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第二章 雨月

誕生日

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 今日は夕方から雨の予報なので、地下鉄で、理事宅まで来た。
 長屋門をぬけると、玄関に彼女が立っていた。
 この年頃の女の子がよく着る、ファストファッションなど彼女は着ない。何時も、上質で上品な、自分に似合う洋服を着ている。

 とりわけ今日のワンピースは、とても似合っていた。

「誕生日おめでとう」
 と言うと、彼女ははにかんだ笑顔をかえしてくれた。

 長屋門の部屋に入る。額縁から出した桜の絵が新聞紙の上にのっている。部屋の端には刷毛や霧吹き、溶剤などが寄せてある。
 まだまだ、修理は終わりそうにない。うれしい事に。

 彼女が絵を覗きこんでいる。長い髪がたれ、顔にかかる。大きな形のよい目だけが見えている。俺が一つの巻物を、差し出すと、その目で俺をとらえた。

「俺の絵見たいって言ってただろ? 大学時代課題で描いた巻物なんだけど」
 声がふるえそうになるのを、必死でおさえる。

 それは、洛中洛外図だ。京都の景観や風俗を鳥瞰図で描く様式、戦国時代から江戸時代にかけて多く制作された。

 普通は屏風に描くが、現代では屏風に仕立てるのは大変なので、俺は絵巻物に仕立てた。
 春の京都から始まり、四季の移ろいを描いている。

「これって、現代風の洛中洛外図なんですか?」
 その絵には、現代の建物を所々紛れ込ませている。京都タワーや駅ビル。明治に建てられた博物館など。

「現代と江戸時代のミックスかな。ほら、人も現代人を入れてるんだ。昔流行ったウォーリーを探せみたいな感じで」
 Tシャツの現代人が洛中洛外図の中をうろついている。

「遊び心があっておもしろい。でも、技巧とかもすごくて、私四年間勉強してもこんな絵は、描けないような気がします」
「そんなたいした事ないよ、俺なんて。結局絵描きにはなれなかったし」
 俺の自嘲気味なセリフに、彼女は不思議そうな表情をした。

 今度は髪を耳に掛け、熱心に絵に見入る。
 その横顔を見ていると、あたりに落ちていた紙に、彼女の顔を描き始めていた。ほぼ、無意識に。

 鉛筆の走る音に気付いたのか、彼女がこちらを見た。
 思わず、紙をかくす。

 古今東西、画家が金銭のからむ契約以外に、頼まれもせず、自主的に女を描くという行為は、その女にそそられている、ということわりをかくすために。

 うまく誤魔化せるわけもなく。彼女は紙に気付き、興味からか見せてほしいと言った。
 俺がしぶると、彼女は紙をとろうと、前かがみになった。
 ワンピースの胸元から、胸の谷間がのぞく。
 ちょっとそれは反則だ、とどこにいるかわからないレフリーに、心の中で抗議する。

 抗議は聞き入れられず、腕をつかまれ、無理やり紙をとられてしまった。

「この絵私にください。誕生日のいい記念になるから」
 俺の気持ちに気付きもせず、無邪気に言う。

「これ、走り書きだし。もらってくれるのならちゃんと描くよ」
 芸術性を追求する画家ではなく、下世話な恋情を持つ画家には、罪作りな笑顔を残し、彼女は部屋から出て行った。

 急いだのか、息を切らして帰って来た。スケッチブックとパステルを俺の前に置く。
「このパステル今日プレゼントで佳代ちゃんからもらったんです。先生使ってくだい」

「すごいね百色セット。ほんとに使っていいの。有賀さんまだ使ってないんだろ?」

「いいです。先生の方がこのパステル使いこなせると思うから。パステルの使い方、私も参考になるから、使って下さい」

「なんかハードル高くなったけど、あんまり期待しないでね」
 彼女は、掌を開き俺の前に差し出した。掌には色とりどりの包み紙に包まれた、飴がのっていた。

「それと、飴どうぞ。絵を描く時のどかわかないですか? お茶だとこぼしたら大変やし。飴やったら大丈夫でしょ」

「なんか大阪のおばちゃんみたいだね」
「ひどい」
 すねて、掌を握ろうとする。俺は彼女の手首をつかみ、飴を一つつまみ上げ口に放り込んだ。

「甘くておいしい、ありがとう」
 俺がそう言うと、彼女も特大の甘い飴をほおばったように、笑った。

 彼女の視線を真正面から受け止めきれない、よこしまな俺は、横を向くようにポーズを指定した。

 視線を気にせず、彼女を存分に愛でる事ができる時間に、俺は夢中になった。
 何時の間にか雨が降り出し、静かな室内に、鉛筆が紙の上をすべる音と、雨音そして、微かな寝息が重なった。
 彼女は、壁にもたれ眠り込んでしまった。

 その無防備な寝顔に呆然とする。
 まったく、男として意識されていないという事実。胸がせつなくなった。
 そのせつなさのせいか、彼女にそっと近づく。まったく、俺に気付かない。
 気付いてほしいのか、気付いてほしくないのか、自分でもわからない。
 
 胸に垂れる、長い髪を一ふさとり、自分の唇にあてた。

                   *

「もういいよ」
 先生の声で、はっと目が覚めた。
 自分がどこにいるのか、わからなかった。
 先生の困った顔を見て、思い出す。

 そうだ、絵を描いてもらってたんだ私。
 寝顔を見られたというのも恥ずかしかったが、描いてほしいと自らお願いして眠りこけるなんて。どんだけ厚かましい態度だろう。

 先生はいたずらっ子のように、にっこり笑って、
「いい寝顔の絵が描けたよ」
 なんて言うので、慌てて先生の横に駆け寄りスケッチブックを覗きこんだ。

 寝顔ではなく、ちゃんと目を開けて幸せそうに微笑んでいる私がいた。
「もー違うやないですか。でも、すごくきれいに描いてもらって私やないみたい。ありがとうございます。あっそれとすいません眠ってしまって」

