらの方かしら?」
小さく呟いたその疑問はしっかりと部屋に響き渡ったようで、先ほど客の来訪を告げた彼女が頭を下げて答える。
「旦那様の仕事の同僚の方だとお伺いしております」
「なら、殿方なのね」
「はい、奥様」
いっそいつかの噂話で聞いたように、愛人が家に押しかけてきてくれたら良いのに。
「──旦那様に愛人はいらっしゃらないのかしら」
その言葉にメイドたちはギョッとした顔をして首を振った。
「そんなことはあり得ません!旦那様は奥様一筋でございます、そのような…!」
「はは、面白い話をしているな」
「旦那様!」
もう用事は済んだのか、部屋の扉を押した彼がそれは綺麗な笑みを浮かべて入ってくる。
この人はいつも笑い方が綺麗というか、お手本通りというか。
(それで泣き顔もやっぱり綺麗だったのだから、美形っていいわよね)
しみじみと考えていた私に怪訝そうな顔を向けてくる。
「俺の顔になにか?」
「あ、いえ…。旦那様の顔はお綺麗なので、ゼノも旦那様に似ると良いなと」
こんな冴えない女に似なくて良かったと言えるようになりたい。この顔があれば人生の八割は上手くいくのではないだろうか。
「君はこの顔が好きか?」
「え?えぇ、まぁ、お嫌いな方はいらっしゃらないかと」
「君に好いてもらえるのならこの顔に生まれてきて良かったかもしれないな」
「…はぁ」
分からないのはこういう類の言葉だ。何でもない日常になりつつあることに、最近になってようやく焦りを感じていた。言わば曲者、それがあるせいでこちらから滅多な行動を出来ない。
下手をすれば『夫婦関係の均衡を壊した馬鹿女』になり兼ねない。
彼が私にこの言葉をかけるうちは、まだ私が必要なことがあるのだろう。子供を作る意味は些か疑問だが、下手に言葉を交わすよりも断然良い。
「カレン」
「はい?」
「俺は愛人がいることも、これから作ることもない。──これがどういう意味か分かるよな?」
分かりません。とは、言えません。なんというか、部屋の空気がそれを許してくれませんでした。
「えぇ」
にこりと笑った私に、旦那様は何故か表情を硬くして「それなら良いが」とだけ返した。
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