サラリーマン符術士~試験課の慌ただしい日々~

八百十三

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第2章 苦悩する男と人狼騎士

第19話 心中狼狽

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 翌朝。
 俺は確かに寝坊はしなかった。
 いつも通りの時間に家を出て、いつも乗る電車に乗って練馬まで行き、アルテスタの社屋に立ち入って、タイムカードを打刻したのだ。
 だがしかし、地下一階に降りて試験課のフロアに入った時。

「あれ?」

 俺は思わず声を上げた。
 いつもなら、俺の隣の席に既に牟礼さんはいて、不機嫌な顔をしてディスプレイとにらめっこしているはずなのだが、その姿は席に無い。
 牟礼さんが遅刻、というのは考えにくい。今まで俺より後に出勤してきたことなど、一度もない人だ。
 ロッカーに荷物を仕舞うことも、羽織って来たジャケットを脱ぐことも忘れてぽかんと立ち尽くす俺に、既に出勤していた間渕さんが声をかけてくる。

「おはようございます、交野君。どうしたんですか、そんなところで」
「えっ、あ、おはようございます……あの、牟礼さんはまだなんっすか? 欠勤の連絡は……」

 間渕さんの声にようやく我に返った俺がそそくさとロッカーに向かうと、俺の背後から困惑したような、不思議そうな声が聞こえてくる。

「まだ、ですね……欠勤の連絡もありません。珍しいですね、欠勤なら大体八時半より前には連絡があるのに」
「そう……っすよね、どうしたんでしょう」

 そんな声に生返事を返しながらロッカーの中に吊るしてあった試験課の制服に着替えて、鞄をしまって席に着いた瞬間。
 コール音を鳴らしながらデスクの真ん中に置かれた内線電話が鳴った。コール元を示すランプは、総務課の一番だ。

「あら……? 総務課から、ですね」
「俺が出ます」

 座ったばかりの席を立って、身体を伸ばして内線電話の受話器を取る。実際、デスク上のパソコンやモニターの配置の都合上、俺か間渕さんが一番手を伸ばしやすいのである。
 受話器を耳に当てた俺は、努めて冷静に口を開いた。

「お疲れ様っす、試験課の交野です」
『お疲れ様でーす、総務課の宇崎うざきでーす。牟礼さんから試験課にお電話が入っていまーす』
「えっ……はい、転送お願いします」

 宇崎さんの間延びした声が告げた言葉に、内心、ドキリとした。
 このタイミングで牟礼さんから電話がかかって来るとは、一体何事だ。嫌な予感が頭をよぎる。
 やがて、宇崎さんが受話器を置くと同時に、宇崎さんが転送してきた牟礼さんと電話がつながる音がする。先程までとは違い、空気の籠もったような音が耳についた。

「もしもし、総務課の交野っす」
『コゾウカ、俺ダ』
「どうしたんっすか、今日……それに、その声」

 受話器から聞こえて来た牟礼さんの声は、低く、しゃがれて歪だった。昨夜に直接聞いた、ブラッドドッグ状態の牟礼さんの声だと、俺にはすぐわかった。
 その声を聞いて俺はすぐに確信した。牟礼さんは今も、魔獣化ウェアビーストによって魔物の姿のままでいるのだ。
 果たしてそれを裏付けるかのように、牟礼さんの声が吐息と唸り声が混じる中に聞こえてくる。

魔獣化ウェアビーストノ副作用ガ長引イテイテ、マダ人間ニ戻レテイナイ。課内ニハ体調不良デ欠勤スル、ト伝エテクレ』
「……は、はい、了解っす」
『ヨロシク頼ム』
「はい……失礼します」

 牟礼さんの言葉を確認して、通話を切って受話器を置いた俺は、ふーっと息を吐いた。詰まっていたような息がようやく解放されたように思えて、脱力しながら椅子に腰掛ける。

「……牟礼さん、欠勤だそうっす」
「そうですか……やはり、昨日の体調不良が長引いているのでしょうか」
「みたいっす……」

 心配そうにうっすらと目を細める間渕さんだ。
 それに口では同意を返し、心の中では牟礼さんの現状をバラしちゃいけない、バレたら終わりだ、と戦々恐々としながら、俺がパソコンの電源ボタンを押し込むと。

「牟礼さんの様子に、何かおかしなところはありませんでしたか、交野君」
「っっ!?」

 唐突に投げかけられた間渕さんの問いに、俺は身体が竦み上がるのを抑えるので精一杯だった。言葉に詰まってしまったのを不審がられはしなかっただろうかと、後になってすごく心配になる。
 それでも何も言えないでいるのはまずい、と脳味噌をフル回転させ、俺は何とか言葉を捻りだした。

「えー、あー、そうっすね……なんかちょっと、声がしゃがれていたような」
「声? ……喉風邪でもひかれたのでしょうか」

 俺の言葉に首を傾げる間渕さんだ。よかった、どうやら切り抜けられたらしい。
 実際、牟礼さんの声がしゃがれていたのは事実だ。ただしゃがれているだけではなく、ぎこちなくて歪になってはいたけれども、俺は決して嘘はついていない。
 と、そこに出社してきたのは標さんだ。いつも通り、始業時間間際の出勤である。昨日の飲酒が尾を引いているのか、表情が少し疲れていた。

