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第2章 ケモノ男子と古都観光

第15話 路地裏の告白

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「ヒューゴー、やめて! 下ろして!」
「Nu te lauda, Minori!」

 フーグラー市の大通りから踏み入った裏通りや小道を縫うようにしながら、私を抱えてヒューゴーは走り続けた。
 私が何度わめいても、腕から抜け出そうともがいても、その腕はちっとも緩まない。むしろ抱える力が強まっているようにも思えた。

「(どうしよう、どうしよう……「助けて」ってドルテ語で何て言うんだっけ?)」

 恐怖で混乱する頭を何とか働かせながら、「みるぶ」に載っていたはずの単語を思い返す。
 しかし、こんな裏通りだ。表通りからどれほど離れたかもわからないし、助けを呼ぶ声が他人に届くかも分からない。
 鞄のジッパーがちゃんと閉められていて、中身をぶちまけていないのは、幸か不幸か。どうせなら道に点々とぶちまけて、通ったルートがパーシー君やグロリアさんに分かったりしてくれたらよかったのに。
 後方から追いかけていたパーシー君の姿は、早い段階で見失ってしまった。裏通りはくねくねと曲がりくねっているし、何度か十字路やT字路を細かく曲がったから、仕方ないと言えば仕方ない。

 やがて、一本の細くまっすぐな路地に踏み込んだヒューゴーは、ようやく足を止めて息を吐いた。

「Daca vor veni atat de departe, nu vor observa... Minori, sunt vreo leziuni?」
「えっ、えっ?」

 何やら言いながら、ゆっくりと私を地面に下ろすヒューゴー。数分前に私の腹を本気で殴ってきた彼とは、まるで別人のようだ。
 突然の豹変に戸惑う私だったが、ハッとしながら入ってきた側の路地の入口に身体を向ける。
 そちらに走り出そうとした瞬間、目の前を臙脂色の毛に覆われた、太い腕が遮った。

「Nu fugi, Minori. Este teribil, nu-i asa?」
「通してよ! 何でこんなことするの!?」

 壁に突く形で私の進路を遮る、ヒューゴーの腕をどかそうと掴みかかるも、彼は無表情のままで首を振るばかり。
 グロリアさんの話だと日本語の聞き取りは出来るということだから、私の話していることは伝わって、理解しているのだろう。
 理解した上でのこの行動、ますます意図が掴めない。
 そうこうするうちにヒューゴーのもう片方の腕が、私の肩にかかった。そのまま、自分が腕をついた壁へと私を押し付ける。
 いわゆる、壁ドンという状況だ。しかし私に壁ドンしているのはイケメンでもなければお貴族様でもない。ただの獣人族フィーウル相応な身分の熊である。
 ケモナー女子なら狂喜乱舞するシチュエーションなのだろうけれど、生憎私にその手の属性はない。

「あっ……ぐ!」
「Te doare? Dar si asta este rau pentru tine, mentine-ma intr-o atitudine atat de atenta.」

 壁に押し付けられて小さく顔を顰める私に、ヒューゴーが私を見下ろすようにして目を細めた。
 何やらねっとりした口調で話しているが、もちろん私に意味は伝わらない。まさか壁ドンのシチュエーションよろしく、口説かれでもしているのだろうか。
 混乱し通しの私にそっと顔を近づけて、まるで本当に口説くようにして、優しい声色でヒューゴーが言った。

「Marori cu mine, Minori.」
「え……?」

 突然に耳元で甘い声色でささやかれた言葉に、私は呼吸が止まりそうになった。
 意味は伝わらないが、私の頭では内容を認識できていないが、これはつまりひょっとして。
 思考を加速させる私の耳元で、ヒューゴーは告白をし続けてくる。

「Ma indragostesc la prima vedere. Cu siguranta va pot face fericit. Diferenta dintre rasa si origine nu este o mare problema. Studiez japonezii in mod corespunzator.」
「えっちょっと待って、何、何を言っているの、一体!?」

 慌てて両手をヒューゴーの首元へとあてがって、ぐっと手に力を込めた私だ。
 私の手に押されたヒューゴーの顔が、私の真正面に戻ってくる。
 まっすぐに、私をその黒い瞳で見つめたままで。ヒューゴーの口が開かれて、飛び出した言葉は。

「好キ、ダ、ミノリ」
「は……!?」

 拙いながらも確かに発せられた日本語に、私は文字通り目を剥いた。
 ちょっと待ってほしい、それじゃあさっきまでの何やかんやは本気で私を口説きに来ていたのか。
 彼は私を好いていて、自分のものにしようとして、それでセオドアと私に、往来の真ん中であんなこと・・・・・を?
 ようやく事態を把握した私は、頭の奥の方からすぅっと熱が引いていく感覚に襲われた。

 嫌だ。
 こんな暴力熊の言いなりになんてなりたくない。

「……ヌ」
「Ah?」

 俯きがちになって小さく漏らした私の声に、ヒューゴーの目が僅かに開かれた。
 私はヒューゴーの肩を掴む手に、さらに力を込めながら顔を上げる。嫌悪感を顔いっぱいに表現しながら、彼をキッと睨みつけて口を開いた。

「ヌ! 嫌よ、嫌だって言ってるの! あんたに好かれるなんて! 冗談じゃないわ!」
「...Ok, deci nu poate fi ajutat.」

 ハッキリと示される私の拒絶の意思。
 ヒューゴーの表情が一瞬、悲しそうに曇ったかと思うと、彼は私の肩に置いた右手を離した。
 逃がしてくれるのか、と少しだけ期待したが。どうも様子がおかしい。

「Nu am vrut sa folosesc aceste mijloace, dar nu am alta posibilitate. Hai sa vorbim cu ceremonia lui Fiului.」

