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嗣春編
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「……尊」
全てを告白し、声も出さずに泣きじゃくる尊を、嗣春は茫然と見つめる。
確かに、産まれた時に母から与えられた名前は、“俊春”だった。
そして、物心ついた時に、頻繁に母の元に通ってくる親切でお金持ちのおじさんが、実は本当の父であると聞かされた時から、少しずつ、世の中の不条理について、この身に学んでいった。
母の口癖は、“本宅の奥様に申し訳ない”だった。俊春はこの言葉が嫌いだった。
なぜ自分達が日陰者のように、他人の顔色を窺って生きていかねばならないのか。
母はまだしも、なぜ、この自分が世間から隠れるように生きないといけないのか、納得がいかなかった。
知らず知らずに抑圧された鬱憤が溜まっていった。
中学にあがる頃には体格もぐんぐんと大きくなり、“生意気だ”と上級生に目をつけられる事も多くなった。
ある日の放課後、一学年上の顔も知らない生徒に校舎裏に呼び出されて、何の理由もなく腹を蹴られた瞬間、俊春の中の何かが爆発した。
無我夢中で相手をぶん殴り、転んで立ち上がろとする相手を蹴り上げ、気がつけば、相手は血まみれになって自分の足元で呻き声をあげて転がっていた。
ハッと我に返ってから、俊春はこの後の事を考えて、怯えた。これから自分は警察に捕まり、少年鑑別所にでも送られるのだろうか、と。
結局、自分が歩む人生は、太陽の下を堂々と歩けるものではないのだ。諦めの境地が俊春を襲う。
けれど、相手を半殺しの目に合わせたのに、何事も起こらなかった。俊春が殴った相手は、肋骨が何本かと腕と脚の骨が折れていたらしかったが、担任から叱られることすら無かった。
どうやら、裏で幾分かの金が動いたらしい。
同級生の噂話しでそう聞かされた俊春は、訳もなく苛立った。
自分の知らない所で、自分の人生をコントロールする力が働く。それは、自分が「支配される側の人間」だと思い知らされる事に等しかった。俊春はそれが堪らなく嫌だった。
いつの頃からか、常に自分は「支配する側の人間でいたい」とそう強く思うようになっていた。
それからも度々、喧嘩を売られる事が続いたが、俊春は負けた事は一度も無かった。
中学を卒業する頃には、地元の不良集団を束ねるような地位に、気がつけばなっていた。
元々、面倒見の良い性格もあって、後輩達に随分と慕われたが、集団で徒党を組んで威嚇するようにして街を歩くのは、俊春の性に合わなかった。
俊春は大抵、独りで気ままに昼夜関係無く、グループの溜まり場にフラリと顔を出し、飽きればいつの間にか次の場所へと移動する。そんな生活をしていた。
将来の事なんてものは何一つ考えておらず、中学を卒業したら、知人の飲食店でも手伝おうかと思っていたが、母親に「せめて高校くらいは卒業して欲しい」と泣かれて、しぶしぶと高校受験をした。大して勉強をしなかったが、落ちても良いとばかりに興味本位で受験をした都内では一、二を争う進学校になぜか成績上位で受かったが、相変わらず、俊春の生活態度は悪かった。
せっかく受かった学校にも、ロクに出席をせずに、フラフラと渋谷や六本木の街を悪友と共に昼間から出歩いて遊び歩いていた。
俊春にとって、学校の授業は苦痛でしかなかった。決して、勉強が出来ないわけじゃなかった。寧ろその逆で、一度、パラパラと教科書を捲ればその大半を理解し、覚える事ができた。だから、授業に出なくともテストの点数は毎回、満点に近い点を取り、そんな俊春を教師や同級生たちは蛇蝎の如く嫌い、俊春もまた、こんな不毛な高校生活から逃げ出したくてたまらなかった。
出席日数も足りてないはずなのに、なぜか退学にはならなった。高校を卒業しろというのは、一之瀬の父の意志でもあった。
(結局、俺は一之瀬の敷くレールの上からは外れられないのか)
