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終章 送り火

お父さん

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 私は大人たちがいる仏間からぬけだし、自分の部屋を掃除していた。
 掃除機の音で、佳代ちゃんが入って来た事に気付かなかった。

「先生今度いつきはんの?」
 扉が閉まっている事を確認して言う。

「今、実家に帰省してはるから、お盆あけてからかな」
 八月にはいり、先生とこの部屋で会っていた。佳代ちゃんが、ほかの絵を追加で修理してもらうという、言い訳を考えてくれた。

 祖父も別段怪しむそぶりもない。この部屋で先生に勉強を見てもらっている、と言うと「それはええわ」と喜んでいた。
 その、老人のわりに無垢な顔を見ると、ちょっとだけ、良心が痛んだ。

 先生は夏休みだからと、生徒のように長期休暇があるわけでもない。普段通り、忙しい。でも、その忙しい中、私に会う時間をさいてくれる。二人の時間があえば、ここで会っている。

「よかったな美月。思いが通じて。ほんま、あんたら見てて、イライラしたわ。はたから見たら、両思いってわかんのに、わかってないのは本人達だけって。どんな落ちやな」

 普段使っていないので、マットがむきだしのベッドに腰をおろし佳代ちゃんは言った。

「ちゃんと避妊はしなさいよ」
 その言葉にこけそうになった。

「そんな事してないわ! 英語の成績が落ちたから、先生に教えてもらってんのに、変な想像せんといて」

「先生英語も、できるん?」
「そうや、英語ペラペラなんやで、発音もきれいやし」
 私の自慢げな顔を見て、佳代ちゃんは、はいはいお熱い事でと、手で仰ぐ真似をした。

 掃除機を片付け、手をぱんぱんと打ち、ほこりをはらう。
「なんで、先生と教師は付き合ったらあかん事になってんの?」

 佳代ちゃんに聞いてもしょうがない事だとは思うけど、大人の意見が聞きたくなった。
 佳代ちゃんの横に腰をおろした。

「私はいいと思うけど。もし、あんたと先生のつきあいが、ばれたらって考えてみ」
「大騒ぎに、なると思う」

「そやろ、まずあの先生の事やし、ファンがいっぱいいるやろ。その子達にとったらショックやで。そのショックをあんたにぶつけてくるやろな。大事な受験生やのに、ハブられたりしたら、勉強に集中できひん。あんたのそんな姿みたら先生は責任を感じる。悪循環やな」
 しょんぼりした私の頭をひとなでした。

「学校の中はおさまったとしても、この事が世間に知れたら、まずみんなやましい目でしか見いひん。先生が、教師としての立場を利用したん違うか、って事になる。教師と生徒はフェアな関係ではないんよ。アンフェアな関係で恋愛すると、立場の上の者が攻撃される。いくらあんたらが、純粋に恋愛してますって言っても、信用してくれへんで。それが世間や」

「先生が攻撃されるなんて、いやや」

「そやろ。だから公表できひんねん。卒業まで半年ぐらいや。その間ばれんかったらいいの。禁断の恋って燃えるんやから、その状況を楽しんどき」

 佳代ちゃんは簡単に言うけど、隠す恋ってつらい。私、いろんなものを隠さないといけないんだな。深いため息が、胸の奥底から出た。

                *

 祖父宅からの帰り。西日がきつく差し込むタクシーの中、母に話しかけた。

「佳代ちゃんが家継ぐって聞いて、ホッとした?」
 自分でもなかなか意地悪な質問だと思う。

「そうやな、美月がお母さんみたいにならんでよかったわ」

 ドキリとした。母が、私と自分を重ねていた事に。自分の責任から逃げる答えではなかった事に。
 家につくと、見慣れたベンツが停まっていた。母がすかさず、

「美月だけ行ってき。私は疲れてるからってお父さんに言っておいて」

 そう言って、ベンツを見もせず家に入ってしまった。私は、助手席のドアをあけ乗り込んだ。

「ずっと待ってたん? お母さんは疲れたって」
「今日はおじいちゃんの家に行く日だから、この時間に帰ってくると思って」

 運転席には、昔母を婚約者からうばうほどの情熱がうそのような、燃えカスみたいな男の人が座っていた。
 父はたまに、捨てた妻子の生存を確認するため、食事や買い物と称して私に会いに来る。
 母を誘ってもけっして来ない事は、父も承知の上だ。

「明日もおじいちゃんの家行くの?」
「明日はいかへん。砂羽ちゃんと映画にいく約束してるし。それにしてもまた、ふとったんやないお父さん?」

「そお? 生活が不規則だからかな。お母さん元気そうだな」
 それは、体がという意味ではなく、精神的にという意味だ。

「うん、元気や」

 私は不思議とこの父を憎む事ができない。昔、ほとんど家にいない父の事を、母からいかにやさしくて、すばらしい人かと聞かされたからかもしれない。思えば、母は私に言い聞かせるのではなく、自分に言い聞かせていたのだろう。

