サラリーマン符術士~試験課の慌ただしい日々~

八百十三

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第2章 苦悩する男と人狼騎士

第18話 黒犬告白

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 路地の奥まったところ、少し道幅が広くなっているところで、ブラッドドッグの姿のまま牟礼さんが地面に座る。
 俺はその隣で壁に寄り掛かるようにしながら、ただ静かに牟礼さんが口を開くのを待っていた。
 牟礼さんの、黒い大きな尻尾が、ふさりと揺れる音だけが時折聞こえる。
 そしてしばらく沈黙が流れたのちに、彼は鋭い牙の生え揃った口をゆっくりと開いた。

「コゾウハサッキ、『魔獣化うぇあびーすとの護符の副作用が出ている』ト言ッタガ、詳細ハ少シチガウ。
 護符ナシデ魔物化デキルコトハソノ通リ……みす・るうぇりんト同ジダガ、俺ノ体内ニハ今、実際ニ・・・魔素ガ満チテイル……魔獣化うぇあびーすとノ作用ガ強ク働キ過ギテイル状態ダ」
魔獣化ウェアビーストの効果の、疑似的に体内に魔素を満たして……ってやつのが、本当に魔素が身体に満ちている、ってことっすか」

 俺が問い返すと、牟礼さんはこくりと頷いた。
 魔獣化ウェアビーストの護符は体内に『疑似的に』魔素を満たして魔物へ姿を変える護符だ。副作用によって護符を使わず魔物になれるようになったとしても、体内に魔素が生じることにはならない。
 しかし牟礼さんの場合はそうではない。魔物の姿を取り、同時に体内に魔素が存在する。すなわち、普通の魔物と同様の状態であるということだ。

「ソウダ。魔素ヲ体内デ生産スルコトコソ出来ナイガ、今ノ俺ハ深度四ノ魔素症患者ト大差ガナイ。思考モ欲求モホボ、魔物ノソレダ」
「……治療は、してるんっすよね?だから飲み会とか行かずに定時帰りしてる感じっすか」
「アア、ダカラ酒モ飲マナイ。専門医ニカカッテ、定期的ニ魔素ヲ投与スルト共ニ、魔物ノ本能ト、発情ヲ抑エル薬、ヲ処方サレテイル」

 牟礼さんの話によると、魔素にどっぷり漬かってしまった身体は簡単には正常な状態に戻せず、体内の魔素が消費しつくされると体調にも影響を及ぼしてしまうため、医者の管理のもとで魔素を投与しているのだそう。
 同じく魔素症に罹った娘さんも牟礼さんと一緒に、薬を処方されて人間らしく生活できるように体質を整えているんだそうだ。

「発情……ってことはその、やっぱり七年前の淫魔襲撃事件が影響して、ってことっすか?」
「グルル……コゾウ、オマエハアノ事件ニツイテ、何ヲ知ッテイル?」

 俺の言葉に、牟礼さんが真っ赤な瞳を向けてくる。その内に秘められた感情の動きは、彼の瞳からは読み取れない。
 顎に手を当てながら、俺は夜空を見上げつつ口を開いた。

「えー……
 二〇一二年八月、成増のデンエーにインキュバスとサキュバスが大人数で襲撃をかけて、人々を襲って……で、深度四の患者と深度三の患者が、大量に発生した、ってところっすかね……」
「ソコマデ知ッテイルナラ、イイカ……ソノ、深度四ノ患者ノ中ニ、俺ノ娘モイル」

 ふーっと長い息を吐きながら零した牟礼さんが、何かを諦めたようにぽつりと呟いた。
 牟礼さんの娘さん。事件当時は十歳だと聞いているから、今の時期は高校生になっているであろう、牟礼さんの血を受け継いだ肉親。
 成増での事件の際に、淫魔に襲われ深度四の魔素症を発症し、人間を辞めてしまった少女。その愛する少女が人間を辞める瞬間を、牟礼さんはその目でしかと見ていたわけで。
 確認するように、言葉を区切りながら、俺は言葉を投げかけた。

