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第13話

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 二番街ウリヴィン通りの『フォロシー・デン』にて。
 顔なじみである店主の鹿獣人、ミハイル・マフノがゴブレットを磨きながら息を吐いた。

「まさか『北限のアスランベク』が出所してくるとはなぁ」
「予想外だ。仮出所とは言え、来年かそのくらいになるかと思っていたんだが」

 彼の前の席に座り、俺は飲み干して空にしたゴブレットを弄んでいた。
 アスランベク・トランデンコフは期日通り、二日前に仮出所してきた。今ではアニシン領内にある彼の農場で、疲れを癒やしていることだろう。
 しかしだからといって、我々市民は安穏とはしていられない。いつアスランベクが俺達に牙を剥いてくるか、わかったもんじゃない。
 ミハイルがため息を付きながら、金メッキのゴブレットを棚に置いた。

「クヴィテラシヴィリ伯爵家の事件が落ち着いて、ようやくヤノフスキーも平穏を取り戻すかと思ったら、これだものなぁ。まだまだ、平和には程遠いってことなのかね」
「かもしれないな。エージェントにとって見れば、仕事の口がなくならないでいいんだろうが」

 空のゴブレットをカウンターの上に置きながら、俺も沈鬱な表情を見せる。アスランベクのような大物がうごめくなら、情報屋の俺としては仕事のきっかけが多くあっていいことだ。しかしヤノフスキー市民の俺としては迷惑極まりない。
 正直、稼ぎが多少減ってもいいから平和な町であってくれとは思う。俺はヤノフスキー市以外の町にもコネクションがあるから、そちらで情報を仕入れることも出来るのだから。
 カウンターの上にある看板に目を向けながら、俺は次の酒を思案する。

「ふー……さて、次だ。マフノ、『ユークリッド』が入っていると言っていたな?」
「ああ、ヴェルデニコフのやつだろう? あるよ、一杯でいいか」

 俺の注文にミハイルが頷き、カウンター下のワインセラーを覗き込んだ時だ。誰かが店の扉を開けて、中に入ってきた。

「邪魔するぞ」
「ああ、いらっしゃ……い?」

 低い声に、そちらを向いた俺とミハイルが揃って目を見開く。
 白黒の柄が特徴の熊猫パンダ獣人の男だ。目の周りの黒い斑が愛らしいようにも見えるが、この男は決してそういう類ではない。目の周りや鼻先にいくつもの傷をこしらえた、明らかに荒事に慣れている男だ。
 その傷だらけの顔にこの種族。俺はよくよく把握している。

「ほう? 久しぶりだな、コロレフ。もう動き出したのか」
「ああ」

 ワレリー・コロレフ。『北限のアスランベク』お抱えの私兵をまとめる、荒くれ集団のボスだ。
 アスランベクは自分の手元に、たくさんの私兵を囲っていることで有名だった。町の爪弾き者が大半だが、中には領のエージェント協会から追放されたエージェントくずれも居たりする。そうしたうちの一人が、このワレリーだ。
 元一級エージェントだったこともあって、その腕前は間違いない。依頼人と揉めてその相手を殴り殺すような気性の荒ささえなければ、間違いなく特級に名を連ねていただろう、と言われるほどの男だ。
 その相手が、俺の右隣のカウンターチェアに腰を下ろす。

「旦那様が屋敷にお戻りになられた。であれば、俺達も仕事を始めないわけにはいかん」
「殊勝なことで」

 ふ、と口角を持ち上げて声をかければ、黒い斑に隠れた鋭い瞳が俺を睨みつける。前だったらそこから拳を振り上げただろうが、今はアスランベクの名のもとに動いているわけで、だいぶ分別がつくようになってきた。いいんだか悪いんだか。
 ミハイルから差し出されたヴェルデニコフ首長国産ワインの「ユークリッド」を飲みながら、俺は涼しい視線を隣の熊猫に向けた。

