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1巻
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「……フィルのところへ行くわ」
ベッドから起き上がった私に心配そうな顔をした何人かのメイドが付いてくる。
なにも後を追ったりはしない──と考えかけ、はたしてそうだろうかと瞬きをする。もしフィルがいなければ、セオルドが亡くなってからも私は生きていようと思うだろうか。
「──おかあさま」
暗く澱んだ空気が流れるその場所に、フィルはいた。眠そうな目を擦りながらこちらへ駆け寄ってくる。
「ここで眠ると風邪を引くわ。部屋でゆっくり休みなさい」
「おとうさまがずっと起きないんです。お仕事でお疲れだから……おとうさまを部屋にお連れした方がいいのでは?」
「……フィル……」
私がいつまでもこうしているから、この子もセオルドがただ眠っているだけだと思ってしまうのだ。たとえ死を理解できなくとも、お別れはできるのに。
今はまだ綺麗でも、もう少しすれば臭いは抑えられなくなる。そのうち虫も寄り付くだろう。そんな姿を見たら今度こそ私は耐えられないし、フィルにも要らぬトラウマを植え付けるかもしれない。
「……明日、お父様とお別れをしなくてはならないの。もうずっと会えなくなるのよ」
「──どうしてですか? またお仕事で遠くに行かれるのですか?」
「違うわ、そうじゃなくて」
そうじゃないのよ。お仕事をしすぎて、無理が祟ったのよ。
フィルを抱きしめて静かに涙を流した。私たちを見ていたメイドたちは何も言わず、神妙な顔で目を伏せた。
父が埋められるその様に訳もわからず泣き喚いたフィルを咎める者は誰もおらず、普段からそばにいるメイドが必死に慰めている。その間にも私はそばにいることができず、やはり訪ねてきた遠縁を名乗る者たちの対応をしていた。
いい加減に追い返しても良いだろうか。頭を悩ませていた時に限ってそうはできない人物が来るものである。
「お久しぶりです、コルサエール夫人。この度は……」
「堅苦しい挨拶は要らないわ、ダール。どうしてあなたがここに?」
もう会うこともないと思っていた彼が来た理由を何となく察したものの、一応聞いておこう。
「殿下がこの前にずいぶんと酷いことを言ったそうで。主人の不始末のお詫びの品を……」
夫が亡くなってすぐに来て暴言を吐いたあの日のことね。
「結構よ、要らないわ」
包みを受け取らずに睨むと、「ですよねぇ」と相変わらずヘラヘラした顔で彼は笑う。
「まぁ本題としてはアンタに話がありましてね。殿下が来ても良かったんですが、さすがにこの前の今日で恨まれたくなかったようで」
「……本題?」
「これからのコルサエール公爵家についてですが」
その言葉で私の血の気が引いたのに気が付いたのだろう、何も悪い話じゃないと彼は前置きをした上で続けた。
「まず御子息ですが、まだ六つですから爵位は継げませんよね」
「……そうね」
だから途方に暮れているのだ。自称親戚が狙っているのもそこだろう。いずれフィルが十八歳になって爵位を継げるようになるとしても、それまでは繋ぎが必要なのだ。
「ですが三か月以内に爵位を継承する者が見つからないようでしたら、自治権や爵位諸々を王家に返却していただくことになります」
「返却って、それは……」
「残念ですが、コルサエール公爵家はセオルド殿の代で終わるってことです」
「それは……!」
セオルドの宿願だった。いつかフィルに爵位を継がせることが、自分の背中を辿り自分が愛した領地を続けて守っていくことが。
それなのにセオルドが亡くなったからと彼の夢まで消え失せるのは到底許せなかった。フィルが治めるその時までに、少しでも安心して統治できるような領地にしなくてはと日々言っていたのだから。
「三か月以内に信用のおける者が見つかりますか? 正直、もし見つけたとしてもそちらに全てを持っていかれるでしょうね。財産もこの家も爵位も、セオルド殿の遺した全てを」
王の使者として来ているからか、ダールはいつになく真面目な顔だ。
それがさらに私の心を焦らせた。いっそいつものようにふざけた話し方をしてくれたら良いのに。
「っ……そんなことわかってるわ! じゃあどうしろと言うの⁉」
どれだけセオルドが多額の資産を遺してくれたといっても、それを運用できなければ屋敷の維持費や使用人への支払いだけで簡単に底をついてしまう。
だからといって使用人を用済みとばかりに解雇できるものか。
「──これはあくまで提案ですが、ご子息がそれなりの歳に成長されるまで王家が委任統治するという形で保留なさるのはいかがです?」
「……保留……?」
「誰にも爵位を継がせず、またこの屋敷もそのままに王家の者が代理で統治するということです。もちろん先代の方針を変えることはありません、今まで通りに運営するだけですが」
「そんな制度が……?」
知っていればもっと早くにあの遠縁を名乗る者たちを追い払えたのに。息を吐くとダールが気まずげに視線を逸らした。