「娘さんが……淫魔になった、ってこと、っすか」
「アア。今ハ薬デ性欲ヲ抑エテ高校ニ通ッテイルガ、魔物化シタ当時ハモウ、二次性徴スラマダダッタト言ウノニ盛ッテ盛ッテ酷イモンダッタ。俺モ何度、自分ノ娘ニ食ワレタカ知レン」

 歪な人語を吐き出しながら、牟礼さんが忌々し気に顔を背ける。
 嫌悪感を覚えるのも無理はないだろう、自分の娘とそういうことをするとなれば。おまけに本人にはその気も無いのに、娘の方から迫ってくるとあっては。
 顔を背けたまま、赤い瞳を細めて牟礼さんは話を続けた。

「長年連レ添ッタ妻トモ、ソレガ元デ離婚シタ。両親ハ既ニドチラモ居ナイ。
 人間ヲ辞メタ娘ヲ抱エテ、頼リニシテイタ妻ニモ見捨テラレ……気持チノ折レタ俺ハ、自分カラ人間ヲ辞メル他ニ、選択肢ガナカッタ」
「だから、ブラッドドッグの魔獣化ウェアビーストの護符に手を出したってことっすか……副作用も承知で、キャリアでありながらも魔物化するために」

 牟礼さんの目が向く先に、俺も目を向けながら、確認するようにそう言葉を投げると、牟礼さんの顔がぐいとこちらを向いた。
 まっすぐに俺の目を見つめてくる赤い瞳には、諦念の色が見て取れる。

「俺ガきゃりあデアルコトモ知ッテイルノカ……大方、サッキ課長ガ話シタナ?」
「えー、あー……まぁ、そうっすね」

 牟礼さんの紅く鋭い瞳に見つめられた俺は、さりげなく視線を逸らすので精いっぱいだった。
 さっきの快気祝いの飲み会の時に、そんな話があったような気もする。なかったような気もする。ちょっと記憶が定かではない。
 俺が答えをはっきりと言わないことにもやもやした様子だったが、諦めたようにため息をつくと、牟礼さんは重々しく口を開いた。

「グル……ソウダ。横流シサレタ魔獣化ウェアビーストノ護符デ毎晩姿ヲ魔物ニ変エ、魔素ヲ含ンダ薬ヲ常用シテ体内ニ魔素ヲ取リ込ミ、俺ハヨウヤク魔物ニ――娘ト同ジ生キ物ニナッタ。
 半年モ続ケレバ魔素値ノ閾値ヲ軽ク超エ、人間ノ姿ヲ忘レタ、立派ナ化ケ物ノ出来上ガリダ」
「……そのことを、課長も……なんなら社長も、知ってるわけっすよね? 工房がスタートした時からの付き合いなんだとしたら」

 自嘲するようなその言葉に、俺はうっすらと目の端がにじむのを感じながらも言葉をかける。
 魔獣化ウェアビーストの護符を半年間毎日使い続け、魔素を含む非合法な薬を飲み続け、淫魔と化した娘さんと欲望のままにあんなことやこんなことをしていたのであれば、人間の姿を取れなくなっても不思議ではない。
 レイラさんは十五年間という長きに渡って白狼の魔獣化ウェアビーストを使い続けてきたとはいえ、魔物と相対する時しか使用しないできたからここまで人間でい続けられた。牟礼さんはその何倍も多くを使ってきたのだ。当然の帰結である。
 そんな状態から、人間の姿を取れるようになるまでに回復させた吾妻先生の手腕も勿論だが、社長や課長は一体どれほど、彼をサポートしてきたことだろう。献身的なんて言葉じゃ足りないはずだ。
 俺の顔にその真っ黒な顔を寄せて、すんと鼻を鳴らした牟礼さんが、大きな前脚を俺の肩にかけた。硬く締まった肉球が、シャツ越しに当たってくる。

「モチロン、知ラレテイル。ダガ、社長モ課長モ、俺ヲ魔物トシテデハナク、一人ノ符術士トシテ扱ッテ、必要トシテクレタ。先生モ、俺ガモウ一度人間トシテ生キラレルヨウニシテクダサッタ。
 ソノ恩ニハ、報イタイト思ッテイル。
 ソレニ、コノ姿デハ、俺ラシイ戦イ方ガデキン。でばいすモ使エナイカラ試験ニモ差シ障ル。コレヲ知ラナイ間渕ヤ標ヲ、驚カセルワケニモイカン」
「……」