「それで? お前がここに来て俺と話しているということは、つまりそういうことなんだろう?」
「察しが早くて助かるな、『夜鷹』」

 俺の言葉にワレリーもニヤリと笑った。そしてカウンターに肩肘をつきながら、真剣な面持ちで口を開く。

「屋敷外のエージェントに旦那様が金を支払った・・・・・・件を情報屋にタレ込んだ市民の情報を知りたい」

 その言葉に、俺は一瞬動きを止めた。ゴブレットの中で黄金色のワインがたぷんと揺れる。
 アスランベク・トランデンコフはエージェントへの収賄容疑と使用人への暴行容疑で逮捕された。使用人の暴行自体はそこまで重要な問題ではない。問題は「国家、所轄領に属して活動する」エージェントを、金で買収しようとしたことだ。
 犯罪者がいくらかの金をエージェントに支払って、口止めを頼むなんてことは別に珍しくない。珍しくはないが、エージェント規約にはばっちり違反するのだ。違反だとわかっていてもそういう輩が後を絶たないのは、「買収されそうになった」ことをエージェントが協会に報告しないからなのだ。
 しかしアスランベクは買収額も買収人数も文字通り桁が違った。彼の農場に踏み込んだエージェント十六名全員に・・・対し、一人あたり100万セレー。それがエージェント協会に報告されているなら話は簡単なのだが、十六名ともが買収を報告しなかった。そんな大金を掴まされたら、大抵の人間は心が動く。
 これで彼は使用人の暴行のみで検挙され、いくらかの金を支払って万事解決、となるはずだったのが、買収が第三者によって告発され明るみに出たのだ。
 誰か市民が情報屋に情報を売ったはずだ。そう考えたのだろう。ゴブレットを置いて俺はぺろりと舌を舐めずる。

「ふーん?」
「旦那様は大層お怒りだ。屋敷の人間を折檻せっかんしたのが明るみに出て捜査が入るのは仕方がないが、エージェントにいくらかの金を支払って捜査を撹乱させた程度で・・・しょっぴかれるなど、納得がいかないと仰っている」

 そう話しながら、ワレリーが眉間にしわを寄せた。
 なるほど、そういう感覚でいるのか。牢獄の中で妬み嫉みが膨らんでいったか、仮出所して気が大きくなったのかは知らないが、どちらにしてもあまりよろしい物言いではない。俺はため息をついた。

「やれやれ、数年臭い飯を食った所で、性根が変わるはずもないか。どうして仮出所が認められたと言うんだか」
「旦那様からお預かりしていた財産を切り崩しただけのことだ、お前には何の関係もない」

 ぼやく俺に、ワレリーが面白く無さそうな顔をしながら言った。それもそうだ、そうでなければこんなにすぐに仮出所が認められるはずはない。本当だったらもう一年か二年は牢獄の中だったはずなのだ。
 俺は手の中のゴブレットをくるくる回しながら、目を細めて言う。

「そうだろうな。トランデンコフ農園はオーナーがいなくてもしっかりと回っていた。収監されている数年の間も農協への納品額は相変わらずトップを維持、息子が随分と頑張ったと聞いている」
「そうだ、アルセン坊ちゃまが陣頭指揮を取って、旦那様のいない中農場を管理された。旦那様もその奮闘ぶりに、鼻が高くなっていらっしゃる」

 俺の言葉に、ワレリーも頷いた。
 アスランベクの息子、アルセン・トランデンコフは父から厳しい教育を施された、酪農家として一流の男だ。その手腕はアスランベクの拘留後から遺憾なく発揮され、今では父を凌ぐと話題になっている。父と比較して黒い話題がないことも高評価のポイントらしい。
 そんな息子が居て、父親はさぞ鼻が高いだろうと思うが、ことはそう単純ではないらしい。ワレリーが俺に顔を近づける。

「だが、だからこそだ。農場の経営はこのままアルセン坊ちゃまにお任せするつもりだが、自分の経歴に汚点を残した連中を放置しておくわけには行かないと」

 その、ぐいと近寄って噛み付いてくる彼に、俺は深くため息をついた。

「はー……」
「なんだ、思わせぶりに」

 そのわざとらしいため息に、ワレリーの眉間のしわが一層深くなる。俺はゴブレットの中のワインを飲み干すと、それをカウンターに置きながら口を開いた。

「そこまで行っているんなら、アルセン殿に全て任せて、さっさと引退されたほうが、より綺麗な引き際になるんじゃないのかね?」
「なんだと」

 うっすらと口角を持ち上げながら話す俺に、ワレリーは一気に眉を吊り上げた。僅かに身を乗り出してくる。ここでもうひと押しすれば、過去の彼ならきっと椅子を蹴って立ち上がり、俺に殴りかかってくるだろう。
 試すような面持ちで、俺は彼に現実を突きつける。

「聞いてるぞ。アルセン殿が継いでから初めて、アスランベク殿が管理していた頃よりも収穫量、農協への納品額が上回ったと。結果が出ていて、体制も整っているのに、アスランベク殿が戻ってきて何をしようと言うんだ?」

