サラリーマン符術士~試験課の慌ただしい日々~

八百十三

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第3章 日本の魔物と符術士の権利

第36話 右腕復旧

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 明くる日の午後、リハビリを行っている俺の前で。
 俺を担当するリハビリテーション科の早瀬はやせ先生は、俺の右腕をつぶさに観察しながら、驚きに目を見開いていた。

「……これは、驚いたな」

 先生が、俺の手の中を見ながらぽつりと零す。
 俺の右手に握られているのは、ラバー製のパイプだ。中空になっていて、木の棒ほど硬さは無いが、厚みがあるため握るとそこそこ硬い。
 そのパイプが、俺の手の中で押し潰されていた。手を開くと、弾力を持って元の形に戻る、が、俺の手の跡がくっきり残っていた。

「そうっすよね……こんなに早いもんでしたっけ?」
「いや、異例の速さだ……これは、もう次の段階までリハビリを進めていいだろう」

 パイプを何度か握ったり開いたりしながら言葉を零す俺に、早瀬先生は首を振る。
 そう、俺が腕の移植を行ってから、まだ一週間くらいしか経っていないのだ。リハビリを始めたのは外皮形成手術を終えてからだから、今日が四日目。驚くべき速さだ。
 リハビリ初日に早瀬先生から受けた説明では、一週間かけて握力を取り戻し、一週間かけて指先の細かな動きを出来るようにする、という話だったのだが。俺はその最初の工程を、半分の時間で済ませてしまったことになる。
 肩をすくめながら、先生は俺の手からパイプを取った。それを棚の中にしまって、入れ替わりに何かを取って、再び俺の前に座る。

「今日までのリハビリは、握力を取り戻すまでの内容だった。それが交野君の最重要とも言える項目だっただろう。しかし、今日それをクリアした。ここからは細かな指の使い方を取り戻す段階だ」

 そう話しながら、先生は先程取り出した箱を俺の前に差し出してきた。プラスチック製の透明なケースの中、底が見えないくらいにそれ・・が雑多に入っている。

「そのために、これを使う」
「これって……ナットっすか?」

 そう、ケースの中にごちゃっと入っていたのは、たくさんのボルトとナットだった。大きさも長さも様々なボルトと、それに合うように作られたナット。
 それを俺に指し示しながら、先生は頷く。

「そう、ボルトとナット。これを締めたり、緩めたりする作業をやってもらう」

 蓋を開け、箱から一本のボルトと一つのナットを取り出し、手のひらの上で転がしながら先生は話を続ける。つまり、これをいじくることで指先の繊細な感覚を取り戻す、というわけだ。

「最初のうちは指でボルトをつまんだり、ナットを挟んだりということから。それが出来るようになったらナットを回して緩めたり、締めたり。これで指先の力も取り戻す」

 そう言いながら、先生は手の中のボルトとナットを、俺の左手の上に置いた。手の上のそれを右手の指でつまみあげようとして、上手く保持できなくて落としたり、力を籠めすぎて指が震えたりしながら、俺は呟いた。

「なんか……ひん曲げちゃいそうで、怖いっすね」

 実際、怖かった。俺の手の力は前よりも……人間の腕だった頃よりも上がっている。皮を張り替えられたウェアウルフの腕はすっかり俺の身体になじんでいるが、それでも筋力は魔物のそれだ。
 不安になってこぼす俺に、頷きながら早瀬先生は言う。

「だからこそだ。最初のうちは曲げてしまっても構わない。歪んでも気にせずにやってくれ」
「……うっす」

 そう言いながら、早瀬先生は再び立ち上がった。そして棚の下の方、別の箱を取って持ってくる。中を見せてもらうと、そこには曲がったナットやボルト、ネジ山の部分が削れたり歪んだりしたボルトが入っていた。
 結構な量だ。つまりそれだけの数、犠牲になった奴らがいるということ。もしかしたら俺みたいに腕を取り換えた人間だけでなく、生まれついて魔物の人たちもこの訓練をやって、何度もボルトをひん曲げたりしたのかもしれない。
 苦笑する俺の肩を、早瀬先生が優しく叩く。

「じゃ、今日はここまで。明日の九時から、また始めよう」
「了解っす。ありがとうございます」

 先生にそう返して、頭を下げてから。俺はリハビリに使う道具を返して、リハビリテーション室を後にした。
 病院の午後、落ち着いていた時間が過ぎて再び慌ただしさを増している。看護師が書類を持ってあちこち行き来して、患者も診察室から出て自分の部屋に向かうなどしていた。

「ふーっ……」

 勿論俺もその一人。だけどリハビリで神経を使ったので、手近なベンチで少し休憩だ。
 座って一息ついていると、足元近くから声がかかる。

「おや、交野さん」
「あれ……赤川さん?」

 俺に声をかけてきたのは、猫小人ケットシーの赤川さんだった。意外なところで、意外な人と逢うものだ。
 驚きに目を見開いていると、彼の方から俺に話を振ってくる。

「お疲れさまです。リハビリでしたか」
「はい、そうっす。赤川さんも、ここにいるってことはなんかの治療っすか?」

 ベンチの上に飛び乗って、俺の隣に座る赤川さん。彼を見下ろしながら俺からも問いかけると、頷いた赤川さんは自分の腰を撫でた。

「ええ、ちょっと腰を。事務畑とはいえ、身体は傷んでしまうものですから。腰痛は毎年言われるのですが、今年の定期検診でも指摘されてしまいましてね」
「あー……それは、大変っすね」

