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第3章 日本の魔物と符術士の権利
第40話 退院離脱
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俺の指先が、つまんでいたナットをくるくると回していく。歪み無く回っていったナットが、ネジの根元の部分までカチンと合わさった。
そのナットを逆に回して今度は緩める。こちらの動きも問題はない。そのナットとネジを見せながら、俺は早瀬先生に目を向けた。
「問題ない、っすかね」
「そうだね、大丈夫だろう」
俺の言葉に、早瀬先生がこくりと頷く。リハビリは順調すぎるくらいに順調だ。ここまであっさりと、指先の機能が戻るとは思っていなかった。
俺の驚きに早瀬先生も同調して、メガネを直しながら俺の手から渡されたネジとナットを見つめた。
「いや、しかし驚いたな。腕の移植からまだ一週間だろう? それでここまで機能を回復させられるだなんて」
「いや、その」
早瀬先生の言葉に、頭の後ろに手をやりながら俺は答える。正直、俺自身ここまですぐにリハビリを終えられるとは思っていなかったのだ。それもこれも、彼のおかげだと思っている。
「やっぱり、鷹嘴さんに下手なところ、見せらんないっすし」
「なるほど……そうだね」
鷹嘴さんの名前を出せば、早瀬先生も納得したように頷いた。
あの後、鷹嘴さんはA棟405号室のベッドに戻ってきた。しかし記憶の欠落は著しく、40歳より前のことや今回の入院以降のことはほとんど覚えていない。何度か言葉を交わしたが、俺の顔も俺の父親のことも覚えている様子はなかった。
視線を落とす俺に、早瀬先生がこちらに目を向けながら言う。
「あれから、話はしたかい」
「んと、まあ、二言三言。俺のこと覚えてなかったっすけど」
素直に言葉を返せば、早瀬先生もため息をつきながら頷いた。
人間だった頃の脳味噌を失い、新たに再生した魔物の脳味噌を持つということは、魔素症深度四の「身も心も魔物になる」というのとはわけが違うのだ。人間だった頃の記憶を失い、人間らしい感性も失い、生まれながらそうであったかのように魔物になるのだ。
本当に、そのままであればC棟に収容され続けていたであろうところが、A棟に戻ってきたのは驚きしか無い。それもこれも、鷹嘴さんの性格が穏やかであるがゆえにだろう。
納得した様子でもう一度頷く早瀬先生が、俺の顔をまっすぐに見た。
「そうだろうね。だけど、まあ、あれだ」
俺の顔を見ながら、真剣な表情をした早瀬先生が口を開く。俺がきゅっと口を結んでいると、彼は静かに話し始めた。
「鷹嘴徹治は死んでいない。まだ生きて、その力を人々のために使おうとしている。そんな姿を見せられて、君みたいな若い符術士が奮起しないわけがない」
死んでいない。生きている。そして完全な魔物になってもなお、自分の身体を人々のために捧げようとしている。なんと尊いことだろう。そんな人が間近にいて、俺にその姿を見せていて、俺が弱気になっているわけにはいかないのだ。
俺の顔を見た早瀬先生が、にっこりと笑いながら言った。
「君にはまだまだ未来があるんだ。頑張ってもらわなくちゃね」
「そう、っすよね」
彼の言葉に頷きを返しながら、俺は視線を診察室の外に向けた。窓の向こうには青空が広がっている。その青空を、俺はもうすぐ直接見られるのだろうか。
「退院は、出来るんっすかね? ここまで行ったら」
「そうだね、最終的な機能テストはやらなくちゃならないが、それをクリアしたら明日にでも退院は出来るだろう。退院手続きは並行して済ませておく」
俺が問いかけると、こくりと頷いた早瀬先生が書類を傍らに置きながらパソコンのディスプレイに目を向けた。電子カルテに文字が打ち込まれ、俺の退院に関しての情報が打ち込まれていく。
どうやら、俺の退院はもう間近らしい。このまま機能テストをクリアすることが出来れば、晴れて職場復帰というわけだ。
真剣な表情になる俺に、ちらと早瀬先生が視線を向ける。
「交野君」
「はい?」
不意に名前を呼ばれ、俺は小さく目を見開いた。その俺の目を見つめながら、早瀬先生が口を開く。
「君はすごい力を持っているんだ。グレード4キャリアであることだけじゃない、ウェアウルフの腕と早々に適合しただけじゃない。君の、君自身の、符術士という仕事に対して恐れを抱かないその姿勢」
真剣な表情でそう言いながら、早瀬先生は俺に熱い視線を送ってきていた。
