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第一章 花残月
上賀茂神社で
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はやく、はやく、夜が明けてしまう。
四月、夜明け前の京都の街は、青磁色にそまり朝もやに包まれる。もう暦の上では春。だけど早朝の空気は、凛として冷たい。
私はそんな中、長い髪を風になびかせ、自転車を力いっぱいこいでいた。顔にあたる、すきとおる冷たい風を吸い込む。鼻の奥がつんと痛い。
明日は始業式。高校生活最後の年がはじまる。どうしても、今日中に行きたいところがある。それも、人々が動き出す前に。
賀茂川沿いを北に上がる。目の前にこんもりとした、新芽が芽吹く前のくすんだ森が見えてきた。すっかり夜が明け、景色は色をとりもどす。
目的地は、京都の北に鎮座する最古の社、上賀茂神社。
自転車を朱色も鮮やかな鳥居の下にとめ、参道を歩く。静まりかえった境内には、砂利を踏む私の足音だけが、響いていた。
よかった、まだ誰も来ていない。
鳥居からのびる参道の、東側に広がる芝生。そこに年老いた枝垂れ桜が、朝日をあびて咲いていた。濃い桜色の花は、まだ満開には遠い五分咲き。
だけど、私は満開の老桜よりも好きだった。満開になると後は散るのみ。散りゆく桜を見るのはなんだか寂しい。
デコボコした幹。枝は、四方に広がりその重さに耐えられないのか、いたるところを杖で支えてもらっている。でも、いたいたしい姿とは裏腹に、毎年春になると当たり前のように、可憐な花弁がその身を覆う。
その姿が二年前に他界した、祖母にかさなる。
大好きな祖母は、癌に蝕まれた体でも、最後の瞬間まで、当たり前のように微笑んでいた。祖母が元気な時は、毎年二人でこの桜を見にきた。今は私一人、この老桜に会いに来る。
一対一で向き合いたいから、他の人が来ない、早朝に。
霞がかった白い空を背景に、ぼんやり桜を見上げていた。なんだか今年の桜はよりどころなく、寂しげに立っているようだ。去年はただ綺麗としか感じなかったのに。
ふと涙が出そうになり、視線を下に向ける。誰もいないと思っていたら、人影が目に飛び込んできた。幹の陰に隠れて、気付かなかった。
その人は、アウトドア用の椅子に腰をかけ、スケッチブックとにらめっこしていた。伸びた髪が顔をかくし、遠目には性別も年齢もわからない。
京都には美術系の大学が何校もある。おまけに、世界の観光都市なので、国籍や年齢に関係なく、よく街中でスケッチする人を見かける。
私も美術部に所属して、美大をめざしている。なので、他の人の絵が気になる。おまけに目の前の絵描きさんは、一心不乱にという形容がぴったりな程、絵を描く事に没頭していた。
あんなに集中して描いている絵ってどんなだろう。
ムクムクと湧き上がる好奇心を抑えきれない。私はその人にソロソロと近付いていった。
あきれた事に、私が目の前に立っても気付かない。まったく桜を見ずにスケッチしている。近くで見ると、体つきから男性とわかった。
普段の私なら、絶対知らない男の人に声をかけたりしない。だけど、ここまで無視されると、挨拶してみたくなった。
「おはようございます」
おもむろに、顔を上げた絵描きさんの鳶色の瞳が私を見上げる。その瞳は、どこまでも見通すように澄んでいた。
年齢的に、美大生かな? 薄い瞳の色に、白い肌。どこか日本人離れした容貌。けれどのびすぎた髪が、端正な容姿のマイナス要因となっていた。かっこもよれよれのカーキのカーゴパンツに黒のフリースジャンパー。あまりセンスを感じない。
絵描きさんは何もしゃべらない。朝の柔らかな日差しをうけ、醒めたくない夢の中で遊ぶ少年のような顔をしている。