他人に人生を決められるフラストレーションを、俊春は酒と女と喧嘩という手段で発散した。
六本木界隈で、俊春の名はあっという間に広まり、“閻魔坂の狂犬”と呼ばれ、しょっちゅう麻布警察署の世話になっていた。
相手がヤクザだろうと、軍隊上がりの外国人だろうと、気にいらなければ、血まみれの半殺しにした。
当然ながら警察に捕まるが、留置場に放り込まれても、一之瀬の人間が翌日には迎えにきて、罪は有耶無耶になり、結局一晩で釈放されるのだ。
迎えに来るのは、決まって父の秘書の有賀だった。
灰色のスーツに銀縁のメガネ、髪は乱れることなくきっちりと整えられているこの男は、常に無表情だった。
一之瀬の家に対して迷惑をかけ続ける俊春に対して、小言や説教をするわけでもなく、淡々と釈放のための書類を作り、帰ってゆく。
この男は俊春にとって、まったく理解し難い人間に見えた。
有賀は常に父の側にいた。趣味や娯楽を楽しまずに、ただひたすらに父のためだけに働く男。
他人に自分の人生を捧げる生き方というのもあるのだと、俊春はこの時初めて知った。
この時期の俊春は、退屈と空虚と混沌の中にいた。
足元に絡みつく重いヘドロが、自分を未来へと進ませないように感じていた。
薄闇の中で泥沼に囚われる自分の人生の、この先がまったく見えなかった。
現実から逃げようと、酒とマリファナ、女に溺れようとしても、心のどこかで醒めている自分がいた。
この頃には、裏社会の大物達とも、随分と顔馴染みになったが、どこかの組織に属する気にはなれなかった。かといって、自分が普通の社会生活を送れる人間に戻れる気がしない。
行き場のない思いが、廃人と化する泥沼の奥底へと引きずり込もうとし、俊春は、最後に残った僅かなプライドで、必死に闇にのまれまいと、踏ん張った。
その様子は、まるで池に浮かんだ木葉の上にいる、一匹の小さな蟻のようだった。
ゆらゆらと揺れる木葉から落ちれば、沼の底に沈んで二度と這い上がれない。
必死で今の場所にしがみつこうとする俊春の様子を、一之瀬の父は何も言わずにじっと見ていた。
まるで、ちっぽけな蟻がそこからどうやって抜け出そうとするのかを、それとも、落ちて泥沼に沈むのかを、あたかも観察でもするかのように、静かにじっと見ていた。
それは、高校三年の夏だった。
いつものように、女を連れて偽造の身分証で六本木の流行りのクラブに平然と入り込み、浴びるように酒を飲んでいると、踊っている自分の女にやたらと親しげに絡んでいる男が目に入った。
「おい!俺の女に何してる!」
カッとなった俊春は、そのサラリーマン風のスーツの男に大股で近寄り、胸ぐらを掴みあげると、躊躇することなく拳を男の腹に叩き込んだ。
ズダン!と大きな音と共に、男はフロアに倒れて、気を失った。
キャー!と悲鳴が上がり、周囲は騒然となる。
その後はお決まりの流れだった。
警官がやってきて、麻布警察署に連れて行かれ、もはや顔馴染みとなった刑事に形ばかりの調書を取られ、一晩、留置場で過ごす。飽きるくらいの、いつもの流れだった。
だが、今回だけはいつもと違った。
迎えに来たのは秘書の有賀ではなく、一之瀬の父、本人だったからである。
「息子がお世話になりました」
一之瀬の総帥が若い刑事に向かって貫禄を出しながら頭を下げると、まだ新米の刑事は少し動揺しながら、「い、いえ……」と頭を振る。
警察署を出る時には、麻布警察署長が賓客でももてなすかのように直々に二人を見送った。
まったく犯罪者に対する扱いじゃなかったが、そんな事よりも、なぜ父がわざわざ自分を迎えに来たのか、俊春はいつもと違う状況に酷く警戒をした。
迎えの黒塗りの車に乗り込んでも、父は無言で、小言や説教を何も言わなかった。
ーーそうか。俺はとうとう親父に見放されたんだな……
今日は絶縁でも言い渡されるのだろう。
上等じゃねぇか。今までだって一之瀬の名に頼って来なかったし、これからも頼るつもりは無い。
勝手に親子の縁でも何でも切ってろ!