お世辞という雰囲気ではない。そもそもからしてこの数週間、俺と何度も話をして、親身になって話を聞いてくれた人なのだ。お世辞を言う必要もないだろう。
その早瀬先生が、こくりと頷きながら俺へと言ってくる。
「魔物と相対しても怖がらないその精神は、間違いなく君の力だ。誇っていい」
「そ……そう、っすか」
真剣な表情でそう言われて、小さく頭をかく俺だ。
ここまで手放しで褒められると、逆に恥ずかしい。まだまだ符術士としては未熟な俺だ、こんなに色々と言われるのは少しばかり、恐縮したくもなる。
うつむきながら恥ずかしげに頬を染める俺に、早瀬先生はこくりと頷いた。
「そうだとも。君はまだまだ先に進めるはずだよ。もしつまずいたらいつでもおいで、待ってるから」
「あ……ありがとうございます」
その言葉に、ますます頬を赤くしながら俺は頭を下げた。ここまでのお墨付きを貰って恥ずかしくならない符術士がいるものか。
俺の言葉にこくりと頭を下げて、早瀬先生はくいと親指を扉の方へ向けた。
「じゃ、今回はここまで。午後4時くらいに最後の機能回復テストをするから、それまで休憩といこう」
「はい、了解っす」
その声に、頭を下げつつ俺は椅子から立ち上がる。診察室を出て、病室であるA棟405号室へ。
「ふー……」
ため息をつきながら病室へと向かう。このルートを歩くのも、もう何回もないだろう。
そうこうするうちに405号室は間近に迫っている。その扉を開けながら、俺は小さく頭を下げた。
「失礼しまっす」
「おかえり」
病室の扉を開けると、ちょうど同室の患者の中野さんと目が合った。彼に会釈をしながら、俺は中野さんの向かいのベッドに目を向ける。
「おかえりなさい」
「お疲れ様っす、鷹嘴さん」
そこには灰色の毛皮を持つウェアウルフがいて、こちらを優しい目をして見ていた。誰あろう、鷹嘴さんだ。白かった髪の毛は手術の際に剃られてしまって、もう灰色の被毛に隠れてまばらに見えるだけになっている。
そんな鷹嘴さんが、俺を見ながら目を細めてくる。
「だいぶ、身体の調子も良くなったのかな」
「そうっすね、もうすぐ退院っす」
彼の言葉に頭を下げつつ、自分の使っているベッドに腰を下ろす俺だ。このベッドに横たわるのも、多分今日が最後だろう。早いところ片付けもしなくてはならないし、母親に退院できる旨を伝えなくてはならない。
スマートフォンを手に取り、母親に連絡を入れ始める俺を見て、鷹嘴さんが嬉しそうに何度か頷いた。
「そうかそうか。若い君なら回復も早いことだろう。回復したらやるべきこともあるはずだ。体を壊さない程度に、頑張ってくれよ」
「そう……っすね」
鷹嘴さんの、ともすればありきたりな言葉に、ちくりと胸が痛む。
これまでの鷹嘴さんなら、人間だった頃の記憶を残したままの鷹嘴さんなら、もっと真に迫った、含蓄ある言葉を投げてくれたはずだ。もう彼は教員歴の長い名伯楽ではない、復元能を有するだけのウェアウルフなのである。
そのことにますます悲しい気持ちを感じながら、しかし俺は鷹嘴さんへと向き直る。
「あの、鷹嘴さん」
「うん?」
声をかけると、鷹嘴さんが再び俺へと目を向けた。そんな彼に、俺は深く頭を下げる。
「ありがとうございます。色々、ためになる話、聞かせてもらいました」
「ん……うん?」
述べられた礼の言葉を聞いて、鷹嘴さんが目を見開きながら声を漏らした。
なんで礼を述べられているのか、よく分からないと言いたげな表情だ。しばし目を瞬かせた後、鷹嘴さんが後頭部を掻きながら口を開く。
「そんなに、僕は君に話をしたっけな」
「ん……まぁ、それなりに、っすね」
彼の言葉に目を細めながら、俺はもう一度頭を下げた。
彼はもう、俺のことも、俺の父親のことも、覚えていてはくれないんだろう。だがそれでも、彼が優れた指導者で、彼が俺の父親の恩師であることには変わりはない。
俺の言葉に鷹嘴さんが、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「そうかそうか。僕の言葉が役に立ったならいいことだ。頑張ってくれよ」
「はい……ありがとうございます」
その言葉に、目頭が熱くなる。
俺は今後も頑張っていかなくてはならないのだ。まだまだこんなところで死ぬわけにはいかないし、腐っているわけにもいかないのだ。
早く退院して、仕事に復帰して、そして符術士として活躍をしていかなくては。他の人のためにも、鷹嘴さんのためにも。