しびれを切らし、
「桜の絵を描いてるんですか?」
と言い終わるかどうかのタイミングで、春の強い風が吹いた。
スケッチブックは風に煽られ、ページがぱらぱらとめくれる。その上に置かれていたパステル諸共、地面に落下した。落ちたパステルは枯れた芝生の上に彩りをまき散らす。
私は波打つ長い髪を手で押さえ、振り返る。桜は、花で覆われた枝をしならせ、暖かな春の風を、老いた体全体で受け止めていた。
花びらが散らなくてよかった。
絵描きさんは慌てて、スケッチブックを抑え込み、四つん這いになってパステルを拾う。悠然と立っている桜とその姿の対比がおもしろい。私は澄ました顔で、拾うのを手伝った。
「拾ってくれて、ありがとう」
私の目の前に立った、絵描きさんは背が高い。低くてよく通る声でお礼を言い私の目をじっと見る。
「誰もいないと思ってたら、突然声をかけられてびっくりしたよ。目の前に桜の精が現れたのかと思った」
照れたように視線を外し、髪をかきあげる。
面と向かって、恥ずかしいセリフを言われた私の気持ちは、かなりドン引きしていた。でも、絵を見せてもらいたい一心で、なんとか逃げずに踏みとどまる。
「私、そんなふけて見えます? この枝垂れ桜おばあちゃんのイメージなんやけど。だって、この桜かなりの高齢ですよ」
ちょっと、素直な気持ちで反論してみた。
「ちがうよ! 年はとってても毎年花を咲かせると言う事は、桜は死と再生の女神なんだよ」
むきになって否定する。その勢いに押され、私は若干背をそらせた。
ダメだこの人、私の事ナンパしてるんだ。
友達の砂羽ちゃんと二人、学校帰りに四条に買い物に行くと、かなりの頻度でナンパされた。彼らの誘い文句の中には、君は女神だ天使だとか、歯の浮くようなセリフが多い。
私のいぶかしい視線を感じたようで、
「あっごめん! ナンパしてるわけじゃないからね」
とまた慌てふためいた。ナンパ男たちはたいがいそう言う。
たぶん、私より年上の男性だけど、その姿はなかなかかわいい。けど、変な人。
「桜って見る人によって、いろんなイメージがわくんですね」
話がそれた事にほっとしたのか、絵描きさんはくったくなく笑い、雄弁に語り出した。
「そうなんだ。日本人は万葉の頃から桜を愛でてきたけど、そのイメージは固定されてないんだ。たとえば、能の西行桜に出てくる桜の精は男性だし、谷崎潤一郎の本に出てくるのは、男を肥料にして育つ妖艶な美女。桜は、見る人の心を映す鏡なのかもしれないな」
心を映す鏡。その言葉が、すーと私の胸にしみこむ。祖母を亡くした悲しみが、桜という鏡に映し出されていたから、今年の桜は寂しげに見えたのだろうか? 悲しみは薄まることなく、年々暗く濃く、深まっていく。
名前も知らない男性に、妙に感動させられた自分が居心地悪く、
「じゃあ、あなたの心の中には女神が住んでるんですね」
と年上の男性をからかってみた。普段の私からは到底出てこないセリフ。
「君があんまり、きれいだったから」
絵描きさんは、枝垂れ桜を眺めながら恥ずかし気もなく、思いつめた顔で答える。
その表情が、私の心をざわつかせる。風に煽られた桜の花びらが舞い散る様に似ていた。
「やばい、時間がなかったんだ」
絵描きさんは突然叫び、画材や椅子を乱雑に一つにまとめて、私を振り返る。
「俺ここによく来るから、また会おう」
そう言い残し、どこかに風のように走りさっていった。
なんだったんだろう、今の人。表情がくるくると変わって、とらえ所のない不思議な人。でも私には、そんなの関係ない。
参拝客がちらほら歩きだした境内を後にして、自転車で帰途につく。
走りながら思い出した。結局絵を見せてもらってないことを。これでは、なんのために勇気を出して話かけたかわからない。