俊春は腹の中で悪態をつく。
車が暫く走ったところで、とうとう父の一之瀬嗣行が口を開く。
「俊春、最近どうだ?」
その口調は気さくで、いつもと全く変わらないトーンだった。
俊春はそれに対して返事をせずに、ふて腐れた表情で、窓の外をじっと見続ける。
「これを読め」
嗣行は一通の茶封筒を差し出すが、中身なんか読まなくても分かるとばかりに、俊春はそれを無視する。
いつまでも受け取らない俊春に、
「いいから読むんだ!」
父の厳しい声が飛ぶ。
それは今まで聞いた事のない緊迫した声だった。
俊春はしぶしぶと受け取り、中の書類を取り出し、面倒くさそうに読み始める。
やがて、書類を持つ俊春の手が震えだした。
「なんで、俺が……」
かすれたような声をやっと絞り出すと、その瞳には涙が溢れ、ポロポロと転がり落ちた。
「その意味が分かるな?」
静かな父の声に、俊春は震えながら小さく頷く。
それは改名届けの書類だった。
「これからお前の名前は、“嗣春”だ。その名に相応しい生き方をしろ。嗣春」
家に着いて一人になっても、まだ俊春は茫然としていた。
手元の書類を信じられない思いで再び眺める。
一之瀬の跡継ぎは、代々、“嗣”の字を名に入れるのがしきたりとなっているのは、知っていた。
そして、“嗣”の名は自分でなく、本家の義弟に与えられるものだと漠然と思っていた。それが最も自然な物事の通りだからだ。
しかし、後継者として親父が選んだのは、義弟ではなく、この俺……
俊春は目の前が急に開ける思いがした。やっと進むべき道が現れたーー
恐らくその道は困難だろう。将来は本家の義弟も倒すべき強大な敵として、俺の前に立ちはだかる筈だ。しかし、俺ならば、必ず乗り切ってやる。一之瀬の権力の全てを必ずこの手にしてみせる。
手に入れるべきものが大きいほど、対峙する敵が大きいほど、心の中の闘争心がマグマのように吹き上がり、俊春を奮い立たせた。
ーー俺の名は嗣春。一之瀬の総帥になる男。
さっき与えられたばかりの名なのに、その響きは既に違和感なく、まるで産まれた時から名付けられていたかのように、既に自分の中に溶け込んでいた。
次の日から、嗣春は真面目に学校に通うようになり、悪友たちともスッパリと縁を切った。
半年間、死ぬ気で勉強をし、この国の最高学府である、東慶大学にトップで合格、首席で卒業後は、父親の母校でもあるHバード大学院に留学、経営学をみっちりと学んだ後は、素性を隠して一之瀬商事に就職、と着実に一之瀬の椅子に座るための実績と経験を積んできた。
この頃には、父の嗣行も料亭などで開かれる私的な経営会合などに嗣春を同行させ、時には重要な経営判断に関わる意見を、嗣春に求める事もあった。
父の周囲の幹部たちも、薄々と、次の後継者は嗣春なのではと感づき始めたが、嗣春が後継者になるには、一つ大きな問題があった。
それは、本家の義弟、一之瀬尊の伯父の九条忠敬の存在だった。
忠敬は非常に優秀な男だった。
尊の母が一之瀬に嫁いだと同時に、一之瀬の経営陣の椅子についた忠敬は、その優れた才覚を余すことなく発揮し、その影響力は日に日に増していっており、最早、一之瀬総帥の嗣行でさえ、忠敬の存在を無視することは出来なくなっていた。
忠敬の目的は明らかだった。
行く行くは一之瀬の椅子に座る尊の後見人として、一之瀬の権力を裏で掌握するーー
その忠敬が、婚外子である嗣春を正式の後継者と認める事は万が一にもない。それは明白だった。
結局、嗣行も嗣春を正式の後継者と公に指名できないまま、この世を去ってしまった。
一之瀬の椅子に座るための環境を何もかも揃えられている尊と比べて、力のある親戚もいない嗣春の条件は明らかに不利だった。
父の嗣行が亡くなった今、正直なところ、一之瀬の椅子を手に入れるのは難しいかと思い始めていたところに、尊自らその椅子を持ってこちらにやってきた。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
「本当にいいんだな?」
確認するように尊に問うと、尊は涙で濡れた顔を手で覆ったまま、こくり……とちいさく頷く。
「乱暴にして悪かった」
