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京介編

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  嗣春の運転する黒のマセラティが、まるで獲物を目掛けて駆け出すように、スピードを出して走り出す。

 助手席の京介は少し緊張の面持ちだった。

 これから尊の警護に24時間就くため、京介も尊の自宅に住み込む事になったのだ。

 車は最初に中野にある京介の官舎に立ち寄った。

 言われた通り、身の回りの最低限の物だけをボストンバッグに詰め込んで、再び嗣春の車に乗り込む。

 バタンとドアを閉じると、嗣春は紙袋をポンと京介に手渡した。
  袋の中を覗いてみると、それは防弾チョッキだった。

「いつもそれを着ておけ」

 嗣春は言葉を続ける。

「尊のボディーガードは今まで五人いたが、そのうちの三人は銃で撃たれて、1人は死んでる。尊はボディーガードなどいらないと言うが、俺が心配性なんでね」
 少し自嘲気味に嗣春は笑う。

「もし、この危険な仕事が嫌ならここで降りていいぜ」
 嗣春は真面目な顔をして京介の方を向く。

 脅しのような言葉を言われても、京介は降りるつもりなど更々無かった。

 覚悟ならとっくに出来ている。

「俺は降りない。そんなに頻繁に命を狙われているなら、尚更、誰かが守ってやらないといけないだろう。警察の使命は市民の安全を守る事だ。まぁ、“善良な市民”が前提だが」