「おはようございまーす。あれ? 牟礼さん来てないの。お休み?」
「あっ、はい、そうみたいっす……おはようございます、標さん」
「おはようございます」

 キョトンとした表情でこちらを見る標さんに、挨拶を返す俺と間渕さん。すると標さんはますます不思議そうな目をして俺を見つめてきた。

「そっかー、昨日の飲み会のこと話そうと思っていたのになぁ……ま、今度でいいか。で、交野君どうしたの、汗すごいけど」
「へっ!?」

 唐突に話を振られ、俺はそこでようやく自分が冷や汗をかきまくっていることを自覚した。
 考えてみればまぁ、当然の話だ。こんなに朝から気を揉むようなことが立て続けに起こって、身体の反応が普段通りなはずもない。
 慌ててハンカチを取り出し汗をぬぐい始める俺に、間渕さんが不審そうな目を向けてくる。

「まさか交野君も具合を悪くしたとかではないでしょうね、結局あの後、お店の前で別れてしまいましたし」

 間渕さんの視線が刺さると同時に、標さんも俺に不思議そうな目を向けるのをやめてくれない。
 もう、完全にパニックだ。テンパったと言ってもいい。
 俺はわたわたと手を動かしながら、何とか状況を打開しようと口を動かした。視線が向くのは実装試験用の護符が収められた引き出しだ。

「だ、い、大丈夫っす!! あ、ま、間渕さん確か開発課から実装試験に回す護符が来てましたよね!」
「……? ええ。有藤さんの黒波ブラックウェイブが回されています。
 魔物の出現は……あ、いますね。向山三丁目で七分前に、脅威度Cマイナス、ゴブリンが三体。行きますか?」
「行ってきます!!」

 もう矢も楯もたまらず、俺は椅子から立ち上がった。
 机の引き出しから引っ張り出した実装試験用のスマートフォンを手に握り、引き出しの中に入っていた黒波ブラックウェイブの護符を掴んで、逃げるようにフロアの外へと駆けていく。
 そんな俺の背中に、標さんの慌てた声が飛んでくるも、俺の足を止めるには至らない。

「ちょっと、交野君、単独での試験は駄目だって!?」
「何を逸っているんでしょうね……標さん、お願いします。私は出現状況のモニタリングを行いますので。試験資料も標さんの端末にお送りします」
「了解了解ー」

 深くため息をついた間渕さんが椅子に座り直す。
 標さんは小さく肩をすくめて苦笑を零すと、ロッカーから制服を取り出した。



 そして、西武池袋線の豊島園駅を出て、としまえんの外周を歩き出す俺の隣には、口を真一文字に結んだ標さんがいた。
 呆気なく、俺は捕まってしまったわけである。
 事実、俺は端末と護符こそ持っていたものの、自分の武器である剣を持って出ることを忘れていた。普段使っている護符も持ち出さなかった。何ともお粗末である。
 忘れたことに気が付いたのはアルテスタの社屋を出てからで、気付いて足を止めたところでそれら一切を一緒に持ってきてくれた標さんに追いつかれたのだ。

「……」
「あの……すんません、俺……」

 無言のままですたすたと、俺の横について歩く標さんに、いたたまれなくなって謝る俺だったが。

「ま、いいよ。どうせ牟礼さんとなんかあったんでしょ、昨日」
「へ……え、いや、なんでそれを」

 あっけらかんと答える標さんに、俺はぽかんとする他なかった。よく足を止めなかったものだと、今になって思う。
 それにしてもなんで、昨日に俺が牟礼さんと何か・・があったことを言い当てたのだろうか。牟礼さんに噛まれた痕が残っていただろうか、いや、噛まれたにしても甘噛みレベルで皮膚を貫かれてはいなかったのだけど。
 俺の言葉に、標さんが笑いながらこちらを見た。大きな自分の鼻を、とんとんと指先で叩いてみせる。

「なんかねー、牟礼さんのにおい・・・がしたんだよね、交野君から」
「におい? ……あっ」
「やっぱりね。殴られたかなんかしたでしょ」

 昨日の一連のやり取りを思い出して、俺はハッとした。
 実際に、俺は牟礼さんの脚に結構な時間踏みつけにされていた。甘噛みもされていた。もっと言えば牟礼さんの隣に立って結構長いこと話をした。
 牟礼さんのにおいが、身体に残っていないわけはない。それでも昨日はシャワーをしっかり浴びたはずだったんだけれど。
 標さんが再び前を向きながら、後頭部をぼりぼりと掻きつつ口を開く。

「僕も一応符術士としてのキャリアは長いし、魔素に晒されることも結構あったからね。魔素の影響で、鼻が敏感になっちゃったから、何となくわかるんだ」
「魔物のにおい……ってやつっす?」
「そうそう」

 あっさりと、何でもないように自身の病歴を話す標さんに、俺は目を見張った。
 魔素症の深度一で、身体機能が強化されることは得てしてあることだ。目がよくなったり、聴力が上がったり、運動能力が上がったり。
 そして標さんがそうであるように、嗅覚が増強されるケースもある。
 ただし、単純に鼻がよくなったのとは訳が違う。魔物の気配や種類、動きを察知できるということは、ただ魔物のにおいを嗅ぎ取れるようになるのとは別物だ。
 ある意味での特殊能力。魔物の形質の獲得。深度二の魔素症で発生する現象が、彼には起こっているということだ。
 と、俺が驚愕していると、標さんの足が止まった。住宅街の十字路の真ん中で、ある一点を見つめて得物である巨大な戦鎚に手をかけている。

「……と、噂をすれば臭ってきたぞ。ゴブリンだ。何かを追いかけているかな」
「え、それまずくないっすか!?」
「まずいね、人が襲われているかもしれない。急ごう」

 その言葉を残して、標さんは一直線に駆け出した。重量級の武器を持っているとは思えない、素早いスピードだ。
 俺も慌てて後を追いながら、符術士という仕事の、試験課という部署の難しさ、闇の深さを垣間見た気がして、ほんの僅かに眉間に皺を寄せるのだった。
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