文系ドラゴン、旅に出る~老竜と行く諸国漫遊詩歌の旅~

八百十三

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第一章 出立

第一話 友人からの提案

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「おーい、マルクスやーい」

 スヴェドボリ山の麓に建つ、一軒の屋敷の庭に降り立って。
 オーケビョルンは屋敷の中にいるであろう友人へと呼びかけた。
 竜語ドラゴニーズの研究家兼翻訳家であるマルクス・ミヨーは、オーケビョルンにとって数少ない、いや、唯一と言っていい人間の友人だ。
 引きこもりっぱなしの彼が時折書いては持ち込む石板を、竜語ドラゴニーズからアッシュナー共通語に翻訳し、彼の代理で出版社に持ち込み、書籍の形で出版する手助けをしているのだ。
 彼がいなくてはオーケビョルンは、自分の作品を世に出すことがままならない。自ら作品を街の出版社に持ち込むことが出来ないわけではないが、一度石板の形で出版社に持ち込んで丁重にお断りされて以来、自分で持っていくのはやめにしている。
 マルクスがいる前はまた別の友人がいて、その友人がこの屋敷に住んでいて、彼の著作を世の中に送り出していたわけで。マルクスの命が尽きたらまた別の人間がこの屋敷にやってくるのだろうが、それは今考えることではない。考える必要もない。
 ともあれ、今はこの屋敷に住んでいる友人に用がある。
 庭の真ん中で翼を折りたたみ、二階の窓を覗き込むようにしていると、足元から小さな足音が聞こえてきた。
 ぐるりとそちらに首を回すと、屋敷の獣人メイドが足元に立って自分を見上げている。茜色の頭上に三角耳をピンと立て、尻尾をパタパタ振っていた。

「賢竜様、いらっしゃいませ! ご主人様にご用事ですか?」
「うむ。在宅かの?」
「お呼びいたします、少々――あ!」

 メイドの少女が屋敷の中に戻るより早く、オーケビョルンが先程までのぞき込んでいた窓が静かに開いた。
 中から顔を出したのは壮年の人間男性だ。色素の薄くなった髪をかき上げて、眼鏡を直しながら眼下の老竜に目を見張る。

「オーケビョルンじゃないか。どうしたんだ、最近顔を見せなかったと思ったら」
「いや、それがなかなか作品を書けんでな。少し相談したいゆえ、話をさせてもらっていいじゃろうか」

 少女から友人へと視線を戻したオーケビョルンが力なく笑う。そうして彼ら二人に話したことの顛末は、こうだ。
 今までは何をしなくても自然と物語や詩が頭に浮かんできたのに、ここ一年ほどそれらがちっとも出てこなくなった。
 山の獣を狩っても、季節の果物を食べても、小鳥たちと戯れても一向に出てこない。
 無理やりに文章をひねり出しても取っ散らかった言葉にしかならない。
 それでどうにもこうにもならなくなって、マルクスに知恵を借りに来たのだ。
 自分より何倍も、十何倍も年上の友の訴えに、腕を組んだマルクスは一つ頷いた。

「なるほど、つまり君はスランプに陥った、というわけか」
「すらんぷ?」

 聞き慣れない言葉に、オーケビョルンの頭がこてんと傾げられる。

「えー、マルクス、それはあれか、人間たちが遊ぶ紙の手札を使ったやりとりの」
「それはトランプだ」
「む、違うか。じゃあそうだ、足を滑らせることか」
「それはスリップだな」
「ぐぬぬ、となると、んーあれか、小旅行のことじゃな?」
「それはトリップ」
「ご主人様も、賢竜様も、お二人ともそんな、漫才じゃないんですから」

 ああ言えば訂正され、こう言えば訂正され、を数度繰り返すオーケビョルンとマルクスだ。
 メイドの少女も言うとおり、傍から聞いていれば漫才でしかない。人間とドラゴンという、出るところに出れば人気が出そうなコンビだ。
 一通り言葉を交わした後で、パンと手を叩いてマルクスが口を開く。

「スランプとは、要するに不調や不振のことだよ。通常よりパフォーマンスが大きく低下した状態を言うんだ」
「賢竜様、スランプになったことがないのですか? すごく長生きなのに?」
「八百数十年生きてきたが、こうまで書けんくなったのは初めてじゃなあ。なるほど、これがスランプか」

 少女が窓の下まで移動して老竜の顎を見上げると、竜は視線を下に向けて少女をその頭上から見下ろし頷いた。
 数百年間活動してきて一年単位のスランプを経験することなく書き続けてこれたとは、なかなかの強者だ。長期間文筆家として生きてきただけのことはある。
 スランプの何たるかが分かったところで、本題だ。オーケビョルンの大きな頭がぐっと窓枠に寄り、胡桃色の目でマルクスを上目遣いに見つめる。

「で、じゃ。マルクス、お主ならこのスランプとやらを抜け出す方法を、何ぞ知っておるのではないかと思うてな。知恵を貸してもらいに来たわけじゃ」
「なるほど、だから今日は珍しく手ぶらなのか。それなら一ついい方法があるよ」

 眼鏡をくいと持ち上げながら、マルクスが笑みを見せた。その反応に老竜の瞳が小さく開かれる。
 顔を持ち上げて嬉しそうに笑みを零しながら、期待に胸を膨らませるオーケビョルンだ。

