拗れてく俺と拗れてるお前

暮雨

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拗れてく俺と拗れてるお前⑧

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「宇野、昨日は大丈夫だったか」
 久賀にそう訊かれたのは例のテストがある昼休み明けの三限の講義が終わった後のことで。俺は何のことかわからなくて目を瞬かせた。
「佐野のことだ……おまえの親友をあまり悪しざまに言いたくはないんだが……お前はあの男に随分と執着されている」
 久賀は純粋に心配してくれているようで。周りを憚って小声で伝えてくれるし。その整った形の目は気遣わしげに曇っている。
「それは気にしなくていいんだ。久賀にはびっくりさせて悪いけど……わかってるから」
 佐野が久賀に何か言ったのだろうか、と思いながら昨日のやり取りを思い出した俺は思わず頬を緩め。何故かその顔を見た久賀が心配そうな顔をしたまま、腕を掴んで使われていない講義室に脚を踏み入れていく。
 訊きたいことがあるのだろう、と思った俺は久賀に腕を引かれるまま講義室に入った。
 話を聞かれないようにしたいのだろう。久賀がドアについている鍵を掛けるのを見て。俺はふと昨日佐野が言っていた『オレはあいつの、お前を見る目が気に入らない』という言葉を思い出してしまって。その考えを振り払う。
 あれは佐野が過敏になっていただけだ、と考えて久賀を見ると久賀は爪先を踏みかねない速さで、距離を詰めてくるので。俺は思わず逃げた。
 俺だって、中学高校はバスケ部をやっていた。
 けれど久賀の身のこなしは、運動部のそれとも何かが違う。
 あぁ。武道の心得だ、と思ったときにはもう壁際に追い詰められていて。久賀とは体格がそう変わらないはずなのに相対していると敵わないと思わされるような気持ちになった。
「宇野」
 まだ出会って半月の寡黙な男の目は、何より雄弁だった。
 通った鼻筋から続く、薄い唇が微かに震えて。それだけで感情を噛み殺したのがわかるのは。昨日、佐野から似た表情を向けられたからだ。

「急にこんなことをして済まない……初恋、なんだ」
 普段言葉の少ない男の言葉は、重い。
「こんなことを急に言って、すまない。お前が佐野に対してまんざらでもないとわかっているし出会って間もない俺が入り込む余地がないこともわかっているが……どうしても、お前があいつのものになる前に、知ってほしかった」
 そう言って、久賀は諦めたような眼をして笑う。
 それが痛々しくて。見ている此方の胸が、苦しくなる。

 きっと久賀もまた、自分と同じように初めての感情を感じて。けれどタイミングが悪くて……叶わないことを察している。
 久賀と出会ったのが佐野と同じ時期だったら。久賀と佐野と出会った時期が逆だったなら……と仮定の話をしても仕方がないけれど人の縁というものはそういうものだ。
 それを久賀もわかっているからこそ、佐野への特別な感情を俺が持っていることを確かめてから……想いを打ち明けてくれた。
 そこまで考えた俺は、この状況で武道の心得のある久賀が、自分を無理やり襲うことなんてないと不思議と確信できて。強張っていた身体から力を抜いた。

「うん。俺、あいつが一番特別だから……久賀のことも大切な友達だけど、俺はあいつの恋人になりたいんだ」
 そう囁くときれいに切れ上がった男らしい一重の目が伏せられる。
 その様は、つい見惚れてしまうほどに綺麗で、心に訴えるような色があって。ついぐらりときそうになるけれど。俺は気を確かに持った。
「はっきりと言ってくれてありがとう。今となっては恥ずかしいが、もしもあいつが、お前を苦しめているなら強引にでも奪うつもりでいた……だがお前があいつの恋人になりたいのなら、俺はお前の邪魔をしたりしない」
 普段無口な男の、熱烈な言葉に、溺れそうになる。
 普通なら出会って半月で何をと思うのに。何故だか久賀にはそう思えないのは。その眼が、その身に纏う雰囲気がひたむきで。内包していたおおきな感情を注がれているのを肌で感じるからだ。

 久賀に愛される相手は、幸せだろうなと思う。
 こんなにもひたむきで、すべてを惜しみなく捧げるように愛されて。
 久賀は、自分のように恋だの愛だのの区別や自分の中の絡まった感情で悩んだりしないのだろうとなんとなく思う。
 大切にしたいだとか、護りたいだとか、一緒にいたいだとか。そう思った時点でその相手を特別に想って。恋をしたことをすんなりと受け入れるのだろう、と久賀に話を聞いたわけではないけれど確信に近い感覚があった。

「お前ほどの男が佐野の恋人になりたいと願うなら、ちゃんと幸せになれるだろう。そう信じるから、俺はお前を諦める。佐野が目に余るようなことをするなら止めるが……これからもお前は俺を、友人で居させてくれるか」
 久賀はまっすぐにこちらを見つめてくるので。俺は久賀を見つめ返した。

 淡く微笑んでいるけれど。久賀の眼には失恋で傷ついた色がある。
深い青を帯びた、明るい夜空のような深い灰色の虹彩がとろりと揺らめくのは。ほんの少し目が潤んでいるからだ。

「勿論。これからもたまに一緒に料理して飯食おうぜ」
 佐野は嫌がりそうだが、久賀は信頼できる。
 そう思いながら微笑むと久賀は微苦笑を浮かべてそっと歩み寄って俺を抱きしめ。しなやかな腕の中に俺を閉じ込めてから『佐野に少し同情する』と囁いた。
 笑みを含んだその声がほんの少し音程を外して上擦っていることも。ぱたりと音を立てて湿った気がする肩の感覚にも気づかないふりをして。俺はそっとあまり身長の違わない久賀の髪をかき混ぜてから、その背中をなだめるように撫でた。