そして俺は退院準備を進めながら、小さく目を細めつつスマートフォンで関係者各位に退院する旨を連絡するのだった。
明日からは、また忙しくなる。それが俺には、ひどく嬉しいと感じていた。
そのナットを逆に回して今度は緩める。こちらの動きも問題はない。そのナットとネジを見せながら、俺は早瀬先生に目を向けた。
「問題ない、っすかね」
「そうだね、大丈夫だろう」
俺の言葉に、早瀬先生がこくりと頷く。リハビリは順調すぎるくらいに順調だ。ここまであっさりと、指先の機能が戻るとは思っていなかった。
俺の驚きに早瀬先生も同調して、メガネを直しながら俺の手から渡されたネジとナットを見つめた。
「いや、しかし驚いたな。腕の移植からまだ一週間だろう? それでここまで機能を回復させられるだなんて」
「いや、その」
早瀬先生の言葉に、頭の後ろに手をやりながら俺は答える。正直、俺自身ここまですぐにリハビリを終えられるとは思っていなかったのだ。それもこれも、彼のおかげだと思っている。
「やっぱり、鷹嘴さんに下手なところ、見せらんないっすし」
「なるほど……そうだね」
鷹嘴さんの名前を出せば、早瀬先生も納得したように頷いた。
あの後、鷹嘴さんはA棟405号室のベッドに戻ってきた。しかし記憶の欠落は著しく、40歳より前のことや今回の入院以降のことはほとんど覚えていない。何度か言葉を交わしたが、俺の顔も俺の父親のことも覚えている様子はなかった。
視線を落とす俺に、早瀬先生がこちらに目を向けながら言う。
「あれから、話はしたかい」
「んと、まあ、二言三言。俺のこと覚えてなかったっすけど」
素直に言葉を返せば、早瀬先生もため息をつきながら頷いた。
人間だった頃の脳味噌を失い、新たに再生した魔物の脳味噌を持つということは、魔素症深度四の「身も心も魔物になる」というのとはわけが違うのだ。人間だった頃の記憶を失い、人間らしい感性も失い、生まれながらそうであったかのように魔物になるのだ。
本当に、そのままであればC棟に収容され続けていたであろうところが、A棟に戻ってきたのは驚きしか無い。それもこれも、鷹嘴さんの性格が穏やかであるがゆえにだろう。
納得した様子でもう一度頷く早瀬先生が、俺の顔をまっすぐに見た。
「そうだろうね。だけど、まあ、あれだ」
俺の顔を見ながら、真剣な表情をした早瀬先生が口を開く。俺がきゅっと口を結んでいると、彼は静かに話し始めた。
「鷹嘴徹治は死んでいない。まだ生きて、その力を人々のために使おうとしている。そんな姿を見せられて、君みたいな若い符術士が奮起しないわけがない」
死んでいない。生きている。そして完全な魔物になってもなお、自分の身体を人々のために捧げようとしている。なんと尊いことだろう。そんな人が間近にいて、俺にその姿を見せていて、俺が弱気になっているわけにはいかないのだ。
俺の顔を見た早瀬先生が、にっこりと笑いながら言った。
「君にはまだまだ未来があるんだ。頑張ってもらわなくちゃね」
「そう、っすよね」
彼の言葉に頷きを返しながら、俺は視線を診察室の外に向けた。窓の向こうには青空が広がっている。その青空を、俺はもうすぐ直接見られるのだろうか。
「退院は、出来るんっすかね? ここまで行ったら」
「そうだね、最終的な機能テストはやらなくちゃならないが、それをクリアしたら明日にでも退院は出来るだろう。退院手続きは並行して済ませておく」
俺が問いかけると、こくりと頷いた早瀬先生が書類を傍らに置きながらパソコンのディスプレイに目を向けた。電子カルテに文字が打ち込まれ、俺の退院に関しての情報が打ち込まれていく。
どうやら、俺の退院はもう間近らしい。このまま機能テストをクリアすることが出来れば、晴れて職場復帰というわけだ。
真剣な表情になる俺に、ちらと早瀬先生が視線を向ける。
「交野君」
「はい?」
不意に名前を呼ばれ、俺は小さく目を見開いた。その俺の目を見つめながら、早瀬先生が口を開く。
「君はすごい力を持っているんだ。グレード4キャリアであることだけじゃない、ウェアウルフの腕と早々に適合しただけじゃない。君の、君自身の、符術士という仕事に対して恐れを抱かないその姿勢」
真剣な表情でそう言いながら、早瀬先生は俺に熱い視線を送ってきていた。
お世辞という雰囲気ではない。そもそもからしてこの数週間、俺と何度も話をして、親身になって話を聞いてくれた人なのだ。お世辞を言う必要もないだろう。
その早瀬先生が、こくりと頷きながら俺へと言ってくる。
「魔物と相対しても怖がらないその精神は、間違いなく君の力だ。誇っていい」