嗣春は尊の体を起こしてやると、ベッドの下に落ちていた尊のズボンを拾い上げて尊に渡す。
「着せてやろうか?」
嗣春がそう言うと、尊は覆っていた手を外し、少し恥ずかしそうに笑って首を横に振る。
「自分で着れます」
尊が不意に見せた無垢で美しい笑い顔に、嗣春は思わずはっと釘付けになる。
次の瞬間、尊を再びベッドに押し倒したい衝動が湧き上がった嗣春は、慌てて尊から離れると、部屋のドアに向かう。
「着替えたらリビングに来い。早速、打ち合わせをする」
尊にそう告げると、嗣春は劣情を振り払うかのように、急いでベッドルームを出た。
全てを告白し、声も出さずに泣きじゃくる尊を、嗣春は茫然と見つめる。
確かに、産まれた時に母から与えられた名前は、“俊春”だった。
そして、物心ついた時に、頻繁に母の元に通ってくる親切でお金持ちのおじさんが、実は本当の父であると聞かされた時から、少しずつ、世の中の不条理について、この身に学んでいった。
母の口癖は、“本宅の奥様に申し訳ない”だった。俊春はこの言葉が嫌いだった。
なぜ自分達が日陰者のように、他人の顔色を窺って生きていかねばならないのか。
母はまだしも、なぜ、この自分が世間から隠れるように生きないといけないのか、納得がいかなかった。
知らず知らずに抑圧された鬱憤が溜まっていった。
中学にあがる頃には体格もぐんぐんと大きくなり、“生意気だ”と上級生に目をつけられる事も多くなった。
ある日の放課後、一学年上の顔も知らない生徒に校舎裏に呼び出されて、何の理由もなく腹を蹴られた瞬間、俊春の中の何かが爆発した。
無我夢中で相手をぶん殴り、転んで立ち上がろとする相手を蹴り上げ、気がつけば、相手は血まみれになって自分の足元で呻き声をあげて転がっていた。
ハッと我に返ってから、俊春はこの後の事を考えて、怯えた。これから自分は警察に捕まり、少年鑑別所にでも送られるのだろうか、と。
結局、自分が歩む人生は、太陽の下を堂々と歩けるものではないのだ。諦めの境地が俊春を襲う。
けれど、相手を半殺しの目に合わせたのに、何事も起こらなかった。俊春が殴った相手は、肋骨が何本かと腕と脚の骨が折れていたらしかったが、担任から叱られることすら無かった。
どうやら、裏で幾分かの金が動いたらしい。
同級生の噂話しでそう聞かされた俊春は、訳もなく苛立った。
自分の知らない所で、自分の人生をコントロールする力が働く。それは、自分が「支配される側の人間」だと思い知らされる事に等しかった。俊春はそれが堪らなく嫌だった。
いつの頃からか、常に自分は「支配する側の人間でいたい」とそう強く思うようになっていた。
それからも度々、喧嘩を売られる事が続いたが、俊春は負けた事は一度も無かった。
中学を卒業する頃には、地元の不良集団を束ねるような地位に、気がつけばなっていた。
元々、面倒見の良い性格もあって、後輩達に随分と慕われたが、集団で徒党を組んで威嚇するようにして街を歩くのは、俊春の性に合わなかった。
俊春は大抵、独りで気ままに昼夜関係無く、グループの溜まり場にフラリと顔を出し、飽きればいつの間にか次の場所へと移動する。そんな生活をしていた。
将来の事なんてものは何一つ考えておらず、中学を卒業したら、知人の飲食店でも手伝おうかと思っていたが、母親に「せめて高校くらいは卒業して欲しい」と泣かれて、しぶしぶと高校受験をした。大して勉強をしなかったが、落ちても良いとばかりに興味本位で受験をした都内では一、二を争う進学校になぜか成績上位で受かったが、相変わらず、俊春の生活態度は悪かった。
せっかく受かった学校にも、ロクに出席をせずに、フラフラと渋谷や六本木の街を悪友と共に昼間から出歩いて遊び歩いていた。
俊春にとって、学校の授業は苦痛でしかなかった。決して、勉強が出来ないわけじゃなかった。寧ろその逆で、一度、パラパラと教科書を捲ればその大半を理解し、覚える事ができた。だから、授業に出なくともテストの点数は毎回、満点に近い点を取り、そんな俊春を教師や同級生たちは蛇蝎の如く嫌い、俊春もまた、こんな不毛な高校生活から逃げ出したくてたまらなかった。
