真夜中に愛猫とキスを

八百十三

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第2章 低次元存在との交錯

第12話 四次元存在の道

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 翌朝。俺はむすっとしながら会社への道を歩いていた。

「……」

 俺の肩の上ではわらびがいつものように乗っかって、不思議そうに俺を見上げている。明らかに不機嫌そうな俺を見ながら、わらびが念話を飛ばしてきた。

「(どうしたんですかご主人様、そんな憮然とした表情をして)」
「(逆になんで俺がムッとしないと思ったんだよ)」

 彼女の言葉に、憮然としたまま言い返す俺だ。その理由は、俺のすぐ背後にある。
 尻尾だ。わらびのものと同じ色合いをした、白くて細長い尻尾が俺の背後で揺れている。そしてその尻尾は、さも当たり前のようにから生えていた。

「(融合したらだなんて、一言も言ってくれなかったじゃないか。しかも融合を解除してもが生えっぱなしなんだぞ、どうしてくれるんだ)」

 そう、俺はあの夜、わらびがあんまりにもあっさり言ってくるものだから、まぁ酷いことにはならないだろう、と思ってわらびとの「融合」を試みたのだ。
 わらびと融合した俺は、わらびの本来の姿によく似た、オスの白猫の獣人になった。身体の作りがまるごと変化して、融合の最中は何とも言えず気持ち悪かったものだ。
 いや、それについては、融合を解除したら元に戻ったからいい。問題はこの尻尾が、融合を解除したというのにだという点である。
 文句を言う俺に、肩をすくめながらわらびが答える。

「(異次元存在との融合は、疑似的に契約対象を同じ次元の存在に引き上げる行為ですもの。獣人の姿を取る私と融合したら獣人になるのは、当たり前じゃないですか)」
「(そりゃ、言われてみればそうだけどさ)」

 彼女の物言いに、小さく息を吐きながら俺は答える。
 そりゃあ、獣人と融合するというんだから俺が獣人になるのは別段おかしな理屈ではない。そこは認めよう。
 だが、それならそれで説明が欲しかった。融合したらどうなるか、もう少し詳細に話してくれたら俺も覚悟が出来たのに。それに尻尾が生えている現状、完全に元通りとは言い難い。
 困り顔を続ける俺に、わらびがたしたしと頭を前脚で叩いてきた。

「(それに最初に言ったじゃないですか、私たちとの契約は契約対象をと。その尻尾はすなわち、ご主人様が四次元存在の領域に踏み出し始めた証なんですよ)」
「(えっ)」

 わらびの言葉に、はっとして俺は足を止めた。念話で話しているとはいえ、俺は三次元世界に普通に存在している。時間軸を動かすことも出来ないから、今は通勤真っただ中。会社のビルの前で立ち止まった俺を、他の人が怪訝な顔をしながら避けていく。

「(じゃあもしかして、血を交換した時にはもう)」
「(はい、生えていました。実体を持ったのは融合がきっかけですけれどね)」

 立ち止まったまま俺が問いかけると、俺の肩の上でわらびがうなずく。なんということだ、ちっとも気が付いていなかった。

「(マジか……)」
「(大丈夫ですよご主人様、三次契約を結んだらちゃんと完全な獣人になれますから)」

 がっくりしながら会社のビルに入り、エレベーターに乗り込む俺に、何とも的外れな励ましの言葉をかけながら笑うわらびだ。そんな軽々しく言われたって、俺はなるべくなら人間のままでいたいというのに。三次契約を結びたくない理由が、また一つ出来てしまった。
 会社のエントランスまで来ると、何人かの社員がタイムカードを押している。とはいえ全員が出勤を押しているわけではない。退勤を押している者もちらほらいるのだ。そしてその退勤を押している人物の中に、見慣れた狐獣人の姿がある。

「おっ、トソちゃんおはようさん」
「あ、ロクちゃん、お疲れ様」

 当然のように六反田だ。もうこの姿を見ても驚かない。
 俺がタイムカードを押す列から離れて挨拶すると、目を細めながら六反田がしきりにうなずいてくる。

「二次契約は済ませてきたか、上々、上々」
「い……いいのか? だって三次契約を結べって」

 俺の尻尾を見ながら満足した様子で話す六反田に、困惑気味に俺は返す。何しろ「三次契約を結べ」とさんざん俺に言ってきた六反田なのだ。
 しかし俺の肩を、わらびが乗っていない方の肩を叩きながら、六反田は言ってきた。

「今まではただの人間だったのが、ちょっとだけでも四次元生物になってきたんだから大丈夫だよ……ああ、でもな」

 だが、彼が不意に困ったように微笑む。爪の尖った右手の親指をくいと後方にやりながら、六反田が呆れた様子で告げた。

「今すぐに着席したら、いろいろかもな」
「え?」

 いまいち状況が理解できない俺に、肩をすくめながら六反田がくるりと踵を返す。そして社員証をカードリーダーに通すと、これから退勤だろうに、また居室内に戻っていった。
 どういうことかと困惑しながらも、俺はタイムカードで出勤を押してカードリーダーに社員証を通す。ドアを開けると中で待っていた六反田が、俺を手招きした。加えて口元に人差し指を立てる。静かに、ということらしい。
 そしてようやく俺は把握した。社内の全フロアに響き渡りそうな勢いで、怒鳴り声が聞こえているのだ。

