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5. 禁域編

魂の掌握

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 アグネスカ、アリーチェ、イヴァノエが泣き止むのを待ってから、イルムヒルデがそっと僕の前に膝をついた。すっかり地面は草地になって、乾いた風に木の葉がさらさらと揺られている。
 全員を僕の周りに集めて、全員の顔と名前を一致させてから、イルムヒルデがゆっくりと口を開いた。

「状況を整理させていただきますわね、ダヴィド様」
「はい……」

 優しげなイルムヒルデの言葉に、僕はこくりと頷いた。頭を下げてもなお、額にある宝石の瞳はまっすぐに彼女の顔を見ている。僕の頬に翼の先で触れるようにしながら、彼女は説明を始めた。

「ダヴィド様は三大神の使徒として、アグネスカ様を巫女として、アリーチェ様とイヴァノエ様を伴魔として、ゲヤゲ村においでになられた。ここまではよろしいですか?」
「はい」

 彼女の問いかけに僕はすぐに頷いた。アグネスカとの関係も、アリーチェとイヴァノエとの関係も、何も変わっていない。僕の立場もそのままだ。
 僕はカーン神の使徒で、アグネスカは巫女で、アリーチェとイヴァノエは僕の伴魔だ。ずっと前からそうだった。
 僕が頷いたのを見て、微笑みながらイルムヒルデが口を開く。

「ゲヤゲ村を破壊したのはエスメイで、エスメイはこの禁域を拡大し、そして地階マテリアル降臨を果たそうとしている。ここまでもよろしいですか?」
「……はい」

 彼女の重ねての問いかけに、少し記憶をたどりながら僕は再度頷く。
 エスメイがゲヤゲ村を破壊したことも、この禁域の人々をキマイラにしてしまったのも、僕は知っている。この目で見ている。
 エスメイがそうした理由は、つい先程彼の口から聞いたばかりだ。地階マテリアルに降臨して神として力を振るう、それが彼の目的だ。
 僕が素直に頭を前後させたのを見たイルムヒルデが、目元を緩めながら僕に聞いてきた。

「はい、よろしいですわね。そして私達三大神の使徒と巫女は、エスメイを天階ドゥーフから追いやり、神階ドゥシャに送り返すこと……あるいはこの禁域にエスメイを封印することを目的として、こうしてここに来た」
「……」

 今度は僕達がここに来た目的の話だ。確かに僕はマドレーヌやイルムヒルデと一緒にこの空間にやってきて、そしてエスメイをどうにかすることで事態を収束に導こうとしている。
 僕の視線が自然と足元に落ちた。心のどこかで「そうしていいのだろうか」という思いが首をもたげる。
 エスメイは僕の友達・・である。その友達を、この空間から追い出すなり、縛り付けるなりして、いいのだろうか。そう思ってしまう。
 答えない僕を見て、イルムヒルデが小さくため息をついた。

「ふう」
「イルムヒルデ様、エリクは、大丈夫なんですか」

 少し悲しそうなイルムヒルデに、アグネスカが問いかけた。彼女の方に視線を向けつつ、イルムヒルデはゆるゆると頭を振る。

「大丈夫、とは言い難い・・・・のが正直なところでございましょうね」
「そうね……ピンピンしているけれど、これでは坊やは戦力には数えられないわ。言っても、元から数えていなかったけれど」

 僕を静かに見下ろしていたマドレーヌも、ため息交じりにそう言った。彼女たちの落胆したような言葉に、イヴァノエが小さく鼻を鳴らした。

『どういうことだよ?』
「姿と、神力垂れ流しになっている以外は、以前と変わらないように見えますけれど……いえ、垂れ流してる神力の量がとんでもないのはありますが」

 アリーチェも僕の尻尾に手をやりながら言ってくる。確かに垂れ流される神力は凄まじいものがある。今も僕の周囲の地面はどんどん荒れ地が草地に変わっていって、泉まで湧き出していた。もはや砂漠の中にあるオアシスのようになっている。
 そんな有様を見て真紅の目を見開いている僕の方を見ながら、マドレーヌが小さく顎をしゃくる。

「神獣人、坊やの目を見てご覧なさい」
「目?」

 彼女の言葉に、アリーチェが僕の顔を覗き込んできた。
 僕の目と、アリーチェの赤い目が向かい合う。そして僕の瞳の中を見るようにしていたアリーチェの目が、大きく見開かれた。弾かれたように顔を上げる。

「これ……えっ、嘘、嘘ですよね?」
「アリーチェ、どうしたんですか」
『何が見えたんだよ、一体?』

 困惑を露わにするアリーチェを見て、アグネスカとイヴァノエが揃って彼女のそばに寄った。戸惑う二人に、イルムヒルデが悲しそうな目をしながら告げる。

「アグネスカ様、イヴァノエ様も、心して聞いてくださいまし。ダヴィド様は、エスメイに魂を掌握された・・・・・・・のです」
「魂を……」
『掌握?』

 イルムヒルデの言葉を聞いて、アグネスカとイヴァノエが揃って首を傾げた。
 魂の掌握。僕も初めて聞いた言葉だ。そしてそんなことをやられた記憶があっただろうか。あったような気もする。
 困惑する僕を見ながら、イルムヒルデがそっと僕の額に触れた。宝石の瞳の周囲を撫でるようにしながら話し始める。

