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六 ひねくれ殿下の贈り物。

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 朝食のあと、羽綺うき木鈴もくりんに案内されて、結局昨日は入ることのなかった自室――正堂おもやの東の間――へと移動した。さっきのことで、すこしだけ気分は落ち込んでいる。知らず、ふう、と、ひそかな吐息がもれていた。

 羽綺に与えられたらしいのは、ずいぶんと広い房間へやだった。

 向かって左手側には、いまはとばりが上げられている架子かししょうしょうが見えている。中央には瀟洒しょうしゃ几案つくえ椅子いし。正面の漏窓すかしまどの傍にはながいすが据えられ、右手の壁際には立派な架台たな、そして化粧台も用意されていた。そのすぐ近くには、羽綺が楊府から持ってきた行李こうりが置かれている。きっと泰然たいぜんが運び入れておいてくれたものだろう。

「こんな立派な房間を……ひとりで使っていいの?」

 贅沢すぎやしないかと思って羽綺がひとりごちると、なにをおっしゃるんですか、と、木鈴は笑った。

「当然です。奥様は夜王やおうの女主人なんですから」

 そう言われても、いまいちぴんとこなかった。

「でも、わたし、さっきは旦那様を怒らせてしまったみたい」

 ふう、と、また嘆息をもらしている。

(何がいけなかったのかしら)

 羽綺は憂い顔で思案したが、思い返してみれば、なぜか蒼瑛そうえいに対しては最初からあまり遠慮が働いてくれなくて、気分を損ねられても仕方がないような、結構な発言を繰り返していた気もした。

 しかし、反省する羽綺とはうらはらに、木鈴はからりとした明るい笑顔のままだった。

「平気ですよ。殿下はあれがわりと通常運転です。なんていうか、ちょっと理由わけあって慢性的に寝不足気味なので、苛々いらいらしがちな方ですけど、根は悪い人じゃないですから。口は悪いですけど。それにさっきのも、別に奥様に怒ってたわけじゃないですよ、たぶん」

「どういうこと?」

「えぇっとですね……あたしの口から勝手に言っちゃうと、殿下がまたやかましくなるかな。――と、いうわけで、殿下ぁ! そこにいらっしゃるでしょ? ぐずぐずしてないで入って来てください!」

 木鈴が閉まった扉の向こうに対して声を張り上げるので、羽綺はびっくりしてそちらを見た。

 しかし返事はなく、しん、と、静まったままである。わざわざ彼が羽綺を訪ねてくる理由にも思い当たらないし、房間へやの外に蒼瑛そうえいが来ているというのは、木鈴の勘違いではないだろうか。

 しかし少女はつかつかと扉のほうへと歩み寄ると、思い切りよくそれを引き開けた。

「殿下。往生際が悪いですよ」

 そしてそこには、たしかに蒼瑛が――眉をしかめた、ひどく難しい顔つきをして――立っていたのである。

「あの……何かご用でしたか?」

 羽綺も扉のほうまで出て行く。

 羽綺が近づくと、蒼瑛はあからさまにこちらから目を逸らした。が、その恰好のままで、ん、と、右手に提げている布の包みを無造作にぶっきらぼうにこちらに差し出してくる。

「なんですか?」

「着替えろ」

「え?」

「き、が、え、ろ!」

「は、はい!」

 蒼瑛の勢いに押されて思わず返事をしつつ、羽綺は布包みを受け取った。どうやら中身は襦裙きもののようだ。

「でも、旦那様」

 蒼瑛の行動の意味がわからず、つい、そう言ってしまう。すると相手は、じろ、と、右目だけで羽綺を睨んだ。

「でももヘったくれもあるか。あんたのいたよう府ではどうだったか知らんがな、あんたはこの夜王の妻になったんだ。王妃なら王妃らしい恰好をしろ。――わかったか?」

「あ、はい。――つまり、旦那様の恥になるような恰好はするなということですね」

「ば……っ!」

 蒼瑛はそこで、ぐ、と、言葉を呑んだ。が、おそらくこちらを莫迦ばかと罵りかけたのだろう。

 けれども羽綺には、いまの発言について、相手に愚か者扱いされるいわれはないように思われた。

(だって、そういうことではないの?)

