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終章 送り火

ツクツクボウシ

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 翌朝味噌汁の匂いに誘われて目覚めると、自分がどこにいるのかわからなかった。扉の向こうに誰かの気配がしたので、開けると先生がキッチンに立っていた。一気に昨夜の記憶がよみがえる。

「おはよう、お腹すいたろ? 今、朝飯つくってるから」
 手慣れた手つきで味噌をといている。

「颯人さん、奥さんいらへんな」
 私が素直な感想を述べると、
「奥さんはいらないけど、美月がほしい」

 照れずに言う。恥ずかしすぎるので、先生から離れた。すみに固めて置いてある画材が目に入る。

「上賀茂神社でスケッチしてた絵、見てもええ?」

 あの時、見逃した絵の事を思い出して聞いた。キッチンから、カルトンにはさんでる、と言う答えが返ってきたので、そっとカルトンを開いた。四か月ぶりに、ようやくご対面できる。

 鉛筆で力強く描かれたごつごつした幹。幹とは反対に繊細ではかなげな桜の花。匂い立つような、枝垂れ桜。

 筆からこぼれ落ちる思いを紙の上で遊ばせ描いていく。紙の上だけでは留まっていられない、どこまでも飛んでいってしまいそうな才能。

 何枚も、同じ構図の桜の絵がはさんであった。お気に入りのものばっかり描く、小さな子供みたい。

 描きたくて、描きたくてしょうがない。そんな思いが伝わって、思わず笑みがこぼれた。

 私はカルトンを閉じた。キッチンで魚を焼いていた先生の背中にもたれかかり、腕を前にまわし抱きついた。硬い背中の感触が私の胸を、せつなくした。

「どうした?」って聞かれたけど、何にも答えない。答えたら、どこかに飛んでいってしまいそう。私は置いて行かれないように、腕に力をこめた。

 食卓にりっぱな朝ご飯が並んでいる。アジの干物に、なすびとおあげのお味噌汁。それに、きゅうりの浅漬け。

「昨日実家から野菜と魚持って帰ったんだ。うち海沿いだから、魚おいしいよ」

 魚の干物を一口食べて、おいしいと言うと、先生がうれしそうに笑った。その笑顔だけで白いご飯一杯は食べられそう。

 昨夜着ていた服に着替え、玄関から出ようとしたら、先生がとんでもない事を言いだした。

「今から理事の家まで送っていくよ。君に見せたいものがあるんだ」

 祖父の家に母から連絡がいっているだろう。外泊しているのはばればれだ。そこにのこのこ二人で現れたら、どんな誤解をされるかわかったものじゃない。

「今日送り火の日やから、おじいちゃん絶対家にいる。先生に迷惑かけるから一人で家に帰る」

 そう主張しても、先生は見せたい物があるの一点張り。私がいろいろ言いたてても、笑って大丈夫としか言わない。

 その態度が、私を不安にさせる。不安になって「キスして」って言っても、おでこにしかしなかった。

 二人で地下鉄にのり、祖父の家へ向かう道すがら、祖父が家にいませんように、とそればかり祈っていた。

 とうとう、祖父の家に着いてしまった。長屋門を抜けると、夾竹桃の鮮やかなマゼンタ色の花が毒々しく目に飛び込んできた。
 玄関の前に立ち、ふりかえると、先生はうなずく。やけくそ気味に乱暴にインターホンを押した。

 モニターで私と確認したのだろう、ばたばたと足音が近づき、戸がいきよいよくあいた。よほど慌てていたのか、裸足の佳代ちゃんが心配した顔で立っていた。
 後ろにいる先生の顔を見て驚いている。

 ひょっとして祖父は不在か、と淡い期待を抱いたが、奥からもう一人の足音と美月と叫ぶ声がした。あー万事休す。

「どこ行ってたんや、美月。昨日お母さんから電話あって心配してたんやで」 

 そう言った祖父の顔が先生をとらえ凍りついた。固まっている祖父を置いて、佳代ちゃんが口を開いた。

「うちに来る途中で先生に会ったんか? それは奇遇やったな」

 さすが、佳代ちゃんナイスフォロー。私がすかさず、うなずこうとしたら先生が私の前に立ちふさがった。

「違います、昨晩私の部屋に彼女を泊めました」
 これを聞いて、祖父がだまっているわけがない。

「なんやて、女子生徒を一人暮らしの教師の部屋に泊めるとは、どういう事や。教師としてあるまじき行為や」
 祖父の怒声が、早朝の玄関に響く。

「おじいちゃん聞いて、私が昨日お母さんとけんかしたから、帰りたくないって言うてん。先生なんにも悪くないから」

「君はだまってて。教師として間違った事をしたと思います。でも、昨夜はなんのやましい事もありませんでした」
 (昨夜は)って言うところがミソだね。これを言うため昨日は、何にもしなかったのか。

「そんな事信用できるかいな。もし、それが本当でも嫁入り前の娘に、へんな噂でもたったら、どうしてくれるんや。二学期の理事会で君の処分を検討するから、それまで自宅謹慎の処分に処す」

「おじいちゃんひどい、そんな処分理事一人で決められへんやろ。先生は私を助けてくれただけなんやって」

 ここは、私が泣き落すしかない。そう思って泣こうとしたら、先生が一歩前に出て、

「今日は理事にお願いがあって、伺いました」

 先生は息を大きく吸い込み、
「美月さんが卒業されたら、結婚を前提にお付き合いする事をお許しください」 

 一息で言い終わり、深々頭を下げた。その場にいた他の三人は、その申し出にあっけにとられた。祖父なんて口をあんぐりあけている。

「教師の立場で生徒に恋愛感情を持つ事態、許される事ではないと重々わかっています。でも、美月さんと出会った時、生徒と知らず好きになってしまいました。自分の気持ちを押し殺そうとしましたが、無理でした。彼女を心から愛しています」

 先生の思いつめた告白に、誰も口を開く事ができない。
 晩夏に鳴く、ツクツクボウシが庭のモチの木にとまって、やかましく鳴き始めた。

 その蝉の声とは正反対な、落ち着いた声で佳代ちゃんが、
「ほな、昨夜は本当に何にもなかったって事ですね」
 そう言って私を見た。私はこれ以上早くできないって言うほどすばやく、うなずく。

「でも、美月の事が好きやから、卒業してから正式に結婚前提として付き合いたいと」

 先生ははっきり「はい」と答えると同時に、私の顔が赤くなる。

「美月は普通の子とは違います。心に深い傷をおっている子です。これから先、その傷が癒えるとはかぎりません。それを理解しての事ですか?」

「はい、彼女の苦しみをいっしょに背負っていく覚悟です。私が何か彼女にできるわけではありません。ただ彼女を見つめ、そばに居続けたい」

 私に佳代ちゃんが向き直った。
「私らがとやかく言う事違う。美月が決めたらええ。どうする美月?」
 佳代ちゃんはとても穏やかな顔で私に問いかけてきた。

「先生の申し出、すごくうれしい」
 俯いてこれだけ言って、先生の顔を正面から見る。
 そして、口を開いた。
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