「昨日遅くまで勉強してたんだろ?」
 何でも、見透かしてしまうような鳶色の瞳にみつめられ、私はうつむいた。

「後は色をつけるだけだから」
 先生の手の動きをじっと目でおう。パステルは何層にも塗り重ねると、魔法のように立体感が出て美しく発色する。先生の手で私の顔に生気が宿る。

 私もこんな風に絵が描きたいと食い入るように見つめていたら、ふと先生の指先に目が止まった。
 爪が細くて長い、綺麗な指。美しい物を生み出す手。私の手とは全然違う。
 
「私、夕食の手伝いしてきます」
 先生と同じ空間にいるのがつらくなって、逃げ出した。

                *

「手伝いなんていいのに」
 台所に行くと、雅恵さんに言われた。

「今日おじいちゃんは?」
「最近、忙しいみたいで、今日も出張に行ってはります」
 祖父も、もう七十代なのだから、ゆっくりしたらいいのに、と思うが会社の後継者がいない。

 父が継いでいたら、母の人生も大きく変わっていたかもしれない。
 過去をふりかえり、あの時こうすればよかった、って思っても、時間は一ミリも後ろには動かないのに。

 夕方になり、雨が激しくなってきた。佳代ちゃんがレインコート姿で、ケーキの箱を下げて帰ってきた。

「ご飯できてる? お腹へったわ。ジジのケーキ買ってきたで」
 北山通りにある「ジジ」は私の好きなケーキ屋さん。夕食の支度はできているので先生を呼びに行った。

 先生は私がつくったハンバーグをきれいに残さず食べてくれた。空っぽのお皿を見て、こんなにうれしくなるなんて。普段私が食べ残しているお皿が、頭をよぎった。

 食後にケーキを食べたが、さすがにローソクは辞退した。ケーキを食べ終わると先生がスケッチブックを差し出した。

「誕生日おめでとう」
 開くと、パステルで彩られた私が瑞々しく浮き出るようにそこにいた。先生の目に映った十八歳の私。

「ありがとうございます。うれしい、大事にします」
 先生は、なぜだか寂しげにうつむく。

                *

 日が暮れるのが遅い季節。でも、雨のせいか外はもう暗くなっている。彼女を家まで送る。
 二人、傘をさして駅まで歩いた。雨は先ほどより小ぶりで、アスファルトの上にできた水たまりが、微かに振動していた。

「今日のワンピース似合ってるね」
 彼女が照れて俯く姿が見たく、俺は唐突に言った。

 案の定、俯く。俯いたまま話し始める。
「今日は私の絵を描いてもらったから、修理が進まへんかったんじゃないですか? すいません、無理言って」

「今日は雨も降ってたから、作業は進まなかったよ。気にしないで」
 地下鉄の構内は、外の暗さとは対照的にばかばかしいほど明るかった。

「予備校はどう? ついていけそう?」
 教師らしい、質問をする。

「みんなうまくて、最初はついて行くのに必死でした。今はなんとか、真ん中ぐらいのレベルは維持できるようにはなりました。一人熱心に指導してくれるバイトの先生もいるので助かります」

「京美大の学生?」
「はい、この間展覧会にも誘っていただいたんです」
 男だろう。
 俺は、彼女の事を本気で思うようになってから、女子高でよかったと心底ほっとした。

 共学であったなら、発情期まっただ中の男子生徒のいやらしい目線に、彼女はさらされる。そんな視線にさらしたくない。でも、そんな男どもと、自分はいっしょなのだ。

 俺は、彼女をさそうどころか、展覧会にいくなとも言えない。
 ジェラルミンケースを連想する、銀色の車体が、ホームにすべりこんできた。
 車内は混んではいなかったが、座席はすべて埋まり、立っている人が数人いる。
 
 並んで吊革につかまり、前を向き外の暗闇で鏡のようになったガラス窓を見る。ガラスには、俺と彼女の姿が映っている。二人の間には、他人以上友達未満の、絶妙な空間がむなしく存在していた。

 北山駅で降り、地上に出ると雨はもうあがっていた。雨上がりの清涼な空気はすがすがしく、俺は深く息を吸い込む。

「今度の土曜日の校外写生、参加する事にしました」
「ほんと? よかった。来週はお天気になるといいね」

 彼女の家まで後ちょっと。後すこし。
 お菓子の空き箱のような家が、見えてきた。

 彼女の体から突然、警戒音が発せられ殺気をおびた気配が放たれた。
 俺は戸惑い、彼女の視線の先を見た。

 玄関の前に、鍵を回している人影がある。あの写真に映っていた女性だった。時をへて、幾分しわがふえているが、まだうつくしさをたもっているその顔。しかし、表情は生気がなく、能面を連想させる。

「あら、美月」
 彼女の母親はこちらを見て、あきらかに俺を不審げに見ている。俺は誤解をとくべく、自分の素姓を明かし送ってきた事を説明した。

 母親は無表情に、形通りの挨拶を返す。
 彼女は先ほどの警戒音を、体中から発したまま、こわばった顔で俺に礼を言い、母親を押しのけるようにして家に入っていった。


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