「高位の神々が用いる上級神術の一つですわ。魂の掌握フヴァターイ・ドゥシュ。身体に神力を送り込んで魂を縛り付け、神の従順なしもべにしてしまう術です」

 瞳の周囲を撫でられて、少しくすぐったい。額の目を瞬かせる僕を見ながら、マドレーヌが静かな声で告げた。

「今の坊やは、上級神術をも自在に扱える。使徒としての仕事も十全じゅうぜんに行える。自我もはっきりしている。けれど、エスメイには絶対に逆らえない。そういう状況なの」
「な……っ」

 彼女の発言に、絶句するのはアグネスカだ。僕も一緒になって目を見開く。
 エスメイをどうにかするために禁域までやって来たのに、エスメイに逆らえないようにされてしまっただなんて。これでは、せっかく手に入れた神力も神獣の力も使いようがない。それらをくれたのが当のエスメイだという矛盾はあるが。
 僕のまぶたに触れながら、イルムヒルデがゆっくりと話す。

「ダヴィド様は神獣人となられたことで、それまでとは比べ物にならない神力と、能力を手に入れられましたわ。大陸全土で並び立つ使徒はいないでしょうね。ですが、今回のお仕事では無意味なのです」

 そう話しながら、彼女の翼が僕のまぶたをさわさわと撫でる。柔らかく、温かい羽毛が触れて、心地いいけれど少し落ち着かない。
 それにしても、これでは僕は完全にお荷物だ。元から戦力には数えられていなかったというマドレーヌの言葉もその通りだが、それにしても悲しいものがある。意を決してついてきたのに。
 と、僕の状況を注視していたディートマルが、深刻そうな表情をして口を開いた。

「それだけでは、ないようだ」
「あなた。何か視えまして?」

 声をかけてきた自分の夫に、イルムヒルデが問いかける。と、ディートマルが震える指先で、シャツがはだけて露わになった僕の胸を指差した。

「エリクさんの胸から心臓にかけて、神力を大量に流し込んだ形跡がある。エスメイの神力が、だ」
「な……!?」

 発せられた言葉に、その場の全員がざわついた。特にマドレーヌの動揺ぶりが大きい。
 胸から心臓にかけて神力が流された、という事実。確かに僕も経験している。流された神力は血液に乗って僕の全身に広がり、僕の身体とほとんど一体になった状態だ。
 マドレーヌが顔面蒼白になりながらディートマルに顔を向けた。

「ちょ……っと、待ってちょうだい。心臓ですって?」
「確かですの、あなた?」

 イルムヒルデも思わず立ち上がった。腰を上げた彼女に向かって、ディートマルが重々しく頷く。
 それを見て全員の顔からさっと血の気が引いた。アリーチェが口元に手を持ってきながら、震える声で言う。

「まさかとは思いますが……エリクさんの心臓を……」

 その後の言葉が出てこない様子のアリーチェが再び泣き出した。アグネスカが彼女の肩を抱く中、ディートマルが小さく頭を振る。

「エリクさんはこうして生きている。抜き取られたわけではない……複製・・された可能性があります」

 そして話された彼の言葉に、イルムヒルデが、マドレーヌが、ギーが視線を一様に落として表情を歪めた。
 心臓の複製。エスメイの目的。その二つが意味することは明らかだ。
 エスメイが「エリク・ダヴィドから複製した心臓を元に肉体を構築し、地階マテリアルに降臨する」という手段を選んだことに思い至った面々が、悩ましげに額をおさえる。

「考え得る限り、最悪のシナリオですわね」
「これで、エスメイが坊やの心臓から構築した肉体を得て、地階マテリアルに降臨したら……」

 イルムヒルデの言葉に、マドレーヌも何とも言えない顔をしながら言葉を零した。
 一般の人間の肉体でもよろしくないのに、よりによって使徒であるエリクの身体を元手に構築しようというのだ。神力を扱う素養は十二分、間違いなく厄介なことになる。
 イルムヒルデの手が僕の手を取った。そのまま僕を立たせながら、厳しい口調で彼女は言う。

「急ぎますわよ、呪圏から出た時点で、エスメイが肉体を完成させている危険性もありますわ!」

 彼女の言葉に全員が頷いた。そしてすぐさま動き出そうと走り出す。
 手を引かれるようにして走り出す僕の足元で、また下草がじわりと生えだす。赤土の荒野に緑の点を作りながら、僕は連れられていくがままに走っていった。
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