出席日数も足りてないはずなのに、なぜか退学にはならなった。高校を卒業しろというのは、一之瀬の父の意志でもあった。
(結局、俺は一之瀬の敷くレールの上からは外れられないのか)
他人に人生を決められるフラストレーションを、俊春は酒と女と喧嘩という手段で発散した。
六本木界隈で、俊春の名はあっという間に広まり、“閻魔坂の狂犬”と呼ばれ、しょっちゅう麻布警察署の世話になっていた。
相手がヤクザだろうと、軍隊上がりの外国人だろうと、気にいらなければ、血まみれの半殺しにした。
当然ながら警察に捕まるが、留置場に放り込まれても、一之瀬の人間が翌日には迎えにきて、罪は有耶無耶になり、結局一晩で釈放されるのだ。
迎えに来るのは、決まって父の秘書の有賀だった。
灰色のスーツに銀縁のメガネ、髪は乱れることなくきっちりと整えられているこの男は、常に無表情だった。
一之瀬の家に対して迷惑をかけ続ける俊春に対して、小言や説教をするわけでもなく、淡々と釈放のための書類を作り、帰ってゆく。
この男は俊春にとって、まったく理解し難い人間に見えた。
有賀は常に父の側にいた。趣味や娯楽を楽しまずに、ただひたすらに父のためだけに働く男。
他人に自分の人生を捧げる生き方というのもあるのだと、俊春はこの時初めて知った。
この時期の俊春は、退屈と空虚と混沌の中にいた。
足元に絡みつく重いヘドロが、自分を未来へと進ませないように感じていた。
薄闇の中で泥沼に囚われる自分の人生の、この先がまったく見えなかった。
現実から逃げようと、酒とマリファナ、女に溺れようとしても、心のどこかで醒めている自分がいた。
この頃には、裏社会の大物達とも、随分と顔馴染みになったが、どこかの組織に属する気にはなれなかった。かといって、自分が普通の社会生活を送れる人間に戻れる気がしない。
行き場のない思いが、廃人と化する泥沼の奥底へと引きずり込もうとし、俊春は、最後に残った僅かなプライドで、必死に闇にのまれまいと、踏ん張った。
その様子は、まるで池に浮かんだ木葉の上にいる、一匹の小さな蟻のようだった。
ゆらゆらと揺れる木葉から落ちれば、沼の底に沈んで二度と這い上がれない。
必死で今の場所にしがみつこうとする俊春の様子を、一之瀬の父は何も言わずにじっと見ていた。
まるで、ちっぽけな蟻がそこからどうやって抜け出そうとするのかを、それとも、落ちて泥沼に沈むのかを、あたかも観察でもするかのように、静かにじっと見ていた。
それは、高校三年の夏だった。
いつものように、女を連れて偽造の身分証で六本木の流行りのクラブに平然と入り込み、浴びるように酒を飲んでいると、踊っている自分の女にやたらと親しげに絡んでいる男が目に入った。
「おい!俺の女に何してる!」
カッとなった俊春は、そのサラリーマン風のスーツの男に大股で近寄り、胸ぐらを掴みあげると、躊躇することなく拳を男の腹に叩き込んだ。
ズダン!と大きな音と共に、男はフロアに倒れて、気を失った。
キャー!と悲鳴が上がり、周囲は騒然となる。
その後はお決まりの流れだった。
警官がやってきて、麻布警察署に連れて行かれ、もはや顔馴染みとなった刑事に形ばかりの調書を取られ、一晩、留置場で過ごす。飽きるくらいの、いつもの流れだった。
だが、今回だけはいつもと違った。
迎えに来たのは秘書の有賀ではなく、一之瀬の父、本人だったからである。
「息子がお世話になりました」
一之瀬の総帥が若い刑事に向かって貫禄を出しながら頭を下げると、まだ新米の刑事は少し動揺しながら、「い、いえ……」と頭を振る。
警察署を出る時には、麻布警察署長が賓客でももてなすかのように直々に二人を見送った。
まったく犯罪者に対する扱いじゃなかったが、そんな事よりも、なぜ父がわざわざ自分を迎えに来たのか、俊春はいつもと違う状況に酷く警戒をした。
迎えの黒塗りの車に乗り込んでも、父は無言で、小言や説教を何も言わなかった。
ーーそうか。俺はとうとう親父に見放されたんだな……
今日は絶縁でも言い渡されるのだろう。
上等じゃねぇか。今までだって一之瀬の名に頼って来なかったし、これからも頼るつもりは無い。
勝手に親子の縁でも何でも切ってろ!