「えぇ、まぁ、作られまして」
「……作られた?」
その言葉になんだか嫌な予感がした。脳裏に浮かんだのは夫が息子に教えていた『うまい話には裏がある』という言葉だ。
「……その代償は?」
何かを得るためには何かを差し出さなければならないものだ。王家がそこまでのことを慈善でやるとは初めから思っていない。しかし言われたのは予想もしない言葉だった。
「アンタが王太子殿下の妃になるのでしたら、そのようにすることは可能です」
「──馬鹿なことを言わないで‼」
言葉の意味を理解するなり立ち上がり、目の前の蝋燭台を思い切り投げ付けてしまった。
すんでのところで避けたダールは「あぶねっ」と小声で呟いた。
「いや、ちょっと落ち着いて」
「ふざけているの⁉ 夫を亡くしたばかりの私によくもそんなことをっ……‼」
「俺もこれはあんまり良くないって言ったんですけど、聞かないんですよ!」
嫌悪感で心が溢れた。もうずっと感じていなかった汚い感情が私の頭の中をぐちゃぐちゃにする。
どうしてそんなにも私のことを侮辱できるのだろう。嫌いならば関わってこないでほしいと何度願っても叶わない。
どうしてこうまでして私の心を踏み躙ることができるのだろう、あの男は。
「もう帰って‼ あなたを入れた私が愚かだったわ、もう二度と……」
「では公爵位を返上なさるおつもりですか」
ダールの言葉に何も答えられなくなった。それだけはいけない。
「よく考えてみてください。あなたが殿下の側室になるだけで、ご子息の将来は安泰も同然、もちろん妃として上がられたら、それなりの地位や暮らしも保証します。殿下の妻となるのですから、何に不自由することもありません」
あなたの心一つでこれからの公爵家の行く末が決まるのですよ、と優しい声音で説くその男はまた来ますと言って帰っていった。
その次の日、ダールはまたやってきた。今度は主である本人を連れてだ。
ぐつぐつと煮え繰り返る腹を抑え、なんとか耐えながら応対しようと試みたのだが……
「やっと埋葬したのか。ははっ、貞淑な妻を演じるのも大変だな? いまだに夫殺しの容疑がかかっていないとは、一体どんな毒を使ったんだ?」
口を開くなりそんなことを言い出したエドワードに思わず卓上の蝋燭台を掴みかけたが、彼の背後に控えていたダールが必死な形相で首を横に振るものだから、なんとか耐えた。
「……嫌味を言いにわざわざいらっしゃったのですか?」
「俺はお前ほど暇ではない。息抜きがてら、お前の不幸そうなその顔を拝みに来ただけだ」
「──お暇なんですね」
そんなに不幸な顔が見たいのなら気が済むまでいくらでも見ていけば良い。
でも、これ以上心ないことを言われたら私も何をするかわからないわよ。
「……で? いつになったら支度を始めるんだ? こっちにも住まいを用意したりと準備があるんだ、さっさと日取りを決めろ」
高圧的に主語も脈絡もなく言うので、それが妃の件だと理解するまでに少し時間を要した。
しかし理解したところで妃になどなりたいはずもない。
「……殿下は私を妻にしたいと、そうお考えでしょうか? それほど強く妃にと望まれるのは、私を囲いたいからだという認識でよろしいですか?」
そう尋ねた途端、彼の青い瞳が揺れた。しかしすぐにその口を引き攣らせて小馬鹿にするようにこちらを見下ろした。
「誰がお前のような女を妻にしたいと思うものか! お前なんか妾が妥当だ、お前の不幸そうな姿を見て笑いたいだけに決まっているだろう!」
こんなにも堂々と性格の悪さをひけらかす王太子というのもなかなかいないのではないか。私が驚いて瞬きをすると、何故だか後ろでダールが頭を抱えている。
しかしそうか、それでいいのならと前向きに考えることにした。
「そうですか、それを聞いて安心いたしました。要は私を慰み者になさりたいのでしょう? ならば妾として殿下の望むままにこの身体を差し出します。それでよろしいですね? では代理人の件はよろしくお願いいたします」
「……なに? お前は妻より妾の方がいいと言うのか⁉」
「良いも何も、そもそも私は殿下に何の感情も抱いておりませんから。夫が遺したものを守るためですし、不必要な地位までは必要ありません」
「俺の妻の地位が不必要なものだと⁉ っ……公爵も哀れだな、お前に殺されて恨み言ひとつ言えずに……」
「殺してなどいません」
私はあと何度この言葉を口にしなければならないのだろう。もう過去の毒入りケーキの事件をどう誤解されても良かったが、セオルドとのことだけは決して誰にも誤解されたくない。
「夫のことを心から尊敬していましたし、愛していました。過去も今も、この先もずっと夫を愛し続けます。私の夫は後にも先にもセオルド様だけ。二度目の結婚などするはずがないでしょう」
妾であれば噂が立たぬように気を付けさえすればエドワードが私に飽きた後も普通の生活に戻れる。ほんの少しの我慢で大切なものを守れるのであれば。
「私が婚礼衣装を着るのはセオルド様のためだけです。殿下もまさか私に着てほしいわけではないでしょう?」