 久賀の想いを知った俺は、なんだか落ち着いていられなくて。佐野が通う大学へと爪先を向けていた。
 久賀に特別な感情があったわけではないけれど。佐野の顔を見て、自分の確たる想いを確かめたかった。
 佐野が通う大学は私立でかなり敷地が広い。新入生歓迎会の真っただ中であるせいか他校の生徒とは気づかれないせいもあって少し進むたびにサークルに勧誘され。佐野から聞いていたバスケ部の練習場に行くのも一苦労だった。

 そんなこんなでようやくひときわ大きな体育館にたどり着いた俺は。近づくにつれ信じられないものを見て、足を止めた。
 体育館の出入り口には女の子が鈴なりになっている。
 フィクションでしか見たことのない状況のはずだが既視感があるのは、高校の頃にいまよりも規模は控えめだが同じ現象が起こっていたせいだ。
 化粧をした先輩と思しき綺麗な学生も。まだあどけなさを残している頬の柔らかそうな学生も。様々で、けれど皆一様に、同じ色を、同じ感情を目に帯びて……たったひとりを見つめていた。
 その視線の先はもちろん、佐野だ。

 俺は佐野の顔を見に来て。もしも時間が合いそうなら夕食でもと思って会いにきたはずなのに一気に佐野に見つかりたくないと思った。
 だって。どれだけ佐野の言うことを信じていても。佐野はこんなにも多くの人から思いを寄せられる対象で。
 自分はというとそんな佐野の優しさと一途さに甘える愚か者だ。
 佐野は、信じられないほどにモテるのだ。
 どんどん格好良くなる佐野は、高校よりもモテている。
 勿論それを忘れていたわけではないが、大学が別になって薄れていた。
 実感して何故か胸が苦しくなった俺は背を向けて。体育館の壁の陰に隠れた。
 それなのになんの偶然か、誰かと親しげに話をする佐野の声が近づいてくる。
 佐野は先ほど、化粧っけがなくても見惚れてしまうような美人なマネージャーと話をしていた。盗み聞きをするような真似をしてはいけないと思うのに佐野が『みさきさん』とマネージャーと思しき名前を呼ぶのを聞いた俺は愚かにも傷ついてしまう。

 降り注ぐ昼下がりの陽光が、目に染みる。
 思わず目を細めるとなんでか涙が溢れて。一体自分が何にショックを受けているのかわからないまま、俺は手の甲で乱暴に目元を拭った。

 佐野は、ああ言っているけれど俺が恋人にならなくても幸せになれる。
 あんなにもたくさんの女の子から一途に想われているのだ。
 つい忘れていたけれど、佐野はいまから一年半までは彼女を切らしていなかった。
 学校で一番と言われていた、護ってあげたくなるような同級生の美少女も。癒し系だと大人気だった可愛い後輩の女の子も。雑誌の専属モデルにスカウトされたという美人な先輩も……一度は佐野と恋人だった。
佐野に想いを寄せる彼女たちは、恋がどうとか頭の固いことを言わないし。佐野が求めたら素直に応えて喜んで、何でもしてあげるだろう。

 そもそも。あの発端になったに違いない夜だって。佐野は寝ている俺に『彼女とした気持ちいい体位』を再現しようとしただけで……俺とのことはすべて事故的なものだ。
 現に俺と佐野はまだキスすらしたことがなくて。
 たとえ恋人になってセックスしたとしても……面倒くさいし骨ばっているし柔らかくない俺の体で佐野が満足できるとは思えない。
 俺と恋人になった佐野が後悔する可能性だって、あるのだ。

 更に言うなら子供だってできない。
 両親が離婚している佐野は子供を求めていないかもしれないが、パートナーが女性であるほうが世間的に受け入れられやすいし。ましてや佐野は……バスケット選手になるのだ。
 多様化の時代と言われているけれどなんだかんだ、バートナーが同性というのはマイノリティで。
 そんな将来的な諸々を考えると佐野の想いを受け入れるべきではないと思ってしまう。
俺なんかより想いを寄せてくれる女の子の誰かと恋をした方がずっと、佐野は苦労せず、幸せになれるだろう……いつか、俺を選んだがために手に入れられなかったものを……佐野は後悔してしまうかもしれない。

 そんな取り返しのつかない失敗を、佐野にさせたくない。
 佐野には、幸せになってほしいのだ。

 そんなことを考えるとぐらぐらと目の奥が回って。俺は立っていられなくなった。
 その場に座り込んで掌に顔を押し付けて目を瞑る。
 胸の中で渦巻いて吐き出せない感情が、信じられないほど苦しい。
 これまでの自分の態度への自己嫌悪と、佐野の将来のことを考えて。不安と疑問と悲哀で吐きそうだ。
 突き詰めて考えるうちに、この立っていられないほどの苦しみの引き金となった感情が嫉妬なのだと気付いた俺は、息もできない。
 ああ。程度は違えど、こんな感情を俺は佐野に強いてきたのか、と思いながら。ますます佐野が俺のことを一途に想っていることが信じられないことのように思えてきて。俺は一瞬見てしまった、美人なマネージャーにタオルを渡されて淡く微笑んでいる佐野の顔を瞼の奥から消そうとしながら、その場所から逃げ出した。
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