「この馬鹿野郎が!! お前はどこまで馬鹿でクズで間抜けなんだ、ええ!?」

 姿を見なくてもよく分かる。うちの部署、システム開発部ソフトウェア開発課の課長、小飯塚こいいづかわたるの怒鳴る声だ。
 小飯塚課長はとにかく感情の起伏が激しいことで有名だ。何か気に入らないことがあれば、辺り構わず怒鳴り散らす。それが20分、30分続くことも珍しくない。
 今も小飯塚課長のデスクの前で一人の社員が立ち尽くし、俯いている。黒い毛皮の狐獣人だ。ここにもいた。尻尾は三本だが間違いなくその耳と尻尾は狐である。

「あー……」
「今日は松河原まつがわらが標的ってこった。見ればわかるだろ、今日の課長のっぷり」

 俺が声を漏らしていると、六反田が腕を組みながら困ったように言葉をこぼした。
 なるほど、あの黒い狐獣人は俺の同僚、松河原まつがわら裕大ゆうだいらしい。彼も彼でなかなかディープに、異次元の存在と関わっていたようだ。
 しかし、小飯塚課長の異形ぶりは松河原のそれを大きく上回っていた。人間の形をしていない、なんて可愛い表現ではとても言えない。人型を大いに逸脱して、頭に大きな口のある「化け物」の姿をしていた。その頭の口と、両肩にある口で、松河原にガンガンに怒鳴っている。
 完全に化け物だ。こんな存在が今までこんな身近にいたなんて。俺はようになったから分かるけれど、これは社員を壊すに十分に値する。

「ちなみに、松河原さんは何をやって、ああいう?」

 俺はちらりと小飯塚課長の方に視線を向けつつ、六反田に問いかける。小飯塚課長は些細なことでも烈火のように怒り出すが、今回どういう状況で松河原があんなに怒られているのかは気になるところだ。
 果たして、六反田は大きく肩をすくめながらため息交じりに言う。

「課長に淹れた茶がぬるかったんだと」
「はあ……相変わらずだな、課長」

 彼の言葉に、がっくりと肩を落とす俺だ。お茶がぬるかったからというだけであんなに怒り、人格否定までしてくるんだから、部下としてはやっていられないとしか言えない。松河原も泣き出さないだけ偉いというものだ。
 俺は叱られ、怒鳴られ、なじられている松河原から目が離せないでいた。肩を小さく震わせ、大きく俯いている松河原の三角耳はイカのように伏せられ、三本の尻尾はだらりと床に向けて下がっている。
 六反田もため息をつきながら、小飯塚課長に視線を向けつつ話した。

「分かるだろトソちゃん、昨日までのトソちゃんだったら、に耐えられなかっただろうってことが。松河原を見てみろよ、朝から怒鳴られ続けてもうダメだ、尻尾も耳もヘナヘナになってる」

 六反田が憐れむように話すも、俺の目は松河原に向いたままだ。
 真実視の能力はまだ発動したままだ。二次契約を結んだから、これまでよりも詳細な状況を視ることが出来ている。無論、の姿も、彼のにはっきりと見えていた。黒い毛皮の狐の獣人だ。
 そう、松河原は彼自身で、狐獣人の姿を取っていることを、俺は分かっていたのだ。

「ロクちゃん、その」
「ん」

 恐る恐る、六反田に問いかける。こちらに顔を向けた彼に、俺は声を震わせながら聞いた。

「松河原さんは……

 六反田が、俺の言葉を聞いて目を見開く。彼は俺ほど真実視の能力には長けていないし、なんなら「におい」で異次元存在をキャッチすると聞いている。だからこそ、俺と組んで仕事をしているのだ。
 驚いた様子の彼に、俺はわずかに指を前方に向けながら言う。

「高次元か、低次元かは分からないけれど、完全に異次元存在になってしまっているように、見えた」

 俺の言葉を聞いて、六反田は途端に表情を険しくした。それはそうだろう、俺の目から見てもなかなかに異常な状況だ。
 しばらく眉間にシワを寄せて考えていた六反田が、かばんに手をかけながら俺に言う。

「あとで確認しないとな。課長の前に松河原に声かけるぞ……四十物ちゃんには俺から言っておく、来てもらった方が話もスムーズだろう」

 そう言いながら、彼はさっさと自分の席に向かって内線電話を取る。四十物さんに連絡を取っているらしい。
 俺は未だに怒鳴られている松河原に視線を向けつつ、こうしているままではいけない、と自分のデスクに向かうのだった。
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