息が詰まりそうなその空間で、エドワードはぽつりと「好きにしろ」とだけ言って部屋を出て行ってしまった。
「──妃より妾の方が良いって、さすがにそんなこと言われるとは思わなかったでしょうし……今頃ショック受けてると思いますよ」
残ったダールが、追いかけますんで、と頭を下げて出て行くのを横目で見ながら、深いため息を吐く。
こんなことになるとは思わなかったが、ひとまずまた来るだろう後継者に名乗りを上げる者たちを一蹴できるようになったことは、肩の荷をずいぶんと軽くさせた。
第二章 新しい生活
夫が亡くなってから途絶えなかった客人たちも、王家が一時預かりで統治管理すると知ったのか、とうとう公爵邸を訪れなくなった頃、私はエドワードが寄越した馬車に乗せられ、郊外の屋敷へと連れてこられた。
「どうせお前が寝泊まりする場所だし、この程度の屋敷でいいだろう」
どうやらこの屋敷は妾としてそばに置くことを決めた私に与えるつもりらしい。彼の言葉を聞いてようやく理解した。
特注のベッドが置かれた寝室は、どこか王城の彼の部屋を彷彿とさせて胸の中が妙に気持ち悪くなる。しかし同時に良かったと息を吐いた。彼が我が家を訪ねてきて亡き夫との思い出の詰まったあの屋敷を汚さなくてすむから。
「……気に入らないのか?」
不機嫌そうにこちらを睨みつけた彼に居心地の悪さを感じながら緩く首を振る。
「いいえ。気に入らないなんて……」
「わざわざ生活に困らないだけの屋敷を用意してやったんだ、感謝しろ。それで? いつここに移り住めるんだ?」
「……何を仰っておられるのですか?」
意味がわからず首を傾げた私に彼の眉間の皺はより深くなった。
もしかすると勘違いしているのかもしれない。
「私は妾になるとは言いましたが、殿下に囲われるつもりはありません。ですから、殿下が満足なさったら私は私の家へ帰ります」
「──なに? お前まさかあの屋敷に住み続けるつもりなのか⁉」
「当たり前でしょう? 私はセオルド様の妻ですもの」
「はっ、……それなら今から俺に抱かれるのは不貞だろう」
「ではおやめになりますか?」
私は本当にどちらでも良かった。ダールの持ってきた契約書にはしっかりと押印をして金庫に保管しているし、亡き夫の恩に報いて夫が遺したものを守れるのならばその方法は何だって良いのだ。
たとえこの男にひどい目に遭わされても、それで夫も愛してくれた可愛い我が子を守れるのなら。
「……俺はお前のことが大っ嫌いだ」
吐き捨てるように言って私の腕を掴み、寝台に投げたこの人と視線を交わらせる前に静かに目を閉じた。嫌いだと言うくせに優しく触れる唇も、憎いと言いながら抱きしめる意味も、今の私にとってはどうでも良いことだ。
身支度を整えて何でもない顔で屋敷から出てきた。驚いた顔をしたのは、どうやら外で警備をしていたらしいダールだった。
「殿下はどうなさったんです?」
「まだベッドで眠っていらっしゃるわよ。あなたが起こして差し上げたら?」
「もうお帰りになるんですか。もう少しゆっくりしたって……せめて殿下が目覚めるまで」
「息子が待っているもの」
一刻も早くここを離れたかった。あの寝室にいたくはなかった。身体の節々が痛んだけれど、そんなことを悟らせないように努めていつも通りに振る舞う。
「あなたも大変ね、殿下の気まぐれに付き合わされて」
「はは、お陰様で」
引き攣った笑いを浮かべたダールは、きっと目が覚めて私がいないことに怒り狂ったエドワードに八つ当たりされるだろう。ため息を吐いていた。
公爵邸に帰り、ダイニングルームで紅茶を飲んでいた息子に、決してエドワードには向けなかった満面の笑みを浮かべた。
「フィル、ただいま。まだ起きていたの? 夜更かしは良くないわ」
どうしてまだ寝かし付けていないのだろうとメイドたちを見ると、そのうちの一人が深々と頭を下げた。
「おかえりなさいませ、奥様。申し訳ございません、坊っちゃまがどうしても奥様のお帰りを待ちたいと仰られたので」
「そうだったの。遅くなってごめんねフィル、一緒に部屋に戻りましょう。おいで」
手を伸ばして抱きついてきた息子の頭を撫でる。サラサラの青い髪はつい数刻前まで隣で寝ていた男と同じものだ。
自分のわがままのせいでいつかこの子が辛い思いをするだろうと考えると胸が締め付けられる。せめてこの血に相応しい場所、そこに最も近い場所にいられるように。そんな夢を見てしまうのはいつだってこの子の将来を案じていた夫のせいだなと、息子の小さな頭を撫でながら忍び笑った。
そうして私が妾として再びエドワードと会うようになって、気がつけば一年と少しが経とうとしていた。
「やる」
ぶっきらぼうな態度で差し出された色とりどりの花束に、私はつい「またですか」と呆れた声を出しながら受け取った。
「別にお前にやるつもりで買ったわけじゃない。花売り娘が可愛かったからな、その娘の気を引くために……」
この男は毎度同じことを言う。私はさして興味もないそれをテーブルの上に置いた。