「そ……そう、っすか」
真剣な表情でそう言われて、小さく頭をかく俺だ。
ここまで手放しで褒められると、逆に恥ずかしい。まだまだ符術士としては未熟な俺だ、こんなに色々と言われるのは少しばかり、恐縮したくもなる。
うつむきながら恥ずかしげに頬を染める俺に、早瀬先生はこくりと頷いた。
「そうだとも。君はまだまだ先に進めるはずだよ。もしつまずいたらいつでもおいで、待ってるから」
「あ……ありがとうございます」
その言葉に、ますます頬を赤くしながら俺は頭を下げた。ここまでのお墨付きを貰って恥ずかしくならない符術士がいるものか。
俺の言葉にこくりと頭を下げて、早瀬先生はくいと親指を扉の方へ向けた。
「じゃ、今回はここまで。午後4時くらいに最後の機能回復テストをするから、それまで休憩といこう」
「はい、了解っす」
その声に、頭を下げつつ俺は椅子から立ち上がる。診察室を出て、病室であるA棟405号室へ。
「ふー……」
ため息をつきながら病室へと向かう。このルートを歩くのも、もう何回もないだろう。
そうこうするうちに405号室は間近に迫っている。その扉を開けながら、俺は小さく頭を下げた。
「失礼しまっす」
「おかえり」
病室の扉を開けると、ちょうど同室の患者の中野さんと目が合った。彼に会釈をしながら、俺は中野さんの向かいのベッドに目を向ける。
「おかえりなさい」
「お疲れ様っす、鷹嘴さん」
そこには灰色の毛皮を持つウェアウルフがいて、こちらを優しい目をして見ていた。誰あろう、鷹嘴さんだ。白かった髪の毛は手術の際に剃られてしまって、もう灰色の被毛に隠れてまばらに見えるだけになっている。
そんな鷹嘴さんが、俺を見ながら目を細めてくる。
「だいぶ、身体の調子も良くなったのかな」
「そうっすね、もうすぐ退院っす」
彼の言葉に頭を下げつつ、自分の使っているベッドに腰を下ろす俺だ。このベッドに横たわるのも、多分今日が最後だろう。早いところ片付けもしなくてはならないし、母親に退院できる旨を伝えなくてはならない。
スマートフォンを手に取り、母親に連絡を入れ始める俺を見て、鷹嘴さんが嬉しそうに何度か頷いた。
「そうかそうか。若い君なら回復も早いことだろう。回復したらやるべきこともあるはずだ。体を壊さない程度に、頑張ってくれよ」
「そう……っすね」
鷹嘴さんの、ともすればありきたりな言葉に、ちくりと胸が痛む。
これまでの鷹嘴さんなら、人間だった頃の記憶を残したままの鷹嘴さんなら、もっと真に迫った、含蓄ある言葉を投げてくれたはずだ。もう彼は教員歴の長い名伯楽ではない、復元能を有するだけのウェアウルフなのである。
そのことにますます悲しい気持ちを感じながら、しかし俺は鷹嘴さんへと向き直る。
「あの、鷹嘴さん」
「うん?」
声をかけると、鷹嘴さんが再び俺へと目を向けた。そんな彼に、俺は深く頭を下げる。
「ありがとうございます。色々、ためになる話、聞かせてもらいました」
「ん……うん?」
述べられた礼の言葉を聞いて、鷹嘴さんが目を見開きながら声を漏らした。
なんで礼を述べられているのか、よく分からないと言いたげな表情だ。しばし目を瞬かせた後、鷹嘴さんが後頭部を掻きながら口を開く。
「そんなに、僕は君に話をしたっけな」
「ん……まぁ、それなりに、っすね」
彼の言葉に目を細めながら、俺はもう一度頭を下げた。
彼はもう、俺のことも、俺の父親のことも、覚えていてはくれないんだろう。だがそれでも、彼が優れた指導者で、彼が俺の父親の恩師であることには変わりはない。
俺の言葉に鷹嘴さんが、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「そうかそうか。僕の言葉が役に立ったならいいことだ。頑張ってくれよ」
「はい……ありがとうございます」
その言葉に、目頭が熱くなる。
俺は今後も頑張っていかなくてはならないのだ。まだまだこんなところで死ぬわけにはいかないし、腐っているわけにもいかないのだ。
早く退院して、仕事に復帰して、そして符術士として活躍をしていかなくては。他の人のためにも、鷹嘴さんのためにも。
そして俺は退院準備を進めながら、小さく目を細めつつスマートフォンで関係者各位に退院する旨を連絡するのだった。
明日からは、また忙しくなる。それが俺には、ひどく嬉しいと感じていた。
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