「おお、なんじゃなんじゃ」
「そう難しいことじゃないさ。君がさっき挙げた中に答えがある」
「うん……?」

 勿体つけた友人の言葉に、口を閉じるオーケビョルン。
 先程挙げた中に答えがあるとは。あの軽口の応酬の中に答えがあるというのか、先程自分は何と言ったか、思い返しながらおずおずと口を開く。

「遊ぶ……ということかの?」
「まぁそれもスランプ脱却の一つの手ではあるが、君はドラゴンだからね。本気で遊んだら討伐されてしまうだろう」
「じゃなあ……とすると、んー……」

 苦笑するマルクスに頷くと、眉間にしわを寄せてオーケビョルンは考え込み始めた。
 確かに、自分はドラゴンだ。巨大で、雄々しく、破壊的な生き物だ。
 人里に降りる時用に変化魔法を使うこともあるので、人間の枠組みの中で人間らしく遊ぶことも出来るが、それはそれでフラストレーションを溜めることになってしまう。
 もっと素のままの自分で、開放的になれて、それでいて新たな空気を味わえてスランプを脱却できる方法が、先程の会話の中に本当にあるのか。
 苦悩し始める老竜に、友人は手をひらりと動かしながら言い含めるように告げた。

「小旅行だよ、小旅行。別に盛大に旅行してもいいけれど、環境を変えるのがスランプを脱するには一番いい」

 告げられた内容に、オーケビョルンは元々大きかった目をさらに大きく見開いた。
 信じられないと言いたげに、友人へと批判的な目を向ける。

「マルクス……お主、わしに住み慣れたスヴェドボリ山を離れろと言うのか」
「何も住処を移せとまでは言わないさ。どこかに行って、しばらく過ごして、また帰ってくればいい。スヴェドボリ山の山腹の洞窟なんて、よほどの冒険家でないと入れないだろう?」
「いや、確かにまぁそうなんじゃが、いざ行くとなったら魔法で入り口も隠せるんじゃが……わし、スヴェドボリ山の周辺から覚えておるだけでもここ数百年出たことがないんじゃが……」

 どんどん声が尻すぼみになっていって、最後の方は蚊の鳴くような声になってしまったオーケビョルンである。
 しかし、弱々しく言ったところで事実は事実。彼が数百年間スヴェドボリ山の周辺から足を踏み出さなかった事実は変わらない。そして山周辺の村々から、そう認識されているという事実も変わらない。
 頭を力なく地面の傍まで下げてきた老竜の顔を覗き込むようにして、獣人の少女が驚きに目を見張りながら声を発した。

「賢竜様、そんな長い間、スヴェドボリ山を守ってこられたのですか?」
「守ってきたわけじゃないぞ。ただ気ままに文章を書いて、危ない獣が出たらわしの食事にして、たまに山の外に出て著作をこの屋敷に持ち込んでおっただけじゃ」
「そうそう。オーケビョルンはこの山を、ひいては近隣の村々を長年守ってきた、と言われているし、守り神様として信仰を集めてもいるけれど、その実山にずーっと引き籠もっていただけってことさ」

 尻尾で庭の地面をたすたすと叩きながら零すオーケビョルン。
 老竜の言葉に追い打ちをかけるように、なんとも軽い口調で率直な話をぶちまけたマルクスへと、オーケビョルンのぶすっとした視線が突き刺さる。

「引き籠もりなどと言うでないわい。出かけてこんかったのは……事実じゃけど……」
「じゃあ猶更だ。環境を変えて、新しい空気を取り入れた方がいい。
 旅をする中で作品のインスピレーションが湧いてくるかもしれないし、君ならすぐに著作を書き残して、しかも長い間残しておける・・・・・・・・・じゃないか」

 またもや言葉の勢いが尻切れトンボになってしまったオーケビョルンに、慰めるように言葉を投げたマルクスだ。
 そしてその言葉に、ずっと地面に伏せっぱなしだった老竜の頭がぐいと持ち上がる。傍らのメイドの少女も不思議そうに二階の窓を見上げた。

「ご主人様、どういうことですか?」
「なるほど……旅先の岩やら石やらに爪で文字を刻めば、それが作品になる、とお主は言いたいんじゃな?」
「そういうこと。君は詩も書くだろう? 旅先でふと浮かんだ詩を石や岩に刻む。それを街道の道端に据える。その時点で後世まで残る立派な作品だ」

 マルクスの提案にオーケビョルンは納得したように頷いた。
 確かに自分は小説の他に詩もよく書く。長編作品の合間に書き溜めた詩を、数年に一度の頻度で詩集として出版しているくらいだ。
 自分の作品が句碑として各地に残る、という可能性は考えていなかったが、旅先の美しい風景や情景を詩という形で切り取り、その場に残すのも風情がある話ではないか。
 なんだか、年甲斐もなくワクワクしてきたオーケビョルンである。

「諸国漫遊詩歌の旅、というわけか……なるほど、興味が湧いて来たのう」
「おっ、乗り気になったかい? じゃあ早速準備しようじゃないか、善は急げだ」
「えっ、マルクスも来るのか!?」
「当然じゃないか、君が書いた爪文字を、誰が大陸文字に翻訳するんだ! 他の人間にやらせたら別の解釈になるに決まってる!」

 そしてこれまたワクワクした様子で、部屋の中へと舞い戻っていくマルクス。
 傍らのメイド少女に縋るような視線を向けるも、ニコニコ笑って屋敷の中に戻っていってしまって。
 どうやら自分とマルクスの、男二人旅、いや一人と一頭の旅となりそうな予感がして、少しやるせなさを感じて庭に佇む老竜なのだった。
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