一日の始まりは一杯のコーヒーから

八百十三

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ワゴン販売のコーヒー

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 昼休みを過ぎて、午後1時。
 いつものように仕事はどんどんやってくる。
 社内コミュニケーションツールのIインスタントMメッセージで飛んでくるヘルプに応対していた私は、部署のエリアに客が来たことに気が付いた。
 ノートパソコンを抱えてやって来たのは、上の階で仕事をする営業部門の中崎なかざきさんだ。私の席の方へとまっすぐやってくる。

「秋島さん、今いい?」
「あ、ちょっと待ってください……よし、と。どうしました?」

 IMでのヘルプ依頼にパパっと解決方法を提供すると、座席を回転させて中崎さんに向き直る。私より幾分年上の彼は、デスクの上にノートパソコンを置くと、開いた画面を私に見せてきた。

「仕事をしてたら急に、ウイルス対策ソフトのポップアップが表示されて、ウイルスが検出されましたってなってるんだけど、これどうしたらいいかな」
「あー……」

 画面の真ん中に表示された、某S社のウイルス対策ソフトが出してくるウイルス検出のポップアップに、私は眉を寄せた。

 情報セキュリティ問題やパソコンのウイルス感染が騒がれる昨今、ウイルス検出ソフトやセキュリティソフトの重要性は日を追うごとに高まっている。
 うちの会社も、業務で使用するコンピュータに対して、情報セキュリティ部門が指定したウイルス対策ソフトと情報漏洩対策ソフトのインストールを義務付けており、ウイルスやリスクの検出が報告された際に情報がサーバーに上がってくるようにしている。

 まぁ、その「情報セキュリティ部門」というのもうちの部署なわけで、サーバーからの通知を受けるのもうちの部署で、こうして私が報告を受ける形になるんだが。
 私の仕事がいわゆる「社内向けのヘルプデスク」だからといって、部署全体がヘルプ対応をしているわけではなかったりする。ぶっちゃけ部署内で見ても、私の仕事は若干毛色が違う。
 むしろ同じ部署で仕事をする他の社員は、社内ポータルサイトの開発・改修を専門にしていたり、会社が取得している情報セキュリティがらみの規格認証に関する仕事を専門にしていたりと、一つの分野の専門的知識を武器にして仕事をすることが基本だ。
 私みたいにいろんな会社、いろんな分野のあっちこっちの知識が要求される仕事というのは、あんまりない。

 ともあれ、目の前のウイルス検出の記録である。
 ダイアログに記載された内容を見るに、一時ファイルの何かがリスク検出されているようだ。問題のファイルは既に削除されているので、差し迫った危険は今のところない、だろう。
 私は画面を見つめたまま、ダイアログを指で示しながら口を開いた。

「これ、ぱっと見IEの一時ファイルがリスク判定されてるっぽいんですけど、インターネット見てる最中に出て来ました?」
「あ、そうそう。IE使って仕事の情報を検索している時に、バッと出て来た感じ」

 中崎さんのその言葉に、私はふっと肩の力を抜いた。ならば大した問題ではないやつだ。
 ノートパソコンの画面から視線を外して、不安げな表情をした中崎さんに微笑みかける。

「なら大丈夫です、IEが勝手に保存したファイルがリスク検出されてる形で、問題のファイルは既に削除されていますので。
 ネットワークは切らなくてもいいですけれど、念のためフルスキャンはかけておいてください」
「わかった、ありがとう。いやぁ助かったよ」

 ぱぁっと明るい表情になり、頭を下げる中崎さん。
 この、問題が解決した時の「ありがとう」の言葉が、毎度のことだけどとても嬉しい。私の仕事が役に立っている、と実感できる瞬間だ。
 微笑みをさらに強めてにっこりと笑ったところで、中崎さんがノートパソコンを持ち上げながら再び口を開いた。

「お礼にコーヒーでも一杯奢るよ。どこのがいい?」

 その言葉に、私の瞳がきらりと光った。これはラッキーチャンス。午後のコーヒーはまだ淹れていないから、グッドタイミングだ。

「おっ、いいんですか?じゃあそうだなー……」

 私は思案を巡らせる。どこの喫茶店で奢ってもらおうか、うちの会社の近辺はスター○ックス、ド○ール、エクセルシ○ール、サン○ルクカフェ、タ○ーズ、ベロー○ェとチェーンのカフェはより取り見取り。ちょっとお洒落な喫茶店などは、まぁ、近辺で見かけたことは無いんだけど。
 脳内で場所をリストアップしていたところで、私は思い出した。今日は木曜日・・・だ。
 木曜日ということは、あれ・・が来ている。
 中崎さんに椅子をぶつけないようにしながら、私は立ち上がった。立ち上がり、中崎さんに見えるように人差し指を立てる。

「折角なんで、私のイチオシのお店で奢ってもらっちゃいましょうかね!」
「へぇ?秋島さんがそこまで言うなら美味しいんだろうなぁ。案内してくれる?」
「いいですよー。あ、ちょっとコーヒー買ってきまーす」