すぐに飽きて終わるかと思われた私と彼の関係は意外に長く続いており、しかしながら何かが変わったかといえばそうでもなく、彼は相変わらず荒い言葉でたびたび罵る。──もっとも以前よりはその頻度は減ったけれど。
変わる理由などないだろう、と思っていたのはもしかすると自分だけかもしれない。もらった花束をぼうっと見つめる。
「……この前言っていた観劇、結局どうするんだ」
どこか緊張した声音で彼が尋ねた。
最後に会った時に要らないと言ったのにしつこく家まで送ると言った彼は、馬車の中で私を観劇に誘ってきた。私はあまりにも驚いたので「考えておきます」と中途半端な返答をしてしまった。
だっていつも嫌味ばかり言うこの人が、昔のように顔を真っ赤にして二人で行きたいんだと言ってきたから、つっけんどんに断るわけにもいかなかったのだ。
「──やめておきます。殿下と会うのはこの屋敷の中だけで十分でしょう」
身体を繋げておいていまさらかもしれないが、これ以上深入りしたくなかった。
もしかすると彼はこの関係を変えようとしているのかもしれない。けれど、私は自分にかけられた冤罪をいまさらむし返す気はなかったが、だからといって彼を許す気持ちにはなれなかった。
気の向くままの体だけの関係で良い。彼が私に飽きた時が、契約の対価の支払いを終える時だ。
「殿下は私と行くより、他の方と行かれた方が楽しいと思いますよ」
そう返した私は何故だか彼を見ることができなかった。
「そう思うのはお前だけだろう」
背後からかけられたその言葉は聞こえなかったふりをした。
* * *
ある昼下がり、直前の報せと共に公爵邸を訪ねてきたのは、夫の弟であるサレム・コルサエールだった。各国を自由奔放に旅しているという彼に夫が手紙を送っていたことは私も知っている。どの国にも定住していないために「返事がなかなかないんだ」と夫が苦笑していた姿をまるで昨日のことのように思い出す。
夫が亡くなったことはその日のうちに使いを出したけれども、どうやら知ったのはつい最近になってかららしかった。
「本当に申し訳なかった。知ってからはすぐに帰るつもりが、ずいぶんと長い旅になってしまってな」
そう言う彼はセオルドととても似た風貌で、あぁ彼の弟だと見ただけでわかるほど優しい顔立ちをしていた。
「結婚の祝いは送ったんだが、それからめっきり……兄にもまた支えてそばにいてくれる人ができたと思って、安心しきっていたんだ」
「お会いできて光栄です。セオルド様からよくお話をうかがっておりました」
微笑みながら挨拶したけれど、内心は穏やかではなかった。
彼が何をどこまで夫から聞いているのか、わからなかったからだ。もしかするとフィルのことは何も知らないのかもしれない。
「何とお呼びすれば……?」
夫の弟ではあるけれど自分よりも二十も歳上である。困って尋ねると、やはり夫にそっくりな優しい笑顔を浮かべる。
「俺のことはサレムと。兄からエリーナ殿の話は手紙でよく聞いていたよ」
聞けばこの数年の間、彼は東洋の国を転々としていたらしかった。他国の文化を学びその肌で感じて自分の好奇心を満たすことが生き甲斐だと、十六の時に周りの反対を押し切って留学という名で家を飛び出したそうだ。
「兄が再婚したと聞いて、また近いうちに帰ろうと思ってばかりで結局先延ばしにしてしまった。一人で大変だっただろう。いろんな輩が訪ねてきたんじゃないか? 本当にすまなかった」
悔やんでも悔やみきれないと唇を噛んで頭を押さえた彼に、私は首を横に振った。
「どうかお気になさらないでください。いつかサレム様とお会いできるのを楽しみにしておりました。夫はもうおりませんけれど、せっかく帰っていらしたのですから、セオルド様の代わりに旅の話をお聞かせ願えますか?」
「もちろん」
嬉しそうに笑ったサレムはやはり夫と似ていた。
「弟? ──そう言って男を連れ込んだんじゃないのか?」
最近は控えめになっていた下衆な言葉を言い放ったエドワードに苛立ちが最高潮に達した。
サレムが滞在している間は会えないと使いの者を追い返そうとしたら、せめてそれは自分の口で言ってくれと言うから、わざわざ足を運んだというのに。
「彼を侮辱なさらないでください。夫にとてもそっくりな人です。一目見たら誰だって弟だとわかりますわ」
「はっ! 最愛の夫にそっくりな奴を囲うつもりか?」
どうやら何を言ったところで殿下はその口を閉じる気はないらしい。これ以上は時間の無駄だと身を翻した。
「とにかくしばらくは呼び出さないでいただけますか? 私はもう帰ります」
「そんなことを言うためにわざわざ来たのか。……俺よりその男を優先すると?」
「私は息子を優先しているだけですわ。あの子が誰かに懐いて笑顔になるなんて、夫が亡くなって以来ですもの。まだしばらくサレム様に滞在していただきたいんです」
何より大切なのは息子であるフィルのことだ。サレムを見て初めは驚いた顔をしていたけれど、旅の話や土産を見せられるうちにすっかり心を開いて今では一緒に寝たいと客室に忍び込むほど懐いていた。サレムもそれを嫌がることなくフィルの世話をしてくれている。
ベッドから起き上がった私に心配そうな顔をした何人かのメイドが付いてくる。
なにも後を追ったりはしない──と考えかけ、はたしてそうだろうかと瞬きをする。もしフィルがいなければ、セオルドが亡くなってからも私は生きていようと思うだろうか。
「──おかあさま」
暗く澱んだ空気が流れるその場所に、フィルはいた。眠そうな目を擦りながらこちらへ駆け寄ってくる。
「ここで眠ると風邪を引くわ。部屋でゆっくり休みなさい」
「おとうさまがずっと起きないんです。お仕事でお疲れだから……おとうさまを部屋にお連れした方がいいのでは?」
「……フィル……」
私がいつまでもこうしているから、この子もセオルドがただ眠っているだけだと思ってしまうのだ。たとえ死を理解できなくとも、お別れはできるのに。
今はまだ綺麗でも、もう少しすれば臭いは抑えられなくなる。そのうち虫も寄り付くだろう。そんな姿を見たら今度こそ私は耐えられないし、フィルにも要らぬトラウマを植え付けるかもしれない。
「……明日、お父様とお別れをしなくてはならないの。もうずっと会えなくなるのよ」
「──どうしてですか? またお仕事で遠くに行かれるのですか?」
「違うわ、そうじゃなくて」
そうじゃないのよ。お仕事をしすぎて、無理が祟ったのよ。
フィルを抱きしめて静かに涙を流した。私たちを見ていたメイドたちは何も言わず、神妙な顔で目を伏せた。
父が埋められるその様に訳もわからず泣き喚いたフィルを咎める者は誰もおらず、普段からそばにいるメイドが必死に慰めている。その間にも私はそばにいることができず、やはり訪ねてきた遠縁を名乗る者たちの対応をしていた。
いい加減に追い返しても良いだろうか。頭を悩ませていた時に限ってそうはできない人物が来るものである。
「お久しぶりです、コルサエール夫人。この度は……」
「堅苦しい挨拶は要らないわ、ダール。どうしてあなたがここに?」
もう会うこともないと思っていた彼が来た理由を何となく察したものの、一応聞いておこう。
「殿下がこの前にずいぶんと酷いことを言ったそうで。主人の不始末のお詫びの品を……」
夫が亡くなってすぐに来て暴言を吐いたあの日のことね。
「結構よ、要らないわ」
包みを受け取らずに睨むと、「ですよねぇ」と相変わらずヘラヘラした顔で彼は笑う。
「まぁ本題としてはアンタに話がありましてね。殿下が来ても良かったんですが、さすがにこの前の今日で恨まれたくなかったようで」
「……本題?」
「これからのコルサエール公爵家についてですが」
その言葉で私の血の気が引いたのに気が付いたのだろう、何も悪い話じゃないと彼は前置きをした上で続けた。
「まず御子息ですが、まだ六つですから爵位は継げませんよね」
「……そうね」
だから途方に暮れているのだ。自称親戚が狙っているのもそこだろう。いずれフィルが十八歳になって爵位を継げるようになるとしても、それまでは繋ぎが必要なのだ。
「ですが三か月以内に爵位を継承する者が見つからないようでしたら、自治権や爵位諸々を王家に返却していただくことになります」
「返却って、それは……」
「残念ですが、コルサエール公爵家はセオルド殿の代で終わるってことです」
「それは……!」
セオルドの宿願だった。いつかフィルに爵位を継がせることが、自分の背中を辿り自分が愛した領地を続けて守っていくことが。
それなのにセオルドが亡くなったからと彼の夢まで消え失せるのは到底許せなかった。フィルが治めるその時までに、少しでも安心して統治できるような領地にしなくてはと日々言っていたのだから。
「三か月以内に信用のおける者が見つかりますか? 正直、もし見つけたとしてもそちらに全てを持っていかれるでしょうね。財産もこの家も爵位も、セオルド殿の遺した全てを」
王の使者として来ているからか、ダールはいつになく真面目な顔だ。
それがさらに私の心を焦らせた。いっそいつものようにふざけた話し方をしてくれたら良いのに。
「っ……そんなことわかってるわ! じゃあどうしろと言うの⁉」
どれだけセオルドが多額の資産を遺してくれたといっても、それを運用できなければ屋敷の維持費や使用人への支払いだけで簡単に底をついてしまう。
だからといって使用人を用済みとばかりに解雇できるものか。
「──これはあくまで提案ですが、ご子息がそれなりの歳に成長されるまで王家が委任統治するという形で保留なさるのはいかがです?」
「……保留……?」
「誰にも爵位を継がせず、またこの屋敷もそのままに王家の者が代理で統治するということです。もちろん先代の方針を変えることはありません、今まで通りに運営するだけですが」
「そんな制度が……?」
知っていればもっと早くにあの遠縁を名乗る者たちを追い払えたのに。息を吐くとダールが気まずげに視線を逸らした。
「えぇ、まぁ、作られまして」
「……作られた?」
その言葉になんだか嫌な予感がした。脳裏に浮かんだのは夫が息子に教えていた『うまい話には裏がある』という言葉だ。
「……その代償は?」
何かを得るためには何かを差し出さなければならないものだ。王家がそこまでのことを慈善でやるとは初めから思っていない。しかし言われたのは予想もしない言葉だった。
「アンタが王太子殿下の妃になるのでしたら、そのようにすることは可能です」
「──馬鹿なことを言わないで‼」
言葉の意味を理解するなり立ち上がり、目の前の蝋燭台を思い切り投げ付けてしまった。
すんでのところで避けたダールは「あぶねっ」と小声で呟いた。
「いや、ちょっと落ち着いて」
「ふざけているの⁉ 夫を亡くしたばかりの私によくもそんなことをっ……‼」
「俺もこれはあんまり良くないって言ったんですけど、聞かないんですよ!」
嫌悪感で心が溢れた。もうずっと感じていなかった汚い感情が私の頭の中をぐちゃぐちゃにする。
どうしてそんなにも私のことを侮辱できるのだろう。嫌いならば関わってこないでほしいと何度願っても叶わない。
どうしてこうまでして私の心を踏み躙ることができるのだろう、あの男は。
「もう帰って‼ あなたを入れた私が愚かだったわ、もう二度と……」
「では公爵位を返上なさるおつもりですか」
ダールの言葉に何も答えられなくなった。それだけはいけない。
「よく考えてみてください。あなたが殿下の側室になるだけで、ご子息の将来は安泰も同然、もちろん妃として上がられたら、それなりの地位や暮らしも保証します。殿下の妻となるのですから、何に不自由することもありません」
あなたの心一つでこれからの公爵家の行く末が決まるのですよ、と優しい声音で説くその男はまた来ますと言って帰っていった。
その次の日、ダールはまたやってきた。今度は主である本人を連れてだ。
ぐつぐつと煮え繰り返る腹を抑え、なんとか耐えながら応対しようと試みたのだが……
「やっと埋葬したのか。ははっ、貞淑な妻を演じるのも大変だな? いまだに夫殺しの容疑がかかっていないとは、一体どんな毒を使ったんだ?」
口を開くなりそんなことを言い出したエドワードに思わず卓上の蝋燭台を掴みかけたが、彼の背後に控えていたダールが必死な形相で首を横に振るものだから、なんとか耐えた。
「……嫌味を言いにわざわざいらっしゃったのですか?」
「俺はお前ほど暇ではない。息抜きがてら、お前の不幸そうなその顔を拝みに来ただけだ」
「──お暇なんですね」
そんなに不幸な顔が見たいのなら気が済むまでいくらでも見ていけば良い。
でも、これ以上心ないことを言われたら私も何をするかわからないわよ。
「……で? いつになったら支度を始めるんだ? こっちにも住まいを用意したりと準備があるんだ、さっさと日取りを決めろ」
高圧的に主語も脈絡もなく言うので、それが妃の件だと理解するまでに少し時間を要した。
しかし理解したところで妃になどなりたいはずもない。
「……殿下は私を妻にしたいと、そうお考えでしょうか? それほど強く妃にと望まれるのは、私を囲いたいからだという認識でよろしいですか?」
そう尋ねた途端、彼の青い瞳が揺れた。しかしすぐにその口を引き攣らせて小馬鹿にするようにこちらを見下ろした。
「誰がお前のような女を妻にしたいと思うものか! お前なんか妾が妥当だ、お前の不幸そうな姿を見て笑いたいだけに決まっているだろう!」
こんなにも堂々と性格の悪さをひけらかす王太子というのもなかなかいないのではないか。私が驚いて瞬きをすると、何故だか後ろでダールが頭を抱えている。
しかしそうか、それでいいのならと前向きに考えることにした。
「そうですか、それを聞いて安心いたしました。要は私を慰み者になさりたいのでしょう? ならば妾として殿下の望むままにこの身体を差し出します。それでよろしいですね? では代理人の件はよろしくお願いいたします」
「……なに? お前は妻より妾の方がいいと言うのか⁉」
「良いも何も、そもそも私は殿下に何の感情も抱いておりませんから。夫が遺したものを守るためですし、不必要な地位までは必要ありません」
「俺の妻の地位が不必要なものだと⁉ っ……公爵も哀れだな、お前に殺されて恨み言ひとつ言えずに……」
「殺してなどいません」
私はあと何度この言葉を口にしなければならないのだろう。もう過去の毒入りケーキの事件をどう誤解されても良かったが、セオルドとのことだけは決して誰にも誤解されたくない。
「夫のことを心から尊敬していましたし、愛していました。過去も今も、この先もずっと夫を愛し続けます。私の夫は後にも先にもセオルド様だけ。二度目の結婚などするはずがないでしょう」
妾であれば噂が立たぬように気を付けさえすればエドワードが私に飽きた後も普通の生活に戻れる。ほんの少しの我慢で大切なものを守れるのであれば。
「私が婚礼衣装を着るのはセオルド様のためだけです。殿下もまさか私に着てほしいわけではないでしょう?」
息が詰まりそうなその空間で、エドワードはぽつりと「好きにしろ」とだけ言って部屋を出て行ってしまった。
