4 / 56
本編
4
しおりを挟む「おはようカレン、今日も愛しているよ」
「仕事に行ってくるよ。君と一分一秒でも離れる時間が惜しいな」
「ただいま。君の姿が目に入った途端疲れなんてすぐに飛んでいってしまったよ」
──一体これはいつまで続くのかしら、なんて顔にも声にも出せるはずもなく。
「お帰りなさいませ旦那様。お仕事お疲れ様です」
にこりと笑ってそう返せばパッと表情を明るくした彼が私の頰に手を添え、使用人の目も憚らずに口づけを落とす。
もう慣れてしまったのかさして驚いた様子も見せないメイドたちに気まずい思いを抱いているのは私だけだ。
「ゼノはまだ起きているか?」
今年一歳になった息子の名前を呼ぶ彼に心が曇る。
私は息子と昼は同じ部屋にこそ居るけれど、とても可愛いとは思えず、そもそもあんなに小さな命を抱きかかえるのも怖くて滅多に触っていない。
大抵の世話はメイドや乳母がしてくれるし問題はないけれど、その様子を見るたびに自分の冷たさが露わになるようで心苦しかった。
「もうお眠りになったとお聞きしました」
隅に控えていた侍女の声に彼は少しだけ目を瞬かせ、それからすぐに笑う。
「なら顔を見るだけにしよう。今夜はカレンとゆっくり過ごす時間をくれたようだな」
「…そう、ですわね」
今夜はもなにも、貴方ほとんど毎晩私の寝所に潜り込んでは明け方までこの身体を貪っていくでしょう。
先月に行われた誕生祭はそれは凄まじいものだった。たかが一歳の子供のために自宅でパーティーを開き、そこには王子殿下や高位貴族までもが何十人と押しかけたのだからもう泡を吹いて倒れるかと思った。
はいはいをすればこの子は成長が早いと喜び、つかまり立ちをすればこの子は天使だと絶賛し、初めて「パパ」と呼んだ日には泣きながら天才だ叫んでいた。
(…まぁ、あんなにも毎日この子を抱き上げて「パパ」と連呼していれば嫌でも覚えるわよね)
私は一度も何かで呼ばれたことはない。教え込もうと思ったこともない。ただ、昼に同じ空間で暮らす間にジッとこちらを見るその目があまりにも綺麗で、つい魅入ってしまう。
「俺は幸せ者だな。今度、宰相の補佐官として出むくように言われた」
「それは…おめでとうございます」
宰相の補佐官ということは、少なくとも次の宰相候補として考えられているのは私にも理解が出来た。彼ほどの若さでそうなるのは異例なことだろう。
「家には愛する妻と息子がこうして俺の帰りを待っている。領地も今のところ安泰以外の何者でもない」
いえ、貴方の帰りを待ったことはありません。
(というより愛人とは別れたのかしら…?)
この子が生まれてからは殆ど毎日帰宅しているし、休みの日は領地の管理の仕事が終わった後はずっと家でゼノと遊んでいる。
「あの、旦那様」
「なんだ?」
それは幸せそうにこちらを振り返る夫に、やはり離縁なんて言葉は出せそうになかった。もしかすると彼女と別れてしまい状況が変わったのかもしれない。
もしそうだとしても偽りの愛などが囁かず正直に言ってくれたらある程度の協力はするというのに。
「…いえ。何でもありません」
あの引き出しにしまった離縁届を使う日は、まだ来そうにない。
115
お気に入りに追加
6,357
あなたにおすすめの小説
貴方誰ですか?〜婚約者が10年ぶりに帰ってきました〜
なーさ
恋愛
侯爵令嬢のアーニャ。だが彼女ももう23歳。結婚適齢期も過ぎた彼女だが婚約者がいた。その名も伯爵令息のナトリ。彼が16歳、アーニャが13歳のあの日。戦争に行ってから10年。戦争に行ったまま帰ってこない。毎月送ると言っていた手紙も旅立ってから送られてくることはないし相手の家からも、もう忘れていいと言われている。もう潮時だろうと婚約破棄し、各家族円満の婚約解消。そして王宮で働き出したアーニャ。一年後ナトリは英雄となり帰ってくる。しかしアーニャはナトリのことを忘れてしまっている…!
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
7年ぶりに帰国した美貌の年下婚約者は年上婚約者を溺愛したい。
なーさ
恋愛
7年前に隣国との交換留学に行った6歳下の婚約者ラドルフ。その婚約者で王城で侍女をしながら領地の運営もする貧乏令嬢ジューン。
7年ぶりにラドルフが帰国するがジューンは現れない。それもそのはず2年前にラドルフとジューンは婚約破棄しているからだ。そのことを知らないラドルフはジューンの家を訪ねる。しかしジューンはいない。後日王城で会った二人だったがラドルフは再会を喜ぶもジューンは喜べない。なぜなら王妃にラドルフと話すなと言われているからだ。わざと突き放すような言い方をしてその場を去ったジューン。そしてラドルフは7年ぶりに帰った実家で婚約破棄したことを知る。
溺愛したい美貌の年下騎士と弟としか見ていない年上令嬢。二人のじれじれラブストーリー!
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる