翡翠色の空の下で~古本の旅行ガイドブック片手に異世界旅行~

八百十三

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第3章 賓客として、旅行者として

第39話 世界の切り替わり

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※実里さん不在のため、登場人物の会話をドルテ語から日本語に翻訳して表記します。


 パトリックが紅茶のポットを手に戻り、グロリアとデュークに紅茶を入れていると、開けたままの扉がノックされる。そこから覗いていたのは、メイドのヘレナだった。

『奥様、ユウナガ様からお電話です』
『アサミから?』

 疑問符を頭に浮かべながら立ち上がるグロリア。デュークも不思議そうな顔をして自分の母を見た。

『アサミさんから電話? 母さんにか?』
『ちょっと行ってくるわね』

 小さく頷いて、足早に部屋を出ていくグロリアを見送ると、デュークはふと、今日の出来事を思い返して俯いた。

「(確か、アサミさんは『予兆』を感じ取れる人だと言っていた……もし、このタイミングで切り替わりがあるんだとしたら……?)」

 アサミが切り替わりの予兆を感じ取れるということ。グロリアにわざわざ電話で連絡をよこしたこと。
 そこから導かれる連絡の用件は、一つしか思いつかなくて。
 彼はがしがしと前髪を掻きむしった。

『あぁ、クソッ』
『坊ちゃま?』

 突然苦々しい声を上げるデュークに、パトリックが怪訝そうな顔を向ける。
 そんな執事に、沈鬱な表情のままデュークは声をかけた。

『パトリック……お前は、母さんと一緒に日本に行ったことがあるんだろう』
『はい、ございます』

 淡々と、同意を返してくるパトリック。その平静な彼の表情を直視できず、視線をついと逸らしながら、デュークはずっと引っかかっていた、その問いかけを投げた。

『ベンさんの店の出口が日本に繋がったら、フーグラーはどうなるんだ?』

 デュークの言葉に、一瞬だけパトリックの目が細められる。
 苦い表情を隠しながら、彼は静かに、ゆっくりとデュークへと告げた。

『……奥様と、ユウナガ様が仰るところによると、時間が停止する・・・・・・・のだそうです』
『時間が……止まる?』

 時間が止まる。
 その現実的ではない言葉に、デュークが首を傾げる。
 しかしパトリックは、至極真面目に、苦虫を噛み潰したような表情のままでこくりと頷いた。

『はい。アガター様の古書店の出口が日本に繋がった瞬間、フーグラーの、と申しますよりドルテ全体の時間は停止いたします。物も、人も、すべて・・・でございます。
 これは逆のことも申せますようで、古書店がフーグラーに繋がっている時は、地球の時間が止まるそうです。二つの世界は、同時に時間が流れることはございません』

 パトリックの説明を聞いたデュークの、その銀の瞳に絶望の色が浮かぶ。
 今自分たちがこうして動き、会話していられるのは、ドルテに出口が繋がっているから。これがひとたび地球に繋がれば、途端に何も出来なくなる。
 ということは、だ。実里がこの屋敷におらず、ゴドウィン先生の病院に運ばれて治療をされている今、そうなったとしたら。

『じゃあ……じゃあもし、ミノリ様が病院にいる間に、店の出口が切り替わったら?』

 小さく震えだす膝を両手で掴み、震える声で問いかければ、沈鬱な表情でパトリックが頷いた。

『お察しの通りです、坊ちゃま。
 サワ様はドルテに取り残され、再び出口がこちら側に切り替わるまで、身動きが取れなくなります……いえ、切り替わったことすらも認識することはないでしょう。地球側の時計が手元に無ければ、切り替わりが二度発生したことすら、気付くことは出来ません』

 その言葉に、デュークは膝を掴んでいた手でそのまま、自分の顔を覆うしかなかった。
 思えば自分だってそうだ。これまで地球とドルテ、二つの世界がそんな風に切り替わって、地球で時間が流れている時はドルテで時間が止まっていることなど、意識したこともなかった。ベンの店の裏口に異世界への扉があって、母や執事はそこを通って異世界に出かけているのだろう、などと想像を巡らせていた。
 ため息を吐きながら、デュークは自分のカップに口を付けるパトリックを見た。

『なんで……分かった風に言えるんだ、そんなことを』
『私は、奥様と一緒に一度経験していますからね。覚えていらっしゃいませんか?』

 そう話すパトリックは、目尻を下げながら小さく笑った。
 言われてデュークは、グロリアとパトリックが「フィールドワークに出てくる」と告げたまま、一ヶ月半家に戻らなかったことを思い出す。あれは確か、十三年前の冬の日だったか。
 グロリアが数週間、学会やら学術調査やらで不在にすることがなかったわけではないが、その時は全く足取りが掴めず、どこの国に問い合わせても所在不明だったものだから、市内が大いに慌てていたのを覚えている。結局、両手に日本ジャポーニア各地のお土産をたんまり抱えて帰ってきて、「方言が地方によって多彩で面白かったワー」などと宣って、全員を脱力させたのだが。
 あの時に、帰りそびれていたのだとしたら。あれだけの不在も、納得がいく話ではあった。

『あの時か……くそっ、巡ってきたチャンスが、こんな形で潰されるなんて』
『仰る通りです。不運と言うほかありますまい』

 苦々しく言葉を吐いて紅茶のカップに手を付けるデュークに、パトリックも悩ましそうに頭を振った。
 澤実里がフーグラーに転移してきてから、二日と幾ばくか。まだまだ観光の途中とはいえ、早く帰れるに越したことはない。それに、このタイミングで地球に帰れれば、彼女は地球で一秒も経過することなく、思い出と服だけを地球に持ち帰ることが出来たのだ。
 次にドルテの時間が流れ出すのがいつになるにせよ、地球に実里が不在になる時間が、出来ることは避けられない。

『……パトリック』
『はい、坊ちゃま』

 紅茶を飲み込んで、眉根を寄せつつデュークが再び口を開く。
 短く返事を返すパトリックに、彼は鋭い視線を投げかけた。

『地球の時間が進んだら、ミノリ様が日本に不在なことも、向こうの人に伝わるよな?』

 その問いかけに、パトリックは答えない。
 答えないまま、静かに紅茶を飲み込んだ。そうしてから、小さく息を吐いて言う。

『……なるべく早くに出口が再び切り替わることを、願うほかはございませんね』
『そうだよな……ハァ』

 その、迂遠な答えの意図を察してため息をつくデューク。
 彼が再び項垂れると同時に、部屋の入り口からグロリアがため息をつきながら入ってきた。電話応対をしていたにしては、随分長いこと席を外していたように思う。

『……ハァ』
『奥様……随分長く話されていらしたようで』

 意気消沈した様子でソファーに腰を下ろすグロリアに、パトリックが新しいお茶を淹れると、ティーカップを受け取りながらグロリアが眉尻を下げた。

『アサミからの電話が切れた後、すぐにアガター先生からも電話がかかってきたの。『アラーム・・・・』が鳴ったって』
『あの、切り替わり通知アプリのアラームでございますか?』
『母さん、なんだその、アラームって』

 目を見開いて言葉を返すパトリックと、何のことやら分からない様子のデューク。この執事と違い、息子は地球の技術にほとんど触れてこなかったから、分からないのも仕方がない話ではある。
 グロリアが両手の指で小さく長方形を描きながら、一つ一つ噛み含めるように説明していく。

『地球は、ドルテよりも随分技術が進んでいて、出来事の予測とか、計算とかを高い精度ですることが出来るの。地球とドルテの間での切り替わりがいつ起こるか、の計算もやっている人がいて、情報を発信しているのね。
 情報を受信していれば、その切り替わりの予測時間の一時間前になると、それを知らせるアラームが鳴るわけ。多分、私の部屋でも鳴ってたんじゃないかしらね』
『母さんの持ってる、あの薄く小さな機械が、か?』

 デュークが目を見開くと、グロリアはこくりと頷いて。そのままソファーの背もたれに身体を預けながら天井のランプを見上げた。

『もう、アガター先生にもアサミにも話したわ。今回のタイミングでミノリさんを帰すのは難しい、次の機会を待ちましょうって』
『そうか……』
『異血症のままお返しするわけにもいきませんからね……そもそもアガター様のお店までお運びすることも叶いません』

 落胆しつつ声を漏らすデュークも、小さく頭を振るパトリックも、理解はしていた。この状況で実里を地球に帰すのは、あまりにもリスクがありすぎる。
 三人とも、揃って深い溜め息をついた。

『『『残念――』』』

 そうして俯きながら、同時に言葉を零したその瞬間。
 フーグラー市の、マー大公国の、ドルテという世界全体の時間が、彼らも認識しないうちに、幕が下りたようにぴたりと止まった。



 同時刻。湯島堂書店にて。
 ベン・アガターはアーレント通りに面した店の入り口が、一気にシャッターが下りるように暗くなるのを見た。
 次の瞬間には石畳の敷かれたアーレント通りはなく、コンクリートの地面を自動車が走る、靖国通りが見える。
 すぐさま彼は窓際に置いていた二つの時計を見た。

「……やはり」

 片方は止まり、片方は動いている時計。
 止まっている方は先程まで動いていたドルテの時計、動いている方は先程まで微動だにしなかった地球の時計だ。
 切り替わったのだ。

「まずいなぁ……ジャックさんに連絡を入れておかなくては」

 ベンはすぐさま、カウンターに置いていたスマートフォンを手に取った。
 ドルテにいた頃はちっとも入らなかった電波が、今はしっかり入っている。この機を逃してはならなかった。
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