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一日目

街の噂③

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 ベストタイミングで鳴ったチャイムのおかげで、山下先生の怒りは最小限で済んだ。
 今まで怒ったことのない温厚なおじいちゃん先生の初めて見る一面に、恵那は微かに高揚感を抱いていた。
 山下先生が教室を出た瞬間に、クラスも大きな笑いに包まれる。

「見たかよ? 山ちゃんってあんなに怖かったんだな」

「ね! あんな大きな声聞いたことなかったから、私ビックリしちゃった」

「あんなに怒らせたのって、俺らのクラスが初めてなんじゃね? だとしたらラッキーだよな」

「そうね! 隣のクラスの子にも教えないと!」

 つくづく騒がしいクラスメートたちに呆れながら、恵那は淡々と帰る準備を進めていた。
 手に持っていた遺書をカバンの一番奥に突っ込んで、一度も開かなかった教科書もしまっていく。
 帰りのホームルームを終えた後、誰とも『バイバイ』をしないまま、教室を後にした。

「おい、恵那。恵那ってば」

 下駄箱で靴を履き替え、ちょうど校門を通過しようとしたところで、聞き馴染みのある声が恵那の名前を呼ぶ。
 パッと後ろを振り返ると、大きなエナメルバッグを肩にかけた男子生徒、巴 リュウ(ともえ りゅう)が曇った顔をさせながらこっちを見ていた。

「なーんだ、リュウか」

「なーんだって何だよ。相変わらず今日も帰るのが早いな」

「まあ、帰宅部だからね。リュウは今日も練習でしょ? こんな所で油売ってたら、レギュラー外されちゃうよ」

「良いんだよ。俺のレギュラーは確約してるから。それより、何だか最近恵那の様子がおかしいから、心配でさ」

「私の……?」

 夏服であるワイシャツをだらしなく着こなし、髪は左右に跳ねらせている。
 この典型的なサッカー部の容姿をしているリュウという男子は、恵那の唯一の幼馴染で、隣のクラスの生徒だ。
 リュウは小さい頃からサッカーをしており、中学生の頃には全国制覇も経験している。まさに、将来を期待されている選手である。
 恵那は、帰り際のリュウとの会話で、今日初めて声を発したことに気がつく。それと同時に、リュウが恵那のことを心配しているという急な発言で、頭が真っ白になっていた。

「恵那さ……やっぱり、まだ気にしてるだろ。兄さんのこと」

「……巴先輩のこと?」
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