「アンタならそう言うと思ったよ」

 京介の言葉に嗣春は笑う。

「今回は珍しく、尊からアンタをボディーガードにしたいと言い出したんだ。だから、アンタがこの話を引き受けてくれると尊も喜ぶだろうし、俺も助かる」

 嗣春は、“感謝する” とでも言うように京介に向かって頭を下げると、車のエンジンをかける。

 何者にも屈しなさそうな、尊大な男の見本のような嗣春がこうやって頭を下げるところを見ると、この男の弱点は、義弟の尊なのだろう。
  
 京介は、尊と嗣春の固い信頼関係の愛情で結ばれた関係を少し羨ましく思う。 

 二人を乗せた車は、尊の自宅のある麻布方面へと再び走り出した。

 特に共通の話題も無い二人は、会話が途切れ、車内は無言の気まずい空気に包まれる。

 麻布の交差点の信号で車が止まると、重苦しい静けさを破るように、ふと、京介は思った事を口にする。

「恋人が常に誰かに命を狙われているなんて、あんたも休まる時が無いな」

 京介がそう言うと、

「尊は俺の恋人なんかじゃない」 

 意外な返事が嗣春から返って来た。

「あいつは、誰の物にもならないんだ」

 嗣春は少し苦しそうに、その凛々しく整った顔を曇らせて眉を寄せる。

「でも、さっきの様子はまるで恋人同士みたいだったじゃないか」

「尊は俺の事なんか見ちゃいない」 

 京介はそれ以上は何も言えなかった。

 やがて麻布の豪邸が建ち並ぶ一角の、そのなかでも一際大きな邸宅の前で嗣春は車を止めると、車の目の前の重厚な扉がギギギっと音を立てて開き、嗣春はそのまま車を進める。

 すると、恐らく著名な建築家が建てたのであろうと思われる、近代的な邸宅が姿を現した。

 大きなガラス扉が印象的な、正面玄関の車寄せには、スーツを着た初老の老人が既に待ち構えるように立っていた。

 嗣春がその老人の目の前に車を止めると、
「お待ちしておりました。田中京介様」
 そう言って老人が助手席のドアを開けてくれる。

「どうもすみません……」

 こんな丁寧な扱いに慣れていない京介は少し動揺しながら車を降りる。

 嗣春も車を降りるとスタスタと邸宅の中に入って行き、京介も荷物を抱えて慌ててその後を追う。

「あぁ、荷物はそこに置いておいてくれ。後は実野がするから」

 嗣春が広い玄関ホールに置かれた来客用チェアを指差し、京介が言われた通りにすると、さっきの初老の男性が京介の荷物を持ち上げ、何処かへと直ぐに消えた。

「今のは執事の実野だ。アンタもこれから世話になると思う。老人に見えて実野は優秀だ。分からない事があれば彼に聞いてくれ」

 嗣春の言葉に、ドラマや映画のような、“執事”のいる世界に俺はやって来たわけか、と京介はため息をつく。

「それじゃ、家の中を案内するから着いてきてくれ」

 嗣春の案内で京介は邸宅の中の部屋を一つ一つ見て回る。

 部屋数は多くなかったが、どの部屋もゆったりと余裕があって、調度品も素晴らしかった。
  
 特に、グランドピアノが置かれたリビングルームは広く、100人規模の人数でパーティーでも出来そうな広さで京介は目を丸くする。

 最後に、嗣春はとある部屋の扉の前で立ち止まった。

「ここが尊の部屋だ」

 何故だか自分でも分からないが、京介は緊張して思わずゴクリと唾を飲み込む。

 カチャリとノブを回して嗣春が扉を開けると、思ったよりもシンプルな造りの部屋が京介の目に飛び込んできた。

 部屋の中央にはキングサイズのベッドが置かれ、そのベッドの両脇にランプの置かれたサイドボードがシンメトリーに配置されていた。

 家具はそれだけだった。

「あっちの左扉がバスルーム、中央がクローゼットルーム。右扉が書斎だ」

 嗣春は指差す。

「そして、これがアンタの部屋と繋がっているドアだ」

 嗣春は尊のベッドの横にある扉を開けて、こっちだとでも言わんばかりにアゴを振る。
 京介が言われるままに嗣春の後に続いて入って行くと、そこにはベッドの他に、ズラリと並んだモニターがあった。

「この家の全ての部屋にカメラがついている。そしてこのモニターが尊の部屋のカメラだ」

 モニターに映し出される映像はハイビジョンカメラを使用しているのか、綺麗だった。

「これがズームと音声切り替えスイッチだ」
 モニター前のスイッチボタンをいくつか動かして、嗣春は使い方を京介に教える。

「わかった。そう難しそうではなさそうだな」

 京介もいくつかボタンやスイッチを押してみる。 カメラが自在に動き、細かい文字でも読み取れそうなほどに、くっきりと鮮明に部屋の映像が映し出された。

「この家では時々パーティーが開かれて、女優やモデルなんかも泊まったりするが、くれぐれも悪い事には使うなよ」

 ニヤリと嗣春は悪戯っぽく笑う。

「わかった」 

 嗣春の冗談を真に受けた京介は真面目な顔で頷く。

「さて、探検ツアーはこれで終わりだ。何か質問は?」

 京介は大丈夫だと首を振ると、嗣春は仕事があるからと言ってまた再び出掛けて行った。

 京介はこれから自室となるベッドルームのベッドの上に体を投げ出し、目を閉じて波瀾万丈だった今日の1日を思い出す。 

 人生とは分からないものだ。 

 そしてこれから自分がどうなるかも全く分からなかった。 一之瀬尊はシロなのか、それともクロなのか? 

 1つだけ分かる事は、尊という人間が、他人の人生を簡単に変えてしまうほどの権力と、そして魅力を持った人間だと言うことだった。

 ぼんやりと考え事をしながら、いつの間にか、うとうとと寝入ってしまっていた京介は、部屋をノックする音で不意に起こされた。 眠い目を擦りながらドアを開けると、そこには執事の実野が立っていた。