 表情を曇らせ、悲しそうな目で私を見つめるヒューゴーの右手が、彼の口元に伸びる。
 そうして親指の腹、黒い肉球を鋭い犬歯で挟むと、ぐっとその表面を一息に噛み切った。赤々とした鮮血が、じわりと彼の指から溢れ出る。
 その親指を。ヒューゴーは一切表情を動かさないままで、私の口元にゆっくり近づけてきた。

「ヒューゴー!? 何を……」
「Beti sangele si, Minori.」
「なっ、むぐ……!?」

 声を上げた途端に無理やり口に押し込まれた、ヒューゴーの右手の親指。
 その腹から溢れ出すヒューゴーの血の味が、私の口の中に広がっていく。
 汗と、鉄錆の味だ。この世界の獣人族フィーウルの血も、鉄の味がするんだなぁ、と、現実逃避するように考える。
 しかし、問題はそこではない。何故、何を思って、彼は私に自分の血を飲ませてきたのだろうか。
 ファンタジー系のゲームや物語で登場する狼男は、たまに相手に血を飲ませることでその相手も自分と同じ狼男にすることが出来るけれど、まさかこの世界の獣人族フィーウルもそんな能力を持っていたりするのだろうか。
 ヒューゴーはもしや、私を獣人族フィーウルに変えて逃げられなくした上で、娶るつもりでいるのだろうか。
 嫌だなぁ、それは。

 おおよそ1分ほど、私の口の中に親指を突っ込み続け、私の喉へとたんまり血を流し込んだヒューゴーは、そっと静かに指を抜くと。
 私の唾液でべとべとになった自分の指を、ねぶるように舐めた。ずっと表情が動かなかった彼の顔が、にやりと笑みを浮かべる。

「Saliva ta este dulce, Minori. Se pare ca miere.」
「……変態!」

 その笑顔がひどく醜いものに見えて、私は改めて嫌悪一杯の表情でヒューゴーを睨みつけた。
 なんというかもう、彼に「ミノリ」と名前を呼ばれるのも嫌な気分だ。
 顔をついと背けつつ、壁に突かれた腕の下をくぐって改めて脱走を試みるが、その私の左手首を彼の大きな手がしっかと掴んだ。

「やっ、離して!!」
「Este ceva de scapat, Minori. Tu imi apartii.」

 身体全体で体重をかけて、ヒューゴーの手を引きはがそうとする私だが、その力は強い。逃げるどころか、引っ張り返されて抱き竦められてしまった。
 そのまま私の左手を、まるで柔らかなフルーツでも運ぶような手つきで、ゆっくりと自分の開いた口へ運んでいくヒューゴー。
 その口にはずらりと、鋭く大きな牙が生え揃っている。

 噛まれる。
 本能的に察知した私は、恐怖に震えながら。
 覚えたてのドルテ語で、あらんばかりの大声で叫んだ。

アジュトール助けて!!」

 私が声を張り上げ、ヒューゴーの口の中へ私の手が収まろうとした、その瞬間だ。

「サワさん!!」
「Ma bucur sa va spun!」

 路地の入口から、転がり込むようにして飛び込んできた、灰色の毛皮を持つ狼の獣人族フィーウル
 その彼の後ろから路地になだれ込んできたのは、同じデザインの灰褐色の制服に身を包んだ短耳族スクルトの男達が三人だ。
 この都市に属する騎士だろうか。いずれもその手にはボウガンを構えている。

「Descoperiti criminalul, asigurati-l!」
「サワさん、屈んで!!」

 制服の男達が私の方に向けてボウガンを構えると同時に、壁に身体を寄せて身を屈めた状態のパーシー君が叫んだ。
 私はとっさに身を屈めた。間違いなくあのボウガンの狙う先はヒューゴーだ、私がいたら邪魔になるどころか、私が怪我をしてしまう。
 腕を目いっぱい伸ばしながらしゃがみ込んだその瞬間に。

「Foc!!」

 ヒュン、と風切り音が三つ鳴った。
 硬いものが肉に突き刺さる、ドスッという音が三度響いたかと思うと、私の左手を掴んでいたヒューゴーの手から、力が抜けるのが分かる。
 思わず上を見上げると、顔面にボウガンの矢を突き立てられたヒューゴーが、頭から血を流しながらぐらりと後方に身を傾ぐ、その瞬間が見えた。

 そして、ドゥッ……と地響きを立てながら。
 ヒューゴーの臙脂色の獣毛に覆われた身体が、路地に仰向けに崩れ落ちた。
 彼の胸元から、私のピンク色の長財布が零れ落ちて、路地の地面に転がる。
 呆然と、倒れたままピクリとも動かないヒューゴーを見つめたまま、力なく膝をついたままの私の傍まで駆け寄ってきたパーシー君が、そっと私の左手を持ち上げた。

「サワさん……大丈夫でしたカ、お怪我は……」
「パーシー君……」

 パーシー君の手袋をはめた手が、私の左手を優しく包むように重ねられる。
 その、全身灰色の毛で覆われたパーシー君の、澄んだ水色をした瞳に見つめられた私の瞳から、ぶわっと堰を切ったように涙が溢れ出した。
 私はそのまま、胸元に顔をうずめるようにして彼の胸に身を預けた。恐怖の一時から解放された私の喉から、とめどなく吐き出される涙声。

「うっ、うわぁぁぁぁん……!
 怖かった、怖かったよぉ、パーシー君……!」
「サワさん……もう大丈夫ですヨ、大丈夫デス……」

 怖かった。とても怖かったのだ。
 私はパーシー君に抱かれるようにして、騎士たちがヒューゴーの遺体を運び出してからも、しばらくの間泣きじゃくったのだった。
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