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第一章 はじまりの詔《みことのり》
父と母
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村に帰る頃には、日がかなり傾き始めていた。
湯浴《ゆあ》みで汚れを落とし、母の何穂《かほ》が作ってくれた料理を、家族三人で囲んだ。
父の王義史《おうぎし》は顔に深い傷を負っていた。その傷が利き目である左目を塞いだせいで、兵士を辞めたのだと言う。昔は都の将軍だったという話を、母から聞いたことがある。しかし父は、将軍時代のことを語りたがらなかった。
ただ左目以外は無事で、粗末な衣服をまとった肉体は衰えてはいない。
野良仕事をしていることもあって、肌は赤銅色に輝いていた。
旬果は、お椀を空にすると言う。
「ねえ、父さん。また稽古つけてよ」
「お前は十分強いだろ。そんなに強くなって、虎でも仕留めるつもりか?」
旬果は違うよ、と否定する。
「私、都に上がって兵士になりたいの」
突拍子のない娘の発言に、義史は噎せ返り、母の何穂はきょとんとした。
義史は眉を顰《しか》めた。
「何を馬鹿なことを。女が兵士になんて……」
「でも、私、父さんの子どもなんだから、才能はあると思うんだよね。弓の腕前だって百発百中なんだし」
何穂が、ホホホと笑う。
「あなたは、素敵な殿方を見つけることを考えなさい」
「こんな田舎じゃ、素敵な殿方なんて夢のまた夢。そういうのは考えたことなんてないし」
義史は苦笑する。
「だったら考えるんだ。女の幸せは、好きな男と世帯を持つことなんだ」
「そう言われても全然ぴんと来ないなぁ。だって都に上がって強い兵士になれば、もっと贅沢できるし、温かい着物だって……」
しかし義史は取り合わない。
「馬鹿言ってないで、ちょっとはそのお転婆を直して、針仕事でも覚えろ」
「それくらいやってるってば」
「穴が空いたのを繕うくらいだろ?」
「それで問題ないじゃない。私たちの服を縫わなきゃいけない時なんて、獲物を追いかけてる途中に、木の枝に引っかけて破れた時くらいじゃない」
「ははは! それもそうだなぁっ!」
旬果が肩をすくめると、義史たちは大笑いする。
これがいつもの王家の日々だ。貧しいけれど、家族三人笑うことを忘れない。
だから旬果も、自分の貧しい境遇を苦に思ったことはない。それでも、両親に楽をさせてあげたいという想いはある。
それも金持ち男に嫁ぐのではなく、自分の力で両親に楽をさせてあげたいのだ。
今の旬果があるのは、優れた兵士であった父の薫陶あればこそ。
旬果は小さな頃から活発で、村の子どもたちを従えて野山を駆け巡った。そんな旬果に手を焼き、少し大人しくさせようとして弓や武術の稽古などを父がつけたのだ。
疲れて眠れば少しは静かになるとでも思ったのだろうが、予想とは違い、旬果は武芸に夢中になった。今ではこの辺りの村では一、二を争う猟師だ。
「――ね、父さん。都には魁夷がたくさんいるんでしょ?」
話の方向が変わり、義史は怪訝《けげん》な顔をする。
「それがどうした?」
旬果は、街で遭遇したことを話した。
「力も強いはずなのにどうして逆らわず、されるがままにならなきゃいけないの。あんなの変だよ」
「魁夷は奴隷としてこの国に来ているんだ。知らない訳じゃないだろ?」
「まあ……」
村にある塾で、聞いた話だ。
旬果達が暮らすこの国――瑛国を五百年前に建てた高祖はこの地を荒らし、人々から財産や土地を収奪していた魁夷たちから母国を取り戻し、彼らの本拠地である涼国を多大な犠牲を出しながら従え、魁夷に支配された苦難の暗黒時代に終止符を打った。
それから毎年、何十人もの魁夷を労働力として受ける立場になり、それが今も続いている、と。
義史は言う。
「逆らえば国にいる同胞がその分虐げられ、自らも殺される。そう思えば、どんな理不尽な目に遭おうとも、じっと耐える他ないだろう」
「……それは分からなくもないけど、だからってちゃんと働いてるのに、ひどいことをされて良い訳じゃないと思うんだけど」
「だが、かつては我々の先祖が、魁夷たちにひどいめに遭っていたんだ。――下らないことを言ってないで、食事が終わったら食器を片付けろ」
「はぁい」
(やられたから、やる返すなんて……。そんなのを続けたら、憎み合うだけなのに)
青臭い考えだという自覚はあるが、そう思わずにはいられなかった。
※※※
月明かりが窓から差し込んでいる。
旬果は両親に挟まれる格好で、床についていた。
眠れなかったのだ。
魁夷を見かけるたび、もし自分が魁夷だったら?そんなことを考えることがあった