「お休みのところ申し訳ありません。これから病院にお見舞いに行かれるようでしたら、お車をご用意いたしますが如何されますか?」

 実野に言われて京介は慌てて腕時計を覗き込むと、針は16時過ぎを指していた。

 車で今から行けば面会時間には充分に間に合いそうだった。

「シャワーを浴びたらすぐに病院に行きます!」
「かしこまりました。お着替えはクローゼットにかかっております。ご自由にお使い下さい」

 実野はそう言うと、丁寧に頭を下げて静かにドアを閉めて立ち去った。

 京介は急いで黒と白のタイルが敷き詰められたモダンなバスルームに飛び込むと、ザッとシャワーを浴びて、汗と埃を流し落としてバスローブに着替える。

 実野に言われた通りにクローゼットの扉を開けた京介は驚いて呻き声をあげる。

 目の前には、仕立ての良い新品のスーツが5着と、高級革靴、最高品質のシャツにネクタイ、手触りの良いニットがハンガーにかけて並べられていた。 

 それらのどれもが京介の体のサイズにピタリと合ったものだった。 
 どれほど綿密に自分の事を調べたのだろうか。一之瀬の情報収集能力の高さに京介は少し身震いする。

 恐る恐る、手に取って着替えて鏡の前に立つと、そこに居たのは、ヨレヨレのスーツと踵のすり減った靴で捜査に駆けずり回る捜査官ではなく、一之瀬のボディーガードを名乗るに相応しい姿の男が立っていた。

「まいったな……」

 眩しい自分の姿に京介は照れ臭くなって、思わず鼻の頭をポリポリと掻く。

 それから優奈の待つ病院に向かうために、慌てて部屋を飛び出し、玄関先に回された黒塗りの車に急いで乗ると、車は夜の街へと滑らかに走り出した。


「あれ?おかしいな……」

 病院に着いた京介は一目散に優奈の部屋に向かったが、優奈のベッドは空だった。 それどころか、優奈の荷物すら綺麗に何処かへと片付けられていた。

「あら、田中さん! 優奈ちゃんのお見舞いですか?」

 顔見知りのナースに声をかけられて、病室を覗いていた京介は頷く。

「そうなんですが、優奈の姿が見えなくて……検査か何かですかね?」

「田中さん、聞いてないんですか? 優奈ちゃんなら特別個室に移りましたよ」

 驚いた京介は、その部屋の場所を聞くと、急いで優奈の所へと向かう。

「お兄ちゃん!」

 病室のドアを開けると、特別室専属のナースに本を読んでもらっていた優奈が嬉しそうにこちらを向く。

 特別個室というだけあって、この部屋はこの病院のどの部屋よりも豪華だった。

 さらに、優奈のベッドの回りにはぬいぐるみやオモチャで埋め尽くされていて、優奈の着ているパジャマも、 洗濯のし過ぎでヨレヨレになっていたスウェットの上下から、華やかなフリルで飾られた、見たこともないネグリジェに着替えさせられていた。

 まるでお姫様のような格好をした優奈に、優しい声で本を読んであげていたナースは、京介の姿を見ると、気を利かせて部屋を出ていく。

「お兄ちゃん、沢山のプレゼントありがとう! 優奈、これがいちばん好き!」

 そう言って、小さなテディベアのぬいぐるみを優奈はぎゅうっと抱きしめる。

「優奈ね、手術をしたら沢山走れるようになるんだって!  だから、優奈、手術がんばる! 」

 健気な優奈の言葉を聞いた京介の胸には熱いものがこみ上げてきて、思わず優奈を腕の中に強く抱き寄せる。

「優奈の手術は成功するよ。お兄ちゃんが約束する。ただ、お兄ちゃんは仕事があるから手術に付き添えない。ごめんな、優奈。手術、一人でも頑張れるかい?」

「うん! 大丈夫だよ!」

 明るく頷く優奈の頭を京介は何度も優しく撫でてやる。

 それにしても、尊には何度驚かされるのだろう? 

 なぜ、自分にここまでしてくれるのだろうか?
 単なる親切心からなのか、それとも、尊を捜査すると言った俺への牽制なのか?

 牽制だとしたら間違いなくそれは成功だ。優奈は俺の弱点だ。優奈を人質に取られたら、俺は手も足も出ない……

 とにかく尊に会って真意を確かめなければ。

 京介は、自分の腕の中でスヤスヤと寝息をたて始めた優奈を名残惜しそうに見つめてから、そっとベッドに横に寝かせてやり、静かに病室を後にした。
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