サラリーマン符術士~試験課の慌ただしい日々~

八百十三

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第2章 苦悩する男と人狼騎士

第20話 悪鬼疾走

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「ギギギッ!」
「ギガッ、ガカッ」
「はぁっ、はぁっ……!」

 向山三丁目の住宅街の中を、緑色の肌をした小人が剣を片手に駆けていく。
 その小人に追われるようにして、息を切らせながら走っているのは一人の女性だ。近所に住む人だろう、豊島園駅の傍にあるスーパーのビニール袋を手に握っていた。
 明らかに、女性は小人に狙われていた。
 小人の一体が、スリング状の投石器を振り回して小石を投射した。ヒュンと音を立てて飛来した小石が、女性のかかとに当たる。

「あっ!」

 石をぶつけられたことによる鋭い痛みに顔を顰めながら、女性がアスファルトの道路に倒れ込んだ。
 道路に手をつく女性に追いついた小人が、ニタリと笑って青銅製の剣を振り上げる、その瞬間に。

「いたぞ、ゴブリンだ!」
「標さん、女性が襲われているっす!」

 交差点の角から、俺と標さんは飛び込んだ。
 俺達が居る交差点からゴブリン二体がいるところまで、およそ十メートル。先頭のゴブリンと倒れた女性のところまではもう二メートル。
 俺も標さんも近接武器だから、武器によって排除することは叶わない。ゴブリンの剣が振り下ろされる方が格段に速いだろう。
 ならば取れる手は一つだ。俺は懐から護符を一枚取り出す。同時に標さんも一枚の護符を握った。
 同時に、声を張る。

風刃ウインドカッター!」
火矢フレイムアロー!」

 護符を振るいながら発する発動文句。シロクラボ製の護符は護符の名前を発するだけなので楽だし、早い。使いやすさに関してはやはり業界最古参であるだけのことはある。
 しかして俺の発した風の刃が後方のゴブリンの背中に切り傷を作り、標さんの発した炎の矢が先頭のゴブリンの頭部を撃った。

「ギャァァァッ!!」
「ギギィッ!?」
 
 頭を貫かれながらその身を炎で焼かれ、断末魔の悲鳴を上げつつ剣を取り落とす先頭のゴブリン。アスファルトの道路に落ちた剣が、カランと乾いた音を立てる。
 傷をつけられ、仲間がやられたことで激高したらしいゴブリン二体が、女性の方からこちらへと身体を向けた。いずれも瞳に怒りをにじませている。
 俺たち二人を睨みつけるゴブリンの真正面に立ち、注意をこちらに引きつけさせながら、驚きの表情でこちらを見る女性に標さんが言葉を投げた。

「そこのお嬢さん、ここは僕達が抑えるから逃げて! 向山庭園が近いからそっちに!」
「は、はいっ!」

 取り落していた鞄とビニール袋を両手に掴んで、びっこを引きながらゴブリンから離れる方向、豊島園駅の方へと女性は進んでいく。
 ゴブリンの意識がそちらに向かないことに安堵しながら、剣を構えたままで俺は口を開く。

「標さん、なんで向山庭園なんっすか……? 買い物帰りの感じでしたし、この近所に住んでる人っぽかったっすけど」
「交野君、あの女性、足を怪我していたの分かった?」
「えっ」

 標さんの言葉に目を見張る俺だ。そういえば確かに、足取りが重かったように見えた。怪我をしていたなら納得だ。
 女性が去っていった方向を見つめながら、標さんが言う。

「今立ち去っていたのを見ただろう、足を引きずっていた。
 あの女性の家がここから遠くちゃ意味ないし、向山庭園に身を寄せさせたほうがいい」
「あーなるほど……そうっすね」

 その言葉に目を開きつつ俺は頷いた。確かに、この近辺に住んでいたとしてもこの近くに家があるとは限らないわけだ。
 家が遠く離れているのを、怪我した状態で歩かせるのはよろしくない。当人にも負担がかかるし血も流れる。それなら近所の公共施設に入って手当してもらったほうがいい。
 俺が納得した様子を見て、標さんが笑みを浮かべながら言葉を続けた。

「それに、魔物に追いかけられていた一般人はパニックになっていることが多い。混乱したまま逃げさせるより、明確にどこに逃げろって指定したほうがいいことも多いんだ。
 怪我をしている場合は特にそう。そこまではって思って、身体が動くからね」
「なるほど……」

 戦闘中であることを一瞬忘れるような明確な説明に、思わず目を見開く俺だ。
 確かに魔物に襲われれば人はパニックになる。咄嗟に自分の家の位置を思い出せないこともあるだろう。
 それなら近所のランドマークに向かわせた方が安全、というその判断は実に理に適っている。

「僕達の仕事はどうしても、一般人が巻き込まれた現場に居合わせることも多い。符術士だからね。
 だからどうやって一般人を効率よく逃がして、護符の効果を発揮できるようにするか考えるのも、大事って――ぃよいしょぉっ!」

 話しながら轟音と共に戦鎚を振り抜き、接近していたゴブリンを吹き飛ばした標さんだ。
 この動作の淀みなさ、容赦の無さ、さすがはフリーランス。特定の工房に所属せずに経験を積んでいるだけのことはある。
 後方にて様子を窺いながら、標さんによって吹き飛ばされたゴブリンの身体を受け止めたゴブリンがよろめくのを見て、初めて標さんは俺に視線を向けた。