それにしてもああいうシチュエーション、少女マンガかよってつっこみたくなる。まさに、ガールミーツボーイ。こんなんで恋が始まるなんて三流マンガもいいとこ。私は絶対恋なんかしない。
四月、夜明け前の京都の街は、青磁色にそまり朝もやに包まれる。もう暦の上では春。だけど早朝の空気は、凛として冷たい。
私はそんな中、長い髪を風になびかせ、自転車を力いっぱいこいでいた。顔にあたる、すきとおる冷たい風を吸い込む。鼻の奥がつんと痛い。
明日は始業式。高校生活最後の年がはじまる。どうしても、今日中に行きたいところがある。それも、人々が動き出す前に。
賀茂川沿いを北に上がる。目の前にこんもりとした、新芽が芽吹く前のくすんだ森が見えてきた。すっかり夜が明け、景色は色をとりもどす。
目的地は、京都の北に鎮座する最古の社、上賀茂神社。
自転車を朱色も鮮やかな鳥居の下にとめ、参道を歩く。静まりかえった境内には、砂利を踏む私の足音だけが、響いていた。
よかった、まだ誰も来ていない。
鳥居からのびる参道の、東側に広がる芝生。そこに年老いた枝垂れ桜が、朝日をあびて咲いていた。濃い桜色の花は、まだ満開には遠い五分咲き。
だけど、私は満開の老桜よりも好きだった。満開になると後は散るのみ。散りゆく桜を見るのはなんだか寂しい。
デコボコした幹。枝は、四方に広がりその重さに耐えられないのか、いたるところを杖で支えてもらっている。でも、いたいたしい姿とは裏腹に、毎年春になると当たり前のように、可憐な花弁がその身を覆う。
その姿が二年前に他界した、祖母にかさなる。
大好きな祖母は、癌に蝕まれた体でも、最後の瞬間まで、当たり前のように微笑んでいた。祖母が元気な時は、毎年二人でこの桜を見にきた。今は私一人、この老桜に会いに来る。
一対一で向き合いたいから、他の人が来ない、早朝に。
霞がかった白い空を背景に、ぼんやり桜を見上げていた。なんだか今年の桜はよりどころなく、寂しげに立っているようだ。去年はただ綺麗としか感じなかったのに。
ふと涙が出そうになり、視線を下に向ける。誰もいないと思っていたら、人影が目に飛び込んできた。幹の陰に隠れて、気付かなかった。
その人は、アウトドア用の椅子に腰をかけ、スケッチブックとにらめっこしていた。伸びた髪が顔をかくし、遠目には性別も年齢もわからない。
京都には美術系の大学が何校もある。おまけに、世界の観光都市なので、国籍や年齢に関係なく、よく街中でスケッチする人を見かける。
私も美術部に所属して、美大をめざしている。なので、他の人の絵が気になる。おまけに目の前の絵描きさんは、一心不乱にという形容がぴったりな程、絵を描く事に没頭していた。
あんなに集中して描いている絵ってどんなだろう。
ムクムクと湧き上がる好奇心を抑えきれない。私はその人にソロソロと近付いていった。
あきれた事に、私が目の前に立っても気付かない。まったく桜を見ずにスケッチしている。近くで見ると、体つきから男性とわかった。
普段の私なら、絶対知らない男の人に声をかけたりしない。だけど、ここまで無視されると、挨拶してみたくなった。
「おはようございます」
おもむろに、顔を上げた絵描きさんの鳶色の瞳が私を見上げる。その瞳は、どこまでも見通すように澄んでいた。
年齢的に、美大生かな? 薄い瞳の色に、白い肌。どこか日本人離れした容貌。けれどのびすぎた髪が、端正な容姿のマイナス要因となっていた。かっこもよれよれのカーキのカーゴパンツに黒のフリースジャンパー。あまりセンスを感じない。
絵描きさんは何もしゃべらない。朝の柔らかな日差しをうけ、醒めたくない夢の中で遊ぶ少年のような顔をしている。
しびれを切らし、
「桜の絵を描いてるんですか?」
と言い終わるかどうかのタイミングで、春の強い風が吹いた。