俊春は腹の中で悪態をつく。
車が暫く走ったところで、とうとう父の一之瀬嗣行が口を開く。
「俊春、最近どうだ?」
その口調は気さくで、いつもと全く変わらないトーンだった。
俊春はそれに対して返事をせずに、ふて腐れた表情で、窓の外をじっと見続ける。
「これを読め」
嗣行は一通の茶封筒を差し出すが、中身なんか読まなくても分かるとばかりに、俊春はそれを無視する。
いつまでも受け取らない俊春に、
「いいから読むんだ!」
父の厳しい声が飛ぶ。
それは今まで聞いた事のない緊迫した声だった。
俊春はしぶしぶと受け取り、中の書類を取り出し、面倒くさそうに読み始める。
やがて、書類を持つ俊春の手が震えだした。
「なんで、俺が……」
かすれたような声をやっと絞り出すと、その瞳には涙が溢れ、ポロポロと転がり落ちた。
「その意味が分かるな?」
静かな父の声に、俊春は震えながら小さく頷く。
それは改名届けの書類だった。
「これからお前の名前は、“嗣春”だ。その名に相応しい生き方をしろ。嗣春」
家に着いて一人になっても、まだ俊春は茫然としていた。
手元の書類を信じられない思いで再び眺める。
一之瀬の跡継ぎは、代々、“嗣”の字を名に入れるのがしきたりとなっているのは、知っていた。
そして、“嗣”の名は自分でなく、本家の義弟に与えられるものだと漠然と思っていた。それが最も自然な物事の通りだからだ。
しかし、後継者として親父が選んだのは、義弟ではなく、この俺……
俊春は目の前が急に開ける思いがした。やっと進むべき道が現れたーー
恐らくその道は困難だろう。将来は本家の義弟も倒すべき強大な敵として、俺の前に立ちはだかる筈だ。しかし、俺ならば、必ず乗り切ってやる。一之瀬の権力の全てを必ずこの手にしてみせる。
手に入れるべきものが大きいほど、対峙する敵が大きいほど、心の中の闘争心がマグマのように吹き上がり、俊春を奮い立たせた。
ーー俺の名は嗣春。一之瀬の総帥になる男。
さっき与えられたばかりの名なのに、その響きは既に違和感なく、まるで産まれた時から名付けられていたかのように、既に自分の中に溶け込んでいた。
次の日から、嗣春は真面目に学校に通うようになり、悪友たちともスッパリと縁を切った。
半年間、死ぬ気で勉強をし、この国の最高学府である、東慶大学にトップで合格、首席で卒業後は、父親の母校でもあるHバード大学院に留学、経営学をみっちりと学んだ後は、素性を隠して一之瀬商事に就職、と着実に一之瀬の椅子に座るための実績と経験を積んできた。
この頃には、父の嗣行も料亭などで開かれる私的な経営会合などに嗣春を同行させ、時には重要な経営判断に関わる意見を、嗣春に求める事もあった。
父の周囲の幹部たちも、薄々と、次の後継者は嗣春なのではと感づき始めたが、嗣春が後継者になるには、一つ大きな問題があった。
それは、本家の義弟、一之瀬尊の伯父の九条忠敬の存在だった。
忠敬は非常に優秀な男だった。
尊の母が一之瀬に嫁いだと同時に、一之瀬の経営陣の椅子についた忠敬は、その優れた才覚を余すことなく発揮し、その影響力は日に日に増していっており、最早、一之瀬総帥の嗣行でさえ、忠敬の存在を無視することは出来なくなっていた。
忠敬の目的は明らかだった。
行く行くは一之瀬の椅子に座る尊の後見人として、一之瀬の権力を裏で掌握するーー
その忠敬が、婚外子である嗣春を正式の後継者と認める事は万が一にもない。それは明白だった。
結局、嗣行も嗣春を正式の後継者と公に指名できないまま、この世を去ってしまった。
一之瀬の椅子に座るための環境を何もかも揃えられている尊と比べて、力のある親戚もいない嗣春の条件は明らかに不利だった。
父の嗣行が亡くなった今、正直なところ、一之瀬の椅子を手に入れるのは難しいかと思い始めていたところに、尊自らその椅子を持ってこちらにやってきた。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
「本当にいいんだな?」
確認するように尊に問うと、尊は涙で濡れた顔を手で覆ったまま、こくり……とちいさく頷く。
「乱暴にして悪かった」
嗣春は尊の体を起こしてやると、ベッドの下に落ちていた尊のズボンを拾い上げて尊に渡す。
「着せてやろうか?」
嗣春がそう言うと、尊は覆っていた手を外し、少し恥ずかしそうに笑って首を横に振る。
「自分で着れます」
尊が不意に見せた無垢で美しい笑い顔に、嗣春は思わずはっと釘付けになる。
次の瞬間、尊を再びベッドに押し倒したい衝動が湧き上がった嗣春は、慌てて尊から離れると、部屋のドアに向かう。
「着替えたらリビングに来い。早速、打ち合わせをする」
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男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!?
溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
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私の露出…
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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