洛中ラヴァーズ

澄田こころ(伊勢村朱音)

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第三章 風待月

あこがれ

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 梅の木に青々とした実がなる頃、梅雨入りした。
 まとわりつくような、湿気も何故か心地いい。その湿気を感じると心まで雨にぬれる。

「どうしたの? 暗い顔して。気分でも悪い?」
 能天気な森田先生の声で我に返る。
 リノリウムの床を見て思い出す。今は予備校に来ていたんだ。

「いえ、最近雨ばっかりなんで、気分も沈みがちなだけです」
「そうかな。沈んでるようには見えない絵だけど」
 珍しく、森田先生がなぞな事を言う。

「どう言う意味ですか?」
「最近有賀さんの絵変わったよね。前まではすっごくキレキレな絵だったのに、今はお花畑みたいに明るいよ」

「お花畑って……幼稚って事ですか?」
 少々、怒りを含んだ声で言った。
「俺うまく表現できないんだけど、華やかさが出たというか、つまり恋してる絵なんだよね」
 私も感じていた、絵が変わったって。

「恋の相手はひょっとして俺?」
「違います」
 秒で、否定する。

「そりゃそうだ、デートも断られたし」
「好きな人っていうか、憧れてる人がいるだけです」
 何とか、自分の気持ちの落とし所をさぐって言う。

「憧れか……憧れって言うなら、まだ俺にも望みがあるよね?」
 その言葉の意味がわからず、ゆでたまごのように、つるんとした森田先生の顔を振り仰ぐ。

「憧れなんて、所詮絵にかいた餅っていうか、自己完結した思いだろ。そこに発展性はないと思うんだよね。まっ気長に待つよ俺」
 それだけ言うとさっさと教室を出て行った。
 自己完結した思いってなんだろう。そもそも、憧れと恋の違いって?

                *

 予備校が終わり、地下鉄に乗ろうと、人々が行きかう京都駅の地下道を歩いていた。

「有賀さんやん。今予備校の帰り?」
 聞き覚えのある声に呼びとめられた。振り返ると島田さんが、まじめそうな男の子と、手をつないで立っている。

「うん、今から地下鉄に乗るとこ。島田さんはデートしてたん?」
 この言葉にはにかんで、男の子に笑いかける。その姿がすごく初々しくて、私の胸がキュンとなった。

「うん。地下鉄の改札まで送ってもらうねん。彼は、宇治に住んでるから、近鉄に乗るし」

 えっ近鉄から地下鉄の改札って、すごく離れているのにわざわざ?
 地下鉄の改札まで、二人のラブラブムードから逃げ出したかったけど、方角がいっしょなので逃げ切れなかった。

 改札の前で、手を握り合って寂しそうにバイバイって言っている二人を、私はこっそり盗み見した。
 離れがたいっていう雰囲気が、私にまで伝わってくる。無機質な構内で二人の周りだけ甘くて淡い空気が流れていた。

