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第一章 はじまりの詔《みことのり》

少女、菜鈴《さいりん》

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 部屋を出ると、旬果は思いっきり溜息を吐く。
 旅の疲れなんて目じゃないくらい、疲れてしまった。
 青年――泰風が笑いかけてくれる。
「陛下とのお話は、いかがでしたか?」
「見た通り」
 泰風は苦笑する。
 旬果は泰風を見る。
「それより、あなたは泰風と言うのね。ごめん。ずっと一緒にいてくれたのに、名前も聞かないで」
 泰風は、その場に片膝を付く。
「ずっとお会いしとうございました。武泰風でございますっ!」
「私達、面識があるの……?」
 泰風ははっとして、顔を上げた。
「え……?」
 旬果は申し訳なさ一杯で、頭を下げた。
「実は私……八歳以前の記憶がほとんどなくって。だから泰風のことは分からないの。ごめんっ!」
 慌てたのは泰風だ。
「いえ。違うのです。昔ですが、遠くから旬果様のことをお見かけしたことがあった、という程度でして……」
「本当に?」
「公主様にお仕えできる喜びで、つい気が逸ってしまいました……。驚かせてしまい申し訳御座いません」
 旬果は、ほっと胸を撫で下ろす。
「そっか……。なら、良かった。武泰風《ぶたいふう》。もう忘れないから」
「はい」
 しかし泰風が見せた微妙な表情は、決して安堵しているとは言い難いものだった。
 気まずい雰囲気を振り切るように、立ち上がった泰風は「こちらです」と告げ、旬果の前を行く。
 やがてとある門の前で、泰風は足を止める。

 その門はこれまで見た仰ぎ見るような大きさではなく、普通に人がくぐる程度のものだ。
 門には、“白鹿殿《はくろくでん》”と流麗な筆《て》で描かれた額が、掲げられている。
 確かに、門の向こうの建物は、白珊瑚を使った瓦に至るまで真っ白だ。

 泰風は言う。
「こちらは後宮にあがられる方が、準備をする場所となっております。ここで教養や芸事、また宮廷での作法を学ぶことになります。一通りのことを学んだ後、後宮へ入ることになります。旬果様にもそれを一通り、経験して頂きます。政を行う為に知識は、欠かせないですし、他の皇后候補とのことも……」
「他の……?」
 すると泰風はかすかに表情を曇らせる。
「実は陛下が仰せになると思っていたのですが、皇后候補は旬果様を含めて四人おりまして、その座を争うということになります。もちろん結果的に皇后に選ばれるのは、旬果様なのですが……」
「本当に、あいつってば説明がなさ過ぎるのよ! ……ったく」
 
 しかしこれ以上怒るには、今の旬果は疲れすぎている。
 泰風に案内されて門を潜れば、建物の入り口の前に一人の少女がたたずんでいた。
 目元に赤い化粧をし、黒髪を二つのお下げに結っている。
 年の頃はおよそ十歳前後だろうか。袋手をしながら、恭しく旬果に頭を下げる。
「陛下より、身の回りのお世話をするよう申し使っております。菜鈴《さいりん》と申します」
 見た目は子どもだが、喋り口調は大人染みて、堂に入っていた。
「世話? でも、あなた子ども……よね?」
 菜鈴は涼しい顔で告げる。
「ご安心下さい。私は賛善《さんぜん》として選ばれ、後宮でお仕え申し上げていました」
 と、誇らしげに言う。
(賛善?)
「ふうん」
 旬果が簡単に頷いたので、菜鈴は咳払いをして言い直す。
「賛善に、選ばれたのです」
「分かってる。聞こえたわ」
 泰風が、旬果に耳打ちする。
「――賛善は、学問を修めた女官のことです」
「えっ!? そうなの。でも、まだ子どもじゃ……」
 菜鈴が腰に手を当てた。
「これでも私は、後宮で皇太后陛下にお仕え申し上げ、他の妃嬪方に史書などのご進講のお手伝いなどをさせて頂いたんですよ」
(よく分からないけど、驚いた方が良いのよね?)
「す、すごいのね……」
「ちなみにっ!」
「っ!」
 突然、菜鈴が大声を出すものだから、びくっとしてしまう。
「ご進講と言うのは、学問をお教え申し上げることです」
「あ、ありがと。……外でこうして話をするのもあれだから、とりあえず中に入ろ。ね? 泰風も」
 旬果に続き、泰風も一緒に白鹿殿に上がろうとすると、菜鈴が泰風の行く手を遮った。
「ここは旬果様の部屋でございますれば、殿方の入室はご遠慮願います」
「私は陛下より、旬果様の護衛を……」
「必要があれば呼びます」
 泰風はむっとしたようだが、諦めたように旬果たちに背を向ける。
「泰風……」
 呼びかけようとするが、それにかぶせるように菜鈴が言う。
「――旬果様。どうぞ中へ」
「え、あ……。――泰風、ここまでありがとう。またね」
 頭を下げる泰風を尻目に、菜鈴から急かされるように白鹿殿へ入る。

 足を踏み入れた瞬間、旬果はその豪華な部屋の造りに唖然としてしまう。
 文机《ふづくえ》や衝立《ついたて》、山水が描かれた立て屏風、壁には花鳥の図案の掛け軸が下がる。

 椅子や卓、厨子や花の生けられた壺、白綾の帳などの調度品はもちろん、須や器、御軾《おんしょく》などの小物に至るまで無地なものは一つとしてなく、目を楽しませてくれる綾な装飾があしらわれている。

 そして各部屋の内に向いた一面の扉を開ければ、吹き抜けになった内庭を見られる。
 小さな桃色の花からは、馥郁《ふくいく》とした香りが立ち上っていた。

 背後にいた菜鈴が言う。
「旬果様。いかがでしょうか。不足している物があれば、いつでも仰って下さい」
「ありがと、菜鈴。こんなに大きなお屋敷を用意して貰えただけで、何も言うことはないわ」
「喜んで頂ければ、嬉しゅうございます」
 菜鈴は少女らしい無邪気な笑顔を見せる。
「……ねえ、菜鈴。あなた、私のことは……」
「陛下より、お聞き申し上げております」
「そうなのね。安心した」
「私も陛下の姉君に、お仕えできて無上の喜びにございます」
(やっぱり見た目は子どもなのに、すっごい行儀正しいって結構な違和感……。まあでも宮仕えするくらいだから、子どもっぽいのは駄目よね)
 内庭から空を見上げると、すでに星が輝き始めていた。
(私が公主様だなんて……。夢でも見ているみたい……)
 旬果は私室に入り、一人になると巾着袋を開けた。
 義父である王義史から渡された、帝室の血縁者である証の玉鈴を手に取る。
 チリン……。
 澄んだ音が、ひっそりと夜の静寂の中に響いた。
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