「──妃より妾の方が良いって、さすがにそんなこと言われるとは思わなかったでしょうし……今頃ショック受けてると思いますよ」
残ったダールが、追いかけますんで、と頭を下げて出て行くのを横目で見ながら、深いため息を吐く。
こんなことになるとは思わなかったが、ひとまずまた来るだろう後継者に名乗りを上げる者たちを一蹴できるようになったことは、肩の荷をずいぶんと軽くさせた。
第二章 新しい生活
夫が亡くなってから途絶えなかった客人たちも、王家が一時預かりで統治管理すると知ったのか、とうとう公爵邸を訪れなくなった頃、私はエドワードが寄越した馬車に乗せられ、郊外の屋敷へと連れてこられた。
「どうせお前が寝泊まりする場所だし、この程度の屋敷でいいだろう」
どうやらこの屋敷は妾としてそばに置くことを決めた私に与えるつもりらしい。彼の言葉を聞いてようやく理解した。
特注のベッドが置かれた寝室は、どこか王城の彼の部屋を彷彿とさせて胸の中が妙に気持ち悪くなる。しかし同時に良かったと息を吐いた。彼が我が家を訪ねてきて亡き夫との思い出の詰まったあの屋敷を汚さなくてすむから。
「……気に入らないのか?」
不機嫌そうにこちらを睨みつけた彼に居心地の悪さを感じながら緩く首を振る。
「いいえ。気に入らないなんて……」
「わざわざ生活に困らないだけの屋敷を用意してやったんだ、感謝しろ。それで? いつここに移り住めるんだ?」
「……何を仰っておられるのですか?」
意味がわからず首を傾げた私に彼の眉間の皺はより深くなった。
もしかすると勘違いしているのかもしれない。
「私は妾になるとは言いましたが、殿下に囲われるつもりはありません。ですから、殿下が満足なさったら私は私の家へ帰ります」
「──なに? お前まさかあの屋敷に住み続けるつもりなのか⁉」
「当たり前でしょう? 私はセオルド様の妻ですもの」
「はっ、……それなら今から俺に抱かれるのは不貞だろう」
「ではおやめになりますか?」
私は本当にどちらでも良かった。ダールの持ってきた契約書にはしっかりと押印をして金庫に保管しているし、亡き夫の恩に報いて夫が遺したものを守れるのならばその方法は何だって良いのだ。
たとえこの男にひどい目に遭わされても、それで夫も愛してくれた可愛い我が子を守れるのなら。
「……俺はお前のことが大っ嫌いだ」
吐き捨てるように言って私の腕を掴み、寝台に投げたこの人と視線を交わらせる前に静かに目を閉じた。嫌いだと言うくせに優しく触れる唇も、憎いと言いながら抱きしめる意味も、今の私にとってはどうでも良いことだ。
身支度を整えて何でもない顔で屋敷から出てきた。驚いた顔をしたのは、どうやら外で警備をしていたらしいダールだった。
「殿下はどうなさったんです?」
「まだベッドで眠っていらっしゃるわよ。あなたが起こして差し上げたら?」
「もうお帰りになるんですか。もう少しゆっくりしたって……せめて殿下が目覚めるまで」
「息子が待っているもの」
一刻も早くここを離れたかった。あの寝室にいたくはなかった。身体の節々が痛んだけれど、そんなことを悟らせないように努めていつも通りに振る舞う。
「あなたも大変ね、殿下の気まぐれに付き合わされて」
「はは、お陰様で」
引き攣った笑いを浮かべたダールは、きっと目が覚めて私がいないことに怒り狂ったエドワードに八つ当たりされるだろう。ため息を吐いていた。
公爵邸に帰り、ダイニングルームで紅茶を飲んでいた息子に、決してエドワードには向けなかった満面の笑みを浮かべた。
「フィル、ただいま。まだ起きていたの? 夜更かしは良くないわ」
どうしてまだ寝かし付けていないのだろうとメイドたちを見ると、そのうちの一人が深々と頭を下げた。
「おかえりなさいませ、奥様。申し訳ございません、坊っちゃまがどうしても奥様のお帰りを待ちたいと仰られたので」
「そうだったの。遅くなってごめんねフィル、一緒に部屋に戻りましょう。おいで」
手を伸ばして抱きついてきた息子の頭を撫でる。サラサラの青い髪はつい数刻前まで隣で寝ていた男と同じものだ。
自分のわがままのせいでいつかこの子が辛い思いをするだろうと考えると胸が締め付けられる。せめてこの血に相応しい場所、そこに最も近い場所にいられるように。そんな夢を見てしまうのはいつだってこの子の将来を案じていた夫のせいだなと、息子の小さな頭を撫でながら忍び笑った。
そうして私が妾として再びエドワードと会うようになって、気がつけば一年と少しが経とうとしていた。
「やる」
ぶっきらぼうな態度で差し出された色とりどりの花束に、私はつい「またですか」と呆れた声を出しながら受け取った。
「別にお前にやるつもりで買ったわけじゃない。花売り娘が可愛かったからな、その娘の気を引くために……」
この男は毎度同じことを言う。私はさして興味もないそれをテーブルの上に置いた。
すぐに飽きて終わるかと思われた私と彼の関係は意外に長く続いており、しかしながら何かが変わったかといえばそうでもなく、彼は相変わらず荒い言葉でたびたび罵る。──もっとも以前よりはその頻度は減ったけれど。