「島田さんの彼氏、やさしそうな人やな」
 ホームにおり、二人で電車が来るのを待っていた。

「うん、すごくやさしいねん。今日は彼、予備校ない日やし、ゆっくりできてよかった」
「どこでデートしてたん?」

「京都駅の駅ビルでブラブラしてただけ。さっきまで駅ビルの屋上にいてん。夜景がきれいやった」
 ここまで言って島田さんはなぜか、うふふっと含み笑いをした。

「夜の屋上ってカップルばっかりやねん。薄暗いし、いい感じで物影もあるし」
 笑いの意味がわからず、キョトンとしている私を、じれったく思ったようで、

「物陰に隠れていちゃいちゃしてるって事。私もさっきキスしててん」
 と親切にも教えてくれた。

「外でキスすんの?」
 私の裏返った声が、ホームにこだまする。周りを見渡すと、他の乗降客の視線が痛い。

「キスぐらいするよ。おさわりまでならOKかな」
 おさわりって、どこさわるんだろう? 今どきカップルの生態なんて、まったく知らない私には、わからない事だらけ。

「有賀さんも先生と行ってみたら? すごい、いい雰囲気になんで」
「なんで、先生と行く必要があるん?」
 また私の声が裏返る。

「えーばればれやん。こないだも、クラブの時間二人で見つめ合ってたし。付き合ってるんやろ?」
「そんな付き合ってない! ただ私が先生に憧れてるだけ」

「そうなん? 先生もまんざらでもないって感じやと思うんやけど」
「クラブのみんな、私達が付き合ってるって思ってんの?」

「私が勝手に思ってただけ。みんな先生の事見ても、有賀さんの事見てないし」
 先生の事を思ってほっとした。

「でも、憧れってなんなん? 好きとどう違うん?」
 ストレートに聞かれ、困惑する。

「こうなりたいって理想の人の事違うの?」
「それやったら、同性だけにある感情違うの? 異性で憧れって言うのは、恋を誤魔化したい時だけやろ。憧れてる間は、失恋せんでいいやん」
 島田さんの言葉が、私の心に土足で侵入し、無遠慮に踏み荒らしていった。

                 *

 予備校のある日は、帰宅が九時をまわる。着替えて食事はとっていると、母が話しかけてきた。

「コンサートのチケットが一枚あまったんやけど、いっしょに行かへん? 六月最後の金曜日、予備校のない日やろ? 曲はメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲。いっしょに行く予定のお友達が行けなくなったんよ。美月、メンデルスゾーン好きやったし」
 そうだっけ? と不思議に思っていたら、

「最後のピアノの発表会にメンデルスゾーンの狩りの歌弾いたやんか。あの時好きって言ってたで」

 思い出した。あの事があるまで、ピアノを習っていた。大好きだったピアノ。狩りの歌は先生が選曲してくれたんだっけ。
 美月ちゃんにはちょっと難しいけど、この曲のイメージにぴったりだから、がんばってみて。と言われたんだった。

 明るく勇壮で、オクターブの和音が狩猟の角笛を思わせる軽快なメロディー。
 あの頃の私は勝気で、元気があって一点のシミもない、明るさを持った女の子だった。
 私も忘れていたのに、母はよく覚えていたな、そんな昔の事。

「わかった。行く」
 母の喜ぶ顔を見たくなかった。それだけ言って、ピアノの置いてあるリビングから出て行った。

               *

 東棟の屋上、雨はふっていない。
「今日のおかず何?」
 春日先生が俺の弁当箱を覗きこむ。

「じゃがいものキンピラです」
「ちょっとちょうだい」
 と言いつつ、遠慮なく弁当箱に手をのばす。ボーっとしている俺は無抵抗だ。

「うまい。料理もできるイケメンて、どんなけいやみなん自分」
「つまんでおいて、文句言わないで下さい。自炊してるんで、弁当ぐらい持ってきますよ。節約もかねて」

 春日先生はまだ、何か文句を言っていたが、そんな言葉は、霞の向こうに消えて行く。
 霞の中に、彼女の赤面した顔が浮かんだ。

 今まで彼女は学校で、俺に見向きもしなかった。理事宅での、親しい関係を隠しておきたいのか、恥ずかしいのか、わからない。
 でも、先日のクラブの時間、目があった。見つめ合った、たった一秒。彼女は顔を赤らめ、あわててそっぽを向いた。

 その意味するところは?
 たとえ、その意味がおれの期待する感情であっても、その先に進める訳もなく……

「有賀美月の事考えてるん?」
 ずけずけと、心を見透かされたような事を言われ、咀嚼していた玉子焼きにむせてしまった。

「何言ってるんですか」
「まーあの美貌にはクラクラするよな。若者は。あれは理事の孫やし、ガード硬いで。でも、どことなく影背負ってるよな、あの子。小学部の時確か、一時不登校になってたみたいやわ」
 不登校? 初めて聞く。

「真壁先生もてるんやから、道ならぬ恋におぼれんでも、なんぼでも楽な恋愛できるやん」
「だから、違いますって」

 そう言っても信じてもらえそうになかった。
 この間の随求堂での出来事。暗闇の中、少しぶつかっただけでもわかった、異常な震え。
 調子に乗って、手をつないだ。たしかに、つかまえたと思った。でも、俺は本当に彼女をつかまえていたのだろうか?

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