 彼の表情と気迫にひるまず、俺は淡々と話してやった。
 アルセン・トランデンコフが農場を管理するようになってから、元々高度に洗練されていた農場経営は先鋭化の一途を辿っていた。コンピューターによる温度と湿度、日射量の管理、土壌の傾向を化学的に分析しての肥料の使い分け、植え付け作物の細かな分類と効率のいい収穫方法の考案、などなど。アルセンがここ数年でアニシン領の農場に与えた影響は数多い。
 農家としての彼は、既に父親を超えているのだ。今更父親が戻ってきて、何をしようというのかという話なのである。ワレリーが眉間のしわを薄くし、ため息をつきながら椅子に深く腰を下ろした。

「把握はしている。旦那様に今求められている役割は、農場のオーナーとして資金を出すことだ。安定して資金を出すためには、旦那様の出す金に説得力がなくてはならない。その説得力を保つためには、先に付いた汚点が邪魔なんだ」

 その説明に、俺はカウンターに肘を付きながら小さく笑った。案外、ちゃんと説明してくれるではないか。

「なるほどね」
「情報を流したやつを探し出し、落とし前をつけさせなくてはならない。酒なら何杯でも奢る。教えろ」

 必死に俺に向かって頭を下げるワレリー。その姿に一抹の悲しさを感じながら、俺はそっと首を振った。

「無駄だよ」
「何が無駄だ」

 頭を下げたままで俺を睨みつけてくる彼に、俺は静かにその事実を告げた。

「その情報を市中にもたらした奴は、もう死んでる・・・・
「な……」

 俺の言葉を聞いたワレリーが、弾かれたように顔を上げた。その瞳には困惑の色がありありと浮かんでいる。
 それはそうもなるだろう。目的の人物がとっくに死んでいただなんて。そして俺はもう一つ、彼に衝撃の事実を告げてやる。

「情報提供者は、アスランベク殿が収監されてから9ヶ月後のある日、雪下ろしの最中に足を滑らせて屋根から転落、頭を強く打って亡くなった。誰だか分かるか?」
「……まさか」

 俺の発言に、ワレリーが目を大きく見開いた。彼の目をまっすぐ見ていると、ワレリーが椅子を蹴って立ち上がった。そのままの勢いで俺の肩を掴んでくる。

「おい、『夜鷹』。まさかとは思うが、その人物は」
「ご名答。おたくの庭師のディミトリー・トロフィモフだ」

 俺の肩を掴んだ彼に頷きながら告げれば、ワレリーが大きく項垂れた。そのまま右手で自分の膝を叩く。

「くそっ、ディミトリーが情報元か。これじゃ追求のしようがない」
「だから言っただろう、諦めてさっさと引退されたほうが引き際が綺麗だぞ、と。死んだ人間の遺した悔恨に、いつまでもしがみついていたらみっともない」

 俺の前で落胆するワレリーへと、冷たい口調で俺は話す。ここで変に慰めてもしょうがないし、慰めるほど俺は優しい男じゃない。それでも、話してやることは出来る。

「トロフィモフは死ぬ3ヶ月前……収監から半年後のあたりか、俺に一通の手紙を送ってくれた。自分が軽く漏らした情報で、旦那様を苦しませてしまったとな。泣きながら書いたのか、紙面には涙の落ちた跡がいくつもあったよ」

 俺が話したことに、ますます項垂れながらワレリーは自分の席に戻った。少々、悪いことをした気持ちにさせられてしまう。いつからこいつはこんなに他人の心に訴えかける男になったのだか。
 指先でゴブレットをつつきながら、俺は彼に冷たく言い放った。

「あんたの主人によく話すんだな。あんたの追い求めている憎き相手は、とっくにあんたの手の届かないところに行っちまった。探すだけ無駄だぞってな」

 俺の言葉に、がっくりと肩を落とすワレリー。彼の肩を肘でつつきながら、俺はさらに言葉を重ねていった。

「それに、アスランベク殿は今は仮出所中なんだろう? 仮出所中にまた何かエージェントの捜査が入るようなことをしたら、今度は数年じゃ絶対に出てこれないぞ」
「……チッ」