「よし、女性も逃げた、ゴブリンもまとまった。今ならいけるでしょ、交野君」
「あ、はい、そうっすね! あざまっす!」

 礼を述べつつ俺は懐から試験対象の護符を取り出した。
 黒波ブラックウェイブはエネルギーの波で対象を飲み込み、範囲内の押し流す効果のある護符だ。味方や非戦闘員が巻き込まれかねない状況では使えないものの、その心配のないケースでは広範囲を攻撃できて強い。こうした通路なら尚更だ。
 護符を掲げて、仕様書に書かれた文句を高らかに告げる。

黒風白雨こくふうはくう波濤壊壊はとうかいかい!」

 刹那、俺の眼前から立ち上るように真っ黒な水が出現した。
 それは津波のように質量と厚みを持っては持ち上がり、急速に押し寄せてはゴブリンの身体を飲み込んでいく。

「ギィィィィッ!!」
「ギャァァァァ!!」

 波の只中でダメージを受けているのだろう、ゴブリンの声が波音の中に聞こえて、どんどん遠ざかりながら消えていく。
 そうして波が引き、消えた頃には、物言わぬ骸となったゴブリン二体と、既に絶命し焼き焦がされたゴブリンの骸が向台三丁目の街路に横たわっていた。

「ん、オッケーオッケー。だいぶしっかり押し流せるね、仕様通りだ。
 交野君、どう? 使った感覚としては」

 やっと緊張を解き、戦鎚を下ろした締切さんが俺の方に顔を向けた。
 詰まるところは試験対象の護符の状況確認だ。主たる目的はこちらであるわけで。
 なので俺も、包み隠さずに真実を告げる。

「そうっすね……ちょっと、身体が引っ張られるような感覚があるっす。自分が波に引き寄せられるような……」
「あぁ、そういう。ちょっと威力が強すぎるのかなぁ……それ、しっかりフォームにメモっといてね」
「うっす、じゃ――」

 これで試験は完了、と俺が言うより早く、標さんと俺のスマートフォンが鳴った。私有のものはロッカーの中にあるはずだから、今鳴っているのは社有の端末だ。
 けたたましく鳴る俺の手元のスマートフォンには、「緊急出動要請」の通知が出ている。日本という国家から符術士に発令される出動要請が、そこに出ていた。
 俺がその通知をタップし、内容を確認するのと同時に、別の通知音を鳴らすスマートフォンを標さんが耳元に当てる。

「はい、標です……はい、はい、通知来たやつね。光が丘公園? 規制線も引かれてるのか、了解、すぐに向かいます。はい、じゃーねー」
「今の事件っすか?」

 通知の内容を確認した俺が標さんに鋭い視線を向けると、彼はこくりと頷いた。やはり、先の通話はそれに関するものだったらしい。恐らく相手は間渕さんだろう。
 国家資格でもある符術士は、その存在を日本という国に認知されている。それ故に一地域の符術士や日頃から魔物の出現に敏くしている符術士だけでは対処できないであろう大規模な案件にあたっては、該当地域の周辺地域に在勤、在住の符術士に出動要請がかかるのだ。
 それはつまり、危険度の高い案件がそこにあることを示す。練馬区在勤のアルテスタの符術士が近隣の区に出現した魔物に対応するのは、大概こうした緊急出動が理由だ。
 しかして予想していた通りに、標さんがこくりと頷く。

「ん、光が丘公園に脅威度Bプラスのサラマンダーが大量出現だ。
 脅威度Bマイナスのブラッドドッグの目撃情報もある。練馬区と板橋区、和光市の工房および符術士に緊急出動。すぐに行くよ」
「ブラッドドッグ……」

 先程に自分でも確認した、魔物の出現情報の詳細を話に聞いて、俺は一瞬目を伏せた。
 ブラッドドッグ。牟礼さんと同じ魔物。
 牟礼さんが魔物と勘違いされて討伐対象になっていないだろうか、それとも牟礼さんとは別の個体が出てきているのだろうか。
 確か牟礼さんの住まいは成増、光が丘からは近い。牟礼さんにも通知が行っている可能性は高い。
 俺は心に決めた。出現したブラッドドッグが牟礼さんだろうとそうでなかろうと、やることは一緒だ。

「うっす、行きましょう」
「モニタリングは間渕さんがしてくれる。交野君、社有のインカム持ってきてる?」
「あ……ないっす……」
「えー。まぁ試験からの連続出撃だからしょうがないか。僕からあんまり離れないようにね?」

 そう言って苦笑しながら、標さんは前方、豊島園駅の方に向けて走り出した。ゴブリンの死骸など目にもくれない。
 ただ、こればかりは当然だ。緊急出動が出ている状況、魔物の死骸および素材にかかずらっている暇はない。全く無い。こういうケースがあるから、魔物の素材を取り扱う素材屋の収入にもなるんであって。
 俺は護符を懐にしまって、標さんの後を追って走り出した。光が丘公園は都立公園、人も多い。被害を出すわけにはいかなかった。
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