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京介編
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しおりを挟む嗣春は遠くを見つめながら、グラスの中の上質なブラウンの液体をゆらゆらと揺らす。
「京介も見ただろう? あいつが、あんパン食ってるところを。本当は尊は餡は苦手なんだよ。けど、親父の好物だったからと無理して時々ああして食うんだ。あいつがいつも着ているぶかぶかのパジャマも、親父の形見のものだ」
「なんでそこまで父親に執着するんだ?」
「あいつにとって、親父は理想の男だったんだ。その敬愛する父親に“自分は愛されていなかった”と尊は思い込んでいる……」
苦しそうに嗣春は息を吐いて目を閉じる。
「小さい頃から尊の心を占めていたのは、自分の父親と、あいつが飼っていた甲斐犬の“虎徹”だけだったが、そのどちらも今はいない。だから、あいつの心の中には大きな穴がぽっかりと空いている。あいつはその開いた穴の闇に時々飲み込まれそうになるんだ。過去には自殺未遂も起こしてる」
“自殺未遂”という嗣春の言葉に京介は少なからずショックを受ける。
「俺が抱けばその闇も消えるのか?」
「消えるかどうかは分からないが、少なくともあいつに温もりを与えてやる事は出来る。冷えた死者の思い出じゃなく、生きている人間の体温をあいつには感じていて欲しい」
京介は無言でコニャックを口に含む。少し頭の整理をしたかった。
「もちろん、無理に抱けとは言わない。京介の事情もあるだろうしな」
「嗣春、アンタじゃ駄目なのか?」
「俺一人じゃ尊を支えきれない。それに、俺の中に流れる親父の血があいつを苦しめる… 」
グイッとグラスを煽る嗣春を見て、きっとこの兄弟は他にも何か秘密を抱えている。京介はそう確信する。
「話は分かったが、俺は男は抱いた事はない…」
自信無さげな京介の肩を嗣春は再びガシッと掴む。
「んなもん、勢いでやるんだよ! …ヒック…… いいか、俺が初めて尊を抱いた時は……」
「ス、ストップ!……ストップ!!」
慌てて京介は嗣春の話を制止させる。尊との睦み事の話は、なんとなく聞きたくなかった。
「ンん? 聞かなくていいのか...?」
残念そうな表情をしてから、嗣春はグラスの底に残っていた酒を飲み干して空にすると、そのままドサッとソファに横に倒れ込んで、ぐオオオと寝息を立て始める。
虎のような鼾をかいている嗣春を横目で眺めながら、京介もグラスを空にした。
泥酔した嗣春の話をどこまで本気で受け取っていいか判らなかったが、尊を抱くことは無いだろう。
自分の密やかな妄想の中で尊が喘ぐ事はあっても、実際に抱く事とは違う。 華奢なガラス細工のように、触れれば壊れてしまいそうな、美術品のような尊の身体を抱く勇気は俺にはない……
しかし、尊が孤独の闇を抱えているなら、隣りで寝そべって手を握ってやり、眠りにつくまで側にいてやりたい。心からそう思う。
京介は立ち上がると、起きる気配の無い嗣春を置いて部屋に戻る。
尊の部屋の監視モニターのスイッチを入れると、尊はベッドの上でぐっすりと眠っていた。
尊の心の中に触れた今は、どこか近寄りがたかった存在から変化し、弟のような愛しさを彼に感じていた。
「おやすみなさい。社長」
優しい声で呟くと、京介もまた眠りについた。
翌日の尊と嗣春は、昨日何事もなかったかのように出社して仕事をこなし、京介の舌を巻かせた。
特に嗣春の体力はバケモノなんじゃないかと思う。
あれだけ泥酔していたにも関わらず、夜明け前にはその姿はリビングから消えていた。
見れば、誰よりも早く出社して、キビキビと海外支社との連絡のやり取りをこなし、京介を驚かせた。
あの法要があってから五日目の朝、京介は朝食を作るためにプライベートキッチンの流しに立っていた。