 そこまで言って、ようやくワレリーが反応を見せた。わかりやすく舌を打った彼が、肩を竦めながら俺に言葉を返す。

「分かった、分かったよ。ディミトリーのことは諦める。旦那様にもそう伝える。それでいいんだろう」
「聞き分けが良くて助かるね」

 ようやく分かってくれたことにホッとしながら、俺は笑顔を見せる。そしていい笑顔のまま、俺は彼に指を向けた。

「で? お前は今日、俺に何を奢ってくれるんだい」
「なっ、あ、諦めると言っただろう!?」

 俺の突然の要求に、ワレリーはそれまでと変わって大きな声を上げた。まあ、そうだろう。本来欲しかった情報は渡せず、しかしそれでも情報を売りつけようとしているのだから。
 とはいえ、俺だって善意で情報を売っているのではない。仕事でやっているのだ。そしてこれは仕事をする状況なのだ。何も無茶なことは言っていない。

「それとこれとは話が別ってやつだ。お前は俺の隣りに座った。情報を求めている。なら、ルールに則って奢ってくれないとな?」
「ふっふ、ルスラーン、お前もなかなか人が悪いじゃないか」

 俺の話に、今までずっと押し黙って聞いていたミハイルがくつくつ笑う。普段だったら何も言わずともワインのおかわりを入れてくれるのだが、今日はそうしていない。仕事とあれば俺が酒を奢られる。その際にワインが既にあるのはよろしくない。
 再び舌を打ったワレリーが、ミハイルに目を向けた。

「チッ……分かったよ。マスター、今日入っているワインの中で、珍しいのはなんかあるか」
「ほうほう。ちょっと待っていてくれ」

 彼の言葉に、ミハイルがカウンターの内側に引っ込む。そして彼は二本のワインボトルをカウンターの上に置く。

「これなんか特に珍しいぞ。エスパーナ帝国の『アスタルロサ』と『パスクワラ』だ」
「エスパーナ? 随分なところから仕入れたもんだな」

 置かれたワインボトルを見て、ワレリーが目を見開いた。そうなるだろう、エスパーナ帝国はルージア連邦から遠く離れている。ミハイルも販路を開拓するのは並大抵の努力ではなかったはずだ。

「マフノが販路を開拓したらしい。美味いぞ、ルージアでエスパーナのワインが安定して飲めるなんて、有り難いことだ」
「ほう……興味があるな」

 俺が説明をすると、ワレリーが興味を示し始めた。ここで最後のひと押し、ミハイルがワレリーにウインクする。

「何だったら、両方とも飲んでくれてもいいぞ、ワレリーさん」
「よしてくれ、俺の懐はこいつみたいに温かくないんだ」

 ワレリーが手をひらひらさせながら、二本のワインボトルをじっと見ている。そして彼は、一方のボトルを指差して口を開いた。

「じゃあ……『アスタルロサ』を俺とこいつに一杯ずつ、頼む」
「はいよ」

 言われてすぐに、ミハイルが新しく出されたゴブレットと元々俺の前にあったゴブレットにワインを注ぐ。それを確認してから、俺は鞄から手帳を取り出し、一枚のページを切り取った。

「よし……じゃあお返しに。こんなのはどうだ」
「勿体つけやがって……ん……?」

 それにペンを走らせてワレリーに手渡す。その内容にざっと目を通すや、彼の瞳が今までとは比較にならないくらいに目を見開いた。
 やはりか。驚くと思ったんだ、この情報を売り渡したら。

「ちょっ、おまっ、これは」
「どうだ? 喉から手が出るほど欲しい情報じゃないか、お前とお前の主人にとっては」

 そう、俺が今ワレリーに渡した情報は、「豪農のムラド・ガバシュビリが違法な薬物を使って乳牛を育成している」というものだ。
 トランデンコフ農場を追い抜かんばかりの勢いで牛乳の生産量を増やしているガバシュビリ農業ではあるが、その生産量の増加には怪しい点が多々あるともっぱらの噂。牛の体に有害な薬物を使って、牛乳の生産量を上げているという話も出ているくらいだ。
 そしてアスランベクにとって、ムラドの悪い噂は絶対に欲しいだろう。彼の立場を安定したものにするには。ちょっと高い額をふっかけてはいるが、彼にとっては痛くも痒くもないはずだ。
 悠々と鼻歌を歌う俺に、ワレリーが力なく頭を振った。

「はー……ったく、ガッカリさせたかと思いきや、これだ。こういうところがお前の『夜鷹』たる所以だよ、『夜鷹』」
「お褒めに与り光栄だ。さて、ワインワインっと」

 彼の零す言葉に、満面の笑みでゴブレットに手をのばす俺。そうしていい仕事を終えてから飲むワインは、殊の外美味い。この時間が得難くて、俺は情報屋をやめられないのだった。
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