 曰く、基本的にパソコンの前に座りっぱなしで、ケットシーの身体ではハードな運動もできないため、慢性的な腰痛持ちなのだとか。先程も湿布を貼ってもらったらしい。
 なるほど、こういうことがあるのなら、定期検診を義務付けられるのも仕方がない。弓田さんとか巨鱗鳥シャンタクだから、人間社会で生きるには色々と大変そうだ。

「鮫島さんと弓田さんは?」
「二人は病室で片付けを。私も本日退院いたしますので」

 そう話しながら、にこやかに笑う赤川さんだ。きっと彼もこの後自分の病室に戻り、片付けをして病院を後にするのだろう。

「そっすか……せっかく知り合えたのに、ちょっと残念っすね」

 そう告げながら、小さく肩をすくめる俺だ。こうして別会社の人と知り合えるのは貴重な機会。これで終わりになってしまうのは勿体ないことだと思う。
 それは赤川さんも同様だったようで、小首を傾げながら口を開いた。

「いえいえ。これをきっかけにまた別の場所で出会うかもしれませんから。私は見ての通りこの体格なので、街中で見つけるのは大変かも、しれませんけれどね」
「ふっ……そっすね」

 彼の言葉に、小さく笑ってしまう。確かに街中で、人間の膝下くらいの身長しかない猫小人ケットシーを探すのは大変そうだ。
 と、ニコニコと笑いながら、赤川さんが再び口を開く。

「ええ。ところで、交野さん……」

 一度言葉を区切った彼は、僅かに目を開きながら再び俺に問うた。

「鷹嘴さんは、まだお戻りには?」

 彼の問いに、俺はハッとする。
 そう、俺の病室、隣のベッドは、未だ空いたまま。毎日確認しているのだが、鷹嘴さんの名前がかかっているのに、鷹嘴さんの姿は無い。

「戻っては来てないっすね……もう一週間になるはずなのに」
「そうですか」

 ゆるゆると頭を振りながら言うと、落胆したように赤川さんが言った。そして、ため息を付きながら言い出す。

「……やはり、『あの話』は事実だったのかもしれませんね」
「えっ?」

 その発言に、俺の眉間に僅かにしわが寄った。
 あの話、とは。俺は全く耳にしたことが無い。

「赤川さん、なんっすか、それ」
「おや、耳にされてはいらっしゃらなかったですか? 鷹嘴さん、今回はかなりの数の部位を提供されたと噂になっているのですよ。肝臓、腎臓、脾臓に胆嚢、胃や腸、眼球に脊椎まで」

 目を見開きながら話す赤川さん。そしてその内容は驚くべきものだ。
 そんな、あちこちの臓器をドナーとして提供するなんて。身体の中をほとんどカラッポにするも同じではないか。
 ふと俺の頭を不安がよぎる。その勢いで、もし鷹嘴さんが心臓も提供していたら。

「そんなに……あの、心臓まで提供したとか、そういうことは」
「どうでしたでしょうか……鷹嘴さんはベテランでいらっしゃるから、提供されていても不思議ではないですけれど」

 そこまでは記憶していなかったらしい赤川さんが首を捻る。ハッキリしなくてもどかしい。
 どうしたものだろう。もしこれで鷹嘴さんが心臓も提供していて、蘇生しないことを選んでいたら。もっといろいろな話を聞きたかったのに、その機会が失われていたとしたら。
 思わず、黙りこくってしまう。赤川さんが怪訝な表情で、俺の顔を覗き込んできた。

「……」
「交野さん?」

 俺を見上げてくる赤川さんの金色の目を見つめ返しながら、俺は沈鬱な声色で問いかけた。

「鷹嘴さんが……どこの病棟に行ったか、赤川さんは知らないっすか」

 どこにいるのか、せめてそれだけでも分かれば、なにか現状が分かるかもしれない。そんな希望を以て問いかけると、赤川さんはゆるゆると頭を振った。

「存じていますよ。しかし、決して入れないでしょう」
「なんでっすか」

 その答えに思わず身を乗り出す俺だ。知っているのに入れないとは、何故か。
 赤川さんは、その理由を丁寧に教えてくれた。

「C棟……『魔物用病棟・・・・・』にいらっしゃるからですよ」
「あ……」

 その言葉に、俺の表情から力が抜ける。
 C棟は魔物専用の、それも異世界からやってきた魔物の隔離や、状態を注視する必要がある魔物の隔離に使われる病棟だ。
 鷹嘴さんが全身のあらゆる臓器を提供し、それでもまだ生きているのなら、C棟に入るのも道理。A棟の病室にまだベッドが残っているのにも、きっと理由があるのだろう。
 安心したような、不安なような。複雑な心境になり、再びうつむく俺だった。
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