スケッチブックは風に煽られ、ページがぱらぱらとめくれる。その上に置かれていたパステル諸共、地面に落下した。落ちたパステルは枯れた芝生の上に彩りをまき散らす。
私は波打つ長い髪を手で押さえ、振り返る。桜は、花で覆われた枝をしならせ、暖かな春の風を、老いた体全体で受け止めていた。
花びらが散らなくてよかった。
絵描きさんは慌てて、スケッチブックを抑え込み、四つん這いになってパステルを拾う。悠然と立っている桜とその姿の対比がおもしろい。私は澄ました顔で、拾うのを手伝った。
「拾ってくれて、ありがとう」
私の目の前に立った、絵描きさんは背が高い。低くてよく通る声でお礼を言い私の目をじっと見る。
「誰もいないと思ってたら、突然声をかけられてびっくりしたよ。目の前に桜の精が現れたのかと思った」
照れたように視線を外し、髪をかきあげる。
面と向かって、恥ずかしいセリフを言われた私の気持ちは、かなりドン引きしていた。でも、絵を見せてもらいたい一心で、なんとか逃げずに踏みとどまる。
「私、そんなふけて見えます? この枝垂れ桜おばあちゃんのイメージなんやけど。だって、この桜かなりの高齢ですよ」
ちょっと、素直な気持ちで反論してみた。
「ちがうよ! 年はとってても毎年花を咲かせると言う事は、桜は死と再生の女神なんだよ」
むきになって否定する。その勢いに押され、私は若干背をそらせた。
ダメだこの人、私の事ナンパしてるんだ。
友達の砂羽ちゃんと二人、学校帰りに四条に買い物に行くと、かなりの頻度でナンパされた。彼らの誘い文句の中には、君は女神だ天使だとか、歯の浮くようなセリフが多い。
私のいぶかしい視線を感じたようで、
「あっごめん! ナンパしてるわけじゃないからね」
とまた慌てふためいた。ナンパ男たちはたいがいそう言う。
たぶん、私より年上の男性だけど、その姿はなかなかかわいい。けど、変な人。
「桜って見る人によって、いろんなイメージがわくんですね」
話がそれた事にほっとしたのか、絵描きさんはくったくなく笑い、雄弁に語り出した。
「そうなんだ。日本人は万葉の頃から桜を愛でてきたけど、そのイメージは固定されてないんだ。たとえば、能の西行桜に出てくる桜の精は男性だし、谷崎潤一郎の本に出てくるのは、男を肥料にして育つ妖艶な美女。桜は、見る人の心を映す鏡なのかもしれないな」
心を映す鏡。その言葉が、すーと私の胸にしみこむ。祖母を亡くした悲しみが、桜という鏡に映し出されていたから、今年の桜は寂しげに見えたのだろうか? 悲しみは薄まることなく、年々暗く濃く、深まっていく。
名前も知らない男性に、妙に感動させられた自分が居心地悪く、
「じゃあ、あなたの心の中には女神が住んでるんですね」
と年上の男性をからかってみた。普段の私からは到底出てこないセリフ。
「君があんまり、きれいだったから」
絵描きさんは、枝垂れ桜を眺めながら恥ずかし気もなく、思いつめた顔で答える。
その表情が、私の心をざわつかせる。風に煽られた桜の花びらが舞い散る様に似ていた。
「やばい、時間がなかったんだ」
絵描きさんは突然叫び、画材や椅子を乱雑に一つにまとめて、私を振り返る。
「俺ここによく来るから、また会おう」
そう言い残し、どこかに風のように走りさっていった。
なんだったんだろう、今の人。表情がくるくると変わって、とらえ所のない不思議な人。でも私には、そんなの関係ない。
参拝客がちらほら歩きだした境内を後にして、自転車で帰途につく。
走りながら思い出した。結局絵を見せてもらってないことを。これでは、なんのために勇気を出して話かけたかわからない。
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