この屋敷に来てから、朝食はロブマイヤーの光り輝くシャンデリアが吊り下げられた豪華なメインダイニングルームで尊と共に取っていたが、ズラリと壁際に並んだ数十人の使用人達に、監視されるようにして食べる食事に落ち着かないと音を上げた京介は、厨房から食材を分けてもらうと、自分で朝食を作るからといって、メインダイニングでの朝食は辞退していた。
京介が朝食は別室で取ると言ったのを聞いた尊は、自分も京介と一緒にプライベートキッチンで食べたいと言い出し、結局、朝は二人で仲良く京介手作りの朝ごはんを食べるのが最近の日課になっていた。
「おはよう、京介。今日は何?」
眠そうな目を擦りながら、パジャマ姿の尊が、朝日のきらきらと差し込む明るいプライベートキッチンにやってくる。
「今日はサーモンベーグルサンドですよ」
「へー、美味しそう!」
小さなまな板の上で懸命に野菜を切っている京介の手元を尊は嬉しそうに覗き込むと、コーヒーメーカーから香りの良いコーヒーをマグカップに自分でコポコポと注いで、キッチンテーブルの小さな椅子にちょこんと腰を下ろす。
スーツを着れば隙の無い、やり手の若社長なのに、寝起き姿の尊はいつも無防備で愛らしかった。
そんな尊のために、京介も早起きをして、慣れないながらも、つい張り切って洒落た朝食を作ってしまう。
「よう、早いな」
低く響く声がして、見れば脇に新聞を抱え、手にゼロハリバートンのブリーフケースを持った、端正なスーツ姿の嗣春がキッチンに入ってきたところだった。
「京介、美味そうなの作ってんな。俺にも貰えるか?」
「ちょうど作り過ぎて余ってたところだ。食ってもらえるとありがたい」
京介は追加の皿を用意する。
嗣春は京介からベーグルの乗った皿を受け取ると、キッチンテーブルの椅子を引いて腰掛け、経済新聞を開き、パジャマ姿でコーヒーを飲んでいる尊をチラリと見る。
「おい尊、そんな格好でウロウロするな。着替えてこい」
嗣春に注意された尊は、やや不満そうに口元をプクゥと膨らますと、それでも、
「はい」
と素直に返事をして、席を立った。
テーブルに朝食を並べながら、その光景を見ていた京介は、なんだか俺達まるで家族みたいじゃないかと、つい笑みを浮かべる。
尊の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、嗣春は重厚なブリーフケースをガチャンと開けて『山佐銃撃事件に関する報告書』と書かれた書類を取り出した。
「京介を撃った弾だが、山佐が持っていた銃のものとは一致しなかった」
それを聞いて、京介はずっと胸につかえていたものが取れた気がした。
(俺は先輩に撃たれたわけでは無かったのだ!)
嗣春は書類を捲りながら話を続ける。
「山佐は一人暮らしだったようだな。京介が言っていた写真に写っていた“奥さん”の素性を調べたところ、アマチュアカメラマン向けのモデルをやっている女性だった。山佐との関係は、金を支払われて一度だけ一緒にスナップ写真を撮っただけだったようだ」
つまり、すっかりとあの山佐の結婚話に俺は騙されたという訳か……
新婚の家庭を持つ人間であれば、相手の警戒心も薄れると考えていたのだろう。
「山佐の部屋からは、お前と尊の顔に印がつけられた写真が見つかっている」
眉間に皺を寄せて、嗣春が難しい顔をする。
俺も消される対象だったのに、山佐は俺と対峙しながら、俺には引き金を引かなかった……
京介は山佐の最後の言葉を思い出す。
「俺が好きだったのは、お…まえ……」
本当は、短期間だったけれどバディを組んだ事もある山佐の自分への気持ちを、心のどこかで気がついていた。
なのに、山佐の前では気がついていない振りをしていた俺は、彼を傷つけたままで死なせてしまったのかもしれない……
「京介、あまり思いつめるな。犯人は必ず一之瀬で捕らえてやるから」
コップを取るために立ち上がった嗣春は、ポンポンと京介の肩を励ますように叩く。
「あぁ」
嗣春の気遣ってくれる言葉。それだけでも、京介は、ほんの少しだけ救われる気がした。
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