 俺を間近に見ながら、牟礼さんは低く、しゃがれた獣の声のまま、そう言った。
 今までに見たことの無い、俺を遠ざけてきた牟礼さんが見せたことの無い、彼の口から発せられる工房の仲間を想い、感謝する言葉。
 この牟礼考志という男は、別に冷血漢でも、仕事の鬼でもないのだ。ただ、生真面目で、人との接し方が不器用で、口が悪い、性根は誠実な人間なのだ。
 そのことを知れたことが、なんだか嬉しくて。俺はそっと、牟礼さんの胴体に手を伸ばした。黒々としたばさついた毛並みを、優しく手で撫でる。

「……牟礼さんって」
「ン?」
「言葉少なだし言い方乱暴だからあんまりいい印象持ってなかったっすけど、真面目で誠実なところは、いい人だなって思うっす」
「ナンダ突然。気味ノ悪イ」

 突然発せられた俺の言葉と、突然身体を撫でられたことに、牟礼さんが不審そうな顔を向けてくる。
 しかし、俺にはもう恐怖や憐憫はない。いつものように、にっこりと笑いながら、牟礼さんを撫でる手を止めないままに俺は告げた。

「だって、ここまで牟礼さん自身の言葉で俺に話してくれたこと、無かったじゃないっすか。そんな機会がなかったと言えばそれまでっすけど。
 牟礼さん自身の口からそういうこと話してくれたから、牟礼さんが何に苦労してて、何に悩んでいるのか、知ることが出来たっす。
 ……話してくれたの、ちょっと嬉しかったっすよ」

 かけられたその言葉に、牟礼さんは大きく、大きくその真っ赤な瞳を見開くと。
 つい、と顔を背けながら俺の手を振りほどくように立ち上がった。そのままブラッドドッグの姿のまま、四足歩行で路地の奥へと身体を向けた。

「……フン。言ッテロ。
 付キ合ワセテ悪カッタナ、俺ハ帰ル。明日遅刻シタラハッタオスゾ、コゾウ」
「ういーっす。牟礼さんも人に見つからないよう、気を付けて帰ってくださいね」

 吐き捨てられた言葉に、俺がいつものように返事を返すと、黒い巨大犬はちら、と俺の方に視線を向けた。
 そのまますたすたと、足音を立てずに歩いていく背中に、徐に俺は言葉を投げつけにかかる。

「あ、それとすんません、一つ謝らないといけないことがあるんっすけど」
「ナンダ?」
「俺、さっき牟礼さんに嘘つきました。
 ほんとは、牟礼さんが淫魔にヤられて精力絶倫なことも、奥さんに離婚されて荒れた時期に手を出した魔素を含む薬が非合法なことも、社長に居場所を突き止められた時に人間に戻れなくなっていたことも……全部、知ってるっす」
「ナッ!?」

 それは、牟礼さんにとっては爆弾級の発言だったことだろう。
 明らかに狼狽の色を見せて、顎が外れそうになるほど口を開いたままに俺の方を振り返る。尻尾の毛がぶわっと膨らんだことが、夜闇の中でもわかった。
 心底から驚愕した表情のままで、パクパクと口を動かしながら、俺を突き刺すような視線で見つめてくる彼だ。

「ガゥゥッ、ナンデソコマデ……ハッ」
「ま、お察しの通りってやつっすよ。レイラさんのこと、許してあげて、と俺が言うのも変な話っすけど」
「みす・るうぇりん……クソッ、今度会ッタラ噛ミツイテヤル……!!」

 最大級に苦々しい表情を見せながら、再び牟礼さんは前方に顔を戻すと足早に、しかし足音を立てないように立ち去って行った。
 去り際に放たれたレイラさんへの呪詛のような言葉に、やっぱり思考のベースはブラッドドッグのそれなんだなぁ、と変に感心しながら。
 俺は牟礼さんが立ち去った路地の向こう側を、しばらくそこから見つめ続けていたのだった。
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