「奥様、奥様。殿下の意図は、ちょっと微妙にちがいます」

 困惑する羽綺にそう助け船を出したのは木鈴だ。

「殿下はですね、奥様がご実家の楊府でどうやらひどい扱いを受けて受けていたらしいことをお知りになって腹を立て、ここ夜王府ではそんな扱いはしない、奥様にふさわしい丁重な対応をするつもりだと、そうおっしゃりたいのです。でもひねくれてるので、ああいう言い方になるんです。――ね、殿下?」

「な、だ、誰がそんなことを言ったんだ! あと誰が捻くれてるって!?」

「殿下です。あー、はいはい、言ってませんね。わかってますよー。――で、用がお済みなら、出てってくださいます? いまからあたしは、殿下のご命令どおりお着替えになる奥様をお手伝いいたしますから」

「そ、それは、とりあえず先代が倉庫くらに置いてったものを持ってきただけだからな! 気に入らなければ俺が新しくあがなってやるから言え。装身具かざりも適当に倉庫くらにあったのを入れておいたが、木鈴、お前、選んでやれよ。それから化粧品類は……」

「言われなくてもわかってますよ! 化粧台の中に、先代の夜王妃様のものが残ってますよね。奥様のご用意が整ったら殿下のもとへお連れいたしますから、はい、殿下はとっとと房間へやへ戻って! 邪魔です!」

 最後には木鈴は、蒼瑛を閉め出すようにして扉を閉めてしまった。

 王府のあるじを相手に邪魔とは、と、羽綺はぽかんとして目を白黒させた。が、木鈴にはすこしも気にした様子がないから、きっとこれが通常の彼らの遣り取りなのだろう。

「――ね、悪いお方じゃございませんでしょう? 天邪鬼あまのじゃくですけど」

 くるりとこちらを振り向いた木鈴が、にこ、と、笑ってみせた。

 どうやら先程朝餉の席を立っていった蒼瑛は、いま羽綺の手の中にあるは襦裙きもの装身具かざりを取りに自ら倉庫くらへ出向いてくれていたらしい。そのことを思って羽綺は、そうね、と、くちびるにほんのりとちいさな笑みを浮かべた。



 蒼瑛が用意してくれた襦裙きものは、月白げっぱく色のじゅに、透けるような閃蝶せんちょうくんを合わせたものだった。うえのころもすそえりの部分、それからしたのころものふわりと長いすそには、それぞれ薄紅うすべに色の糸で花の刺繍ぬいとりが施されている。生地も染めも、ふんだんにあしらわれた刺繍も、それが一級品であることをうかがわせた。

 歩揺かんざしは、繊細な蝶の細工さいくしろ翡翠ひすいたまをいくつも連ねて垂らしてある、こちらも襦裙に負けず劣らずの見事なものを木鈴が選んで挿してくれている。化粧も、白粉おしろいまゆずみ、それからまなじりや頬、くちびるに淡くさした紅など、少女は張り切って、かつ、楽しげに、羽綺を飾りたててくれた。

「殿下、殿下、奥様のお着替え、済みましたよ!」

 羽綺の身形みなりをすっかり整え終えると、木鈴は正堂おもやの中央に位置する蒼瑛の房間へやへと、こちらを半ば無理矢理引っ張っていった。

 そのまま扉を開ける。蒼瑛はどんな顔をするだろう、と、羽綺はすこしだけどきどきしたのだが、案に反して、居間に彼の姿はなかった。

「こっちだ」

 声は、間仕切りとなる屏風へいふうを挟んで隣接する、もうひとつの房間へや――臥室とは居間を中央に反対側にあたる――からしてくるようだった。

 間もなく屏風の向こうから蒼瑛が現れる。どうやらそちらの房間へやは書斎かなにかになっているらしく、手に冊子を持って、ひらいたそれに視線を落とした恰好かっこうだった。

 居間へ出てくると、彼は何気なく顔を上げて、羽綺のほうを見た。

 そして、そのまま、ぽかん、と、固まってしまった。 

「ふふん、殿下、いかがですか?」

 木鈴は羽綺の背を押して、蒼瑛の前に突き出すようにしながら、得意げに胸を反らせていう。

「……知るか」

 蒼瑛はぼそりと言って、羽綺から視線を逸らしてしまった。

「いま殿下、一瞬、奥様に見とれたでしょう?」

「だ、誰がだ!」

「殿下です。ふふ、そうですよね、そうですよね、奥様、とってもお綺麗ですもの。あたしも着飾らせ甲斐がありました!」

莫迦ばかなことを言うな! 俺は別に……!」

「いいじゃないですか、殿下。奥様は殿下の奥様なんですから、夫の殿下が見とれたって、誰も何も文句なんか言いませんよ。――はい、じゃあ、あとはおふたりで仲良くどうぞ」

 木鈴はそう言って、さらに羽綺の背を蒼瑛のほうへ向かってぐいぐいと押すと、そのままくるりと身をひるがえし、扉の外へさっさと出て行ってしまった。

「あの、旦那様……ありがとうございます」

 ふたりきりにされてしまって、しかも蒼瑛がむすっと黙り込んでいるものだから、気まずくなった羽綺はおずおずと口を開いた。

「なにがだ」

「襦裙や髪飾りや化粧です。お心遣いに感謝します」

「べつに」

 蒼瑛は相変わらずぶっきらぼうな返答だ。せっかくこちらが気を遣って話を振っているというのにすぐに沈黙をつくってこようとするので、羽綺は相手のその態度に、ちら、と、眉根を寄せた。

「……べつにって、なんなんですか」

 それはひとりごとみたいなものだった。が、蒼瑛は聞きとがめたようだ。

「あ? なんて?」

「いいえ、こちらこそ、べつに。――お言いつけに従って着替えましたけど、お気に召さないようならもとの襦裙に着替え直しますがと思っていただけです」

 にこ、と、敢えて笑ってやる。

「は? 誰がそんなことを言った?」

 蒼瑛は不愉快そうに顔をしかめて反論してくる。

「だってずっと目を逸らしてるじゃないですか」

 羽綺も負けじと言い返した。

「っ、それはあんたが……」

「わたしが?」

「なっ……い、言えるか!」

「なによ。言えないようなことを思ってるっていうんですか? 馬子にも衣装とか?」

「ちがう!」

「じゃあ、なんですか」

「なにって……知るか」

 ぼそっと言って、蒼瑛はついにはねたように、身体ごと向こうを向いてしまった。

 さらに卑怯にも、相手はそのまま先程までいた隣室へと逃げ込もうとする。つかつかと乱暴な足取りで屏風の向こうへ消えていこうとする背を、羽綺はほとんど反射的に追いかけていた。

「旦那様……!」

 その房間へやへ足を踏み入れた羽綺は、けれども最初の目的を忘れたように、目の前にあるものに視線を奪われた。

「これ、は……?」

 思わず蒼瑛を見上げて尋ねている。

 冊子や巻帙かんちつなどがうずたかく積まれたその房間へやには、奥の壁一面に、一枚の大きな絵が飾られていた。

 おそらくは竹からいた竹紙ちくしだろう淡い萌黄色の紙に、墨の濃淡で絵は描き出されている。天を突くような高い山があり、野があり、そこには川が流れ、湖沼こしょうが点在していた。奥に見えるのは海だろうか。

 そしてその絵の中には、そこここに、〈なにか〉がいるのだ。

 あるものは空を飛び、あるものは山の木々のかげ、野の草蔭に潜んでいる。あるいは川の流れに浮かび、あるいは湖沼の水面に映っている――……その、数多の〈なにか〉たち。

山海せんがいきょう図絵……夜王の号を引き継いだ者たちが代々守ってきたものの一つだ」

 羽綺の問いに、蒼瑛は今度ばかりはそう端的に答えをくれた。

「山海、境……?」

「ひとことで言えば、あちら側。俺たちが暮らす現世うつしよとは異なる場所。山の怪は、水の怪は魍魎もうりょうようしん……そういうものがいるところ」

 そんな蒼瑛の言葉を聴きながら、羽綺は目の前の絵をじっと見詰めた。
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