 そうして私は中崎さんを先導するようにして、さっさと会社の外へと歩き出した。
 まぁ、中崎さんが自分のデスクにノートパソコンを置いてこないとならないから、すぐに出発とはならないんだけど。


 会社を出て、道路を横断する信号を渡って麹町駅方面へ。
 道中にあるスター○ックスもエクセルシ○ールも通り過ぎ、首を傾げる中崎さんを尻目にてくてく歩く。
 そしてみず○銀行の手前、建ったばかりでテナントもまばらな、とあるビルのオープンスペースで、私は立ち止まって振り返った。

「ここが、私イチオシのお店です!」
「ここって……ワゴン販売?」

 そう、ワゴン販売だ。
 麹町駅前のみず○銀行隣、麹町PREX。ここの1階のオープンスペースは週に3回ほど、コーヒーのワゴン販売が来るのだ。
 実店舗を持っていない移動販売専門のお店で、豆をブレンドしないストレートコーヒーが売り。ワゴン販売で豆単一で出す、いわゆるスペシャリティコーヒーって、あまり見ない。
 発見して以来、ちょくちょくお世話になっているおすすめのお店だ。
 ちなみにここの店、コーヒー豆を5~6種類の中から選んで淹れてもらうことが出来る。裏メニューの豆もあったりして、豆を選ぶのもなかなか楽しいのだ。

 ワゴンの側面に移り、カウンターになっている開かれたドアの方へ。応対してくれる眼鏡のお兄さんが明るい口調で話しかけてきた。

「こんにちは、今日はどうします?」
「そうだなー……インドでMを二つ・・、ホットでお願いします」
「はい、二つで800円です」

 すらすらと行われる私の注文。
 金属製のトレイに、財布から出したポイントカードと400円を乗っける私を見て、中崎さんが俄かに慌てだす。

「ちょ、秋島さん僕が奢りに来たのに。それに二つって」
「あ、いいんです。中崎さんは私に奢ってください、私は中崎さんに奢るので。
 折角来たんだから私だけが飲むのも申し訳ないじゃないですか、美味しいんですよここの」
「まぁ、そこまで仰るなら……それにしても、いい値段しますね」

 そう言いながら財布を取り出す中崎さん。騙し討ちしたようで申し訳なくも思ったが、先に話したら絶対止められるだろうから。こういうのは先手を打つのだ。
 400円が追加でトレイの上に置かれる。店員のお兄さんがトレイを回収して、私の出したポイントカードにスタンプをぺたり。戻されたカードのスタンプが増えていくのがちょっと楽しい。

 そうこうするうちに店員のお兄さんがコーヒーを淹れ始めた。
 「INDIA」とシールの貼られた蓋つきの缶からコーヒー豆を一杯分掬い取り、ミルの中へ。
 挽かれたコーヒー豆をプラスチック製のドリッパーの上に乗せられたフィルターに入れる。
 注ぎ口の細い電気ケトルで丁寧にお湯を注ぎ、コーヒー豆を蒸らしてからドリップ。
 まさしく挽き立てのコーヒーを味わえるのが素晴らしい。コーヒーを淹れる所作の細やかさも素晴らしい。ついでにコーヒーを淹れている間に店員のお兄さんとする会話も楽しい。
 なんとも得難い経験ができるお店だと、私は思っているわけである。

 そして、ほかほかと湯気を立たせる2杯のコーヒーが目の前に現れた。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「頂きます。ささ、中崎さん、どうぞどうぞ」

 出されたコーヒーを、私と中崎さんで一杯ずつ受け取る。スリーブに印字されたお店のロゴと名前が、派手さが無くていい味を出していると私は思っている。
 いつもなら会社に持って帰って自席で飲むのだが、今日は同行者が居る故この場でいただいてしまうことにしよう。
 店頭に据えられているスティックシュガーとミルクポーションをコーヒーに入れている中崎さんは、急かされて困惑顔だ。

「僕、コーヒーはミルクと砂糖入れないと飲めないんですよ……秋島さん、よくブラックで飲めますね」
「私はブラックじゃないとコーヒー飲んでるって気分がしないんですよねー、苦味と酸味が好きなので」

 淹れたての熱いコーヒーを砂糖もミルクも一切入れずに飲む私を、凄いものでも見るかのように見てくる中崎さん。そんな珍獣でも見るような目を目を向けないで欲しい。
 ともかく、ミルクが入って柔らかな色合いになったコーヒーを、中崎さんも一口。口に含んだ彼の目が、みるみる開かれていくのが私にも見えた。
 喉の奥にコーヒーを送り込んで、たぷんと揺れるカップの中のコーヒーを見て、一言呟く。

「美味しい」
「でしょ?」
「気に入っていただけてよかったです」

 見れば店員のお兄さんがこちらを見ながら微笑んでいる。眼鏡の奥の片目がぱちりと瞑られた。

 ここのコーヒーは安くない。だが安くない理由がありありと目の前に提示されているから、何度でも通いたくなる。
 普段よりちょっといいコーヒーを飲みたい、そんな時もある。
 そういう時に飲むスペシャリティコーヒーは、格別の味わいがするものなのだ。
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