変わる理由などないだろう、と思っていたのはもしかすると自分だけかもしれない。もらった花束をぼうっと見つめる。
「……この前言っていた観劇、結局どうするんだ」
どこか緊張した声音で彼が尋ねた。
最後に会った時に要らないと言ったのにしつこく家まで送ると言った彼は、馬車の中で私を観劇に誘ってきた。私はあまりにも驚いたので「考えておきます」と中途半端な返答をしてしまった。
だっていつも嫌味ばかり言うこの人が、昔のように顔を真っ赤にして二人で行きたいんだと言ってきたから、つっけんどんに断るわけにもいかなかったのだ。
「──やめておきます。殿下と会うのはこの屋敷の中だけで十分でしょう」
身体を繋げておいていまさらかもしれないが、これ以上深入りしたくなかった。
もしかすると彼はこの関係を変えようとしているのかもしれない。けれど、私は自分にかけられた冤罪をいまさらむし返す気はなかったが、だからといって彼を許す気持ちにはなれなかった。
気の向くままの体だけの関係で良い。彼が私に飽きた時が、契約の対価の支払いを終える時だ。
「殿下は私と行くより、他の方と行かれた方が楽しいと思いますよ」
そう返した私は何故だか彼を見ることができなかった。
「そう思うのはお前だけだろう」
背後からかけられたその言葉は聞こえなかったふりをした。
* * *
ある昼下がり、直前の報せと共に公爵邸を訪ねてきたのは、夫の弟であるサレム・コルサエールだった。各国を自由奔放に旅しているという彼に夫が手紙を送っていたことは私も知っている。どの国にも定住していないために「返事がなかなかないんだ」と夫が苦笑していた姿をまるで昨日のことのように思い出す。
夫が亡くなったことはその日のうちに使いを出したけれども、どうやら知ったのはつい最近になってかららしかった。
「本当に申し訳なかった。知ってからはすぐに帰るつもりが、ずいぶんと長い旅になってしまってな」
そう言う彼はセオルドととても似た風貌で、あぁ彼の弟だと見ただけでわかるほど優しい顔立ちをしていた。
「結婚の祝いは送ったんだが、それからめっきり……兄にもまた支えてそばにいてくれる人ができたと思って、安心しきっていたんだ」
「お会いできて光栄です。セオルド様からよくお話をうかがっておりました」
微笑みながら挨拶したけれど、内心は穏やかではなかった。
彼が何をどこまで夫から聞いているのか、わからなかったからだ。もしかするとフィルのことは何も知らないのかもしれない。
「何とお呼びすれば……?」
夫の弟ではあるけれど自分よりも二十も歳上である。困って尋ねると、やはり夫にそっくりな優しい笑顔を浮かべる。
「俺のことはサレムと。兄からエリーナ殿の話は手紙でよく聞いていたよ」
聞けばこの数年の間、彼は東洋の国を転々としていたらしかった。他国の文化を学びその肌で感じて自分の好奇心を満たすことが生き甲斐だと、十六の時に周りの反対を押し切って留学という名で家を飛び出したそうだ。
「兄が再婚したと聞いて、また近いうちに帰ろうと思ってばかりで結局先延ばしにしてしまった。一人で大変だっただろう。いろんな輩が訪ねてきたんじゃないか? 本当にすまなかった」
悔やんでも悔やみきれないと唇を噛んで頭を押さえた彼に、私は首を横に振った。
「どうかお気になさらないでください。いつかサレム様とお会いできるのを楽しみにしておりました。夫はもうおりませんけれど、せっかく帰っていらしたのですから、セオルド様の代わりに旅の話をお聞かせ願えますか?」
「もちろん」
嬉しそうに笑ったサレムはやはり夫と似ていた。
「弟? ──そう言って男を連れ込んだんじゃないのか?」
最近は控えめになっていた下衆な言葉を言い放ったエドワードに苛立ちが最高潮に達した。
サレムが滞在している間は会えないと使いの者を追い返そうとしたら、せめてそれは自分の口で言ってくれと言うから、わざわざ足を運んだというのに。
「彼を侮辱なさらないでください。夫にとてもそっくりな人です。一目見たら誰だって弟だとわかりますわ」
「はっ! 最愛の夫にそっくりな奴を囲うつもりか?」
どうやら何を言ったところで殿下はその口を閉じる気はないらしい。これ以上は時間の無駄だと身を翻した。
「とにかくしばらくは呼び出さないでいただけますか? 私はもう帰ります」
「そんなことを言うためにわざわざ来たのか。……俺よりその男を優先すると?」
「私は息子を優先しているだけですわ。あの子が誰かに懐いて笑顔になるなんて、夫が亡くなって以来ですもの。まだしばらくサレム様に滞在していただきたいんです」
何より大切なのは息子であるフィルのことだ。サレムを見て初めは驚いた顔をしていたけれど、旅の話や土産を見せられるうちにすっかり心を開いて今では一緒に寝たいと客室に忍び込むほど懐いていた。サレムもそれを嫌がることなくフィルの世話をしてくれている。
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