 憎悪は愛情の裏返し、その二つの感情の対極が無関心。それが父に対する私の感情。

 烏丸四条にある、イタリアンのお店に連れて行かれた。昼は精進料理であっさりしているから、夜はこってり系がいいだろうと。

「ここ最近人気らしいよ」

 たしかに、モダンな空間だ。雰囲気込みで料理が味わえそうなお店だった。薄かき色の照明が灯り静かなBGMが流れる店内、会話をしているカップルの距離も自然と近くなる。私と父が援交カップルに見えたらどうしようと、いらない心配をした。

「おしゃれな所知ってるんやな」

 私の問いに父は、知り合いに聞いたと何気なく答えた。
 父が、慣れた様子で注文した料理が運ばれてきた。

 これからの進路や家の事、学校の事父親として、知っておかなければならないと思う事をいろいろ質問され、食べながら適当に答える。

 何時も、父からの質問で終わるのだが、今日は最近気になっていた事を父に聞きたくなった。

「お父さんは、なんで浮気したん?」
 父の表情が一瞬凍りついたが、取り繕った笑顔をすぐに浮かべた。

「美月がそんな事聞いてくるなんて始めてだね」
「男の人の心理ってわからんし、聞いてみただけ」

「男の人の心理か……付き合ってる男の子の浮気が心配とか?」
 そんな事ないだろうと、からかいの入った声だったので、売られたケンカは買う事にした。

「そう、付き合ってる人に浮気されないようにするには、どうしたらいいのかなって。浮気した人に聞くのが一番やろ?」

 父は私の先制パンチにクラクラしたようだ。

「付き合ってるのか。まあ、美月も十八だしね。どんな子、同じ高校生?」
 なんとか体勢を立て直した父に、決定打をうちこんだ。

「年上の人。女学院の先生やねん」

 この一言で父をKOできた。私の事で父がとやかく言う権利はまったくないので、事実をありのまま申告した。しばらく、呆然としていた父が口をひらいた。

「お母さんとおじいちゃんは知ってるのか?」
「そんな事あの二人に言えるわけないやん。大騒ぎになるわ。お父さんは私の保護者違うし」

「こりゃ一本とられたな。ははっ」
 どっかの、笑えない酔っぱらい親父みたいな事をいう。

「私の質問に答えてないで」
「そうだな、なんであの時浮気したんだろ。ちょっと待って、頭の中を整理するから」

 そう言ってワインに酔い赤い顔をした父は、黙り込んだ。

「何かをいい訳にするわけじゃないけど、お父さんもあの頃いっぱいいっぱいだったんだ」
 長い沈黙をやぶってしゃべり始めた。

「二人が出会ったのは、お母さんが二十一の大学四回生の時だった。きれいで、何事にも完璧でこんな女の人が世の中にいるのかと思ったよ。婚約者がいるって聞いてたけど、好きになってしまって、どうしようもなかった。お父さんが猛アタックして、ようやく結婚できた。うれしくてうれしくて、一生離さないって思ったんだ、その時は。一級建築士めざして、勉強しながら仕事もこなしてすごく忙しかったけど、幸せだった。そのうち、美月も産まれたしね」

 どんなに懐かしんでも、過去は戻ってはこない。でも、父と母にも幸せな時間が流れていたのかと思い、少しホッとした。

「念願かなって、一級建築士の資格も取れた時に、おじいちゃんが今まで何の援助もしなかったからって、家と夢にまでみた事務所を構える資金を出してくれたんだ。その思いに答えないとってがんばったよ」

 酔っぱらいの昔話は、結論を先延ばしにして、どんどん長くなりそうな様相を呈してきた。

「でも、最初うまくいかなくてね。なかなか仕事が回ってこなかった。仕事をとるためあちこち回って、へとへとになって家に帰るだろ、そしたら帰りが遅くても、家の事何にもしないお父さんに愚痴一つこぼさない完璧なお母さんがいる。自分がふがいなくてどうしようもなかった。そのうち、だんだん何のためにがんばってるのか、わからなくなってね。自分の夢をかなえたのに、全然うれしくなくて。お金を返すためだけにがんばっているんじゃないかって。やっぱり、人のお金で夢をかなえたらだめなんだ」

 寂しく笑う父の姿と、先生の姿がかさなった。

「そんな心に隙が空いた時、雇っていた事務の女の子に愚痴を聞いてもらってたら、ふらふらっとね。最低だよお父さんは。お母さんから逃げたんだ。自分のふがいなさを見たくなかったから。でも、あんな事になるなんて。お母さんはお母さんでずっと不安を溜めこんでいたんだろうな。それに気づいてあげられなかった。全部お父さんが悪いんだ。本当に美月には悪い事をしたと思っている」

 夫婦ってなんだろ。たった十八年しか生きてない私には分かるはずもない事。

「ようは、思った事を言い合える関係が浮気防止につながるって事?」

「簡単に言うとそうだけど、何でも言い合える関係って相当難しいよ。まっお父さん達を反面教師にして、彼氏と仲良くね」

 別れ際、今度彼氏に会わせて。と言われたので、会わせる事はないだろうと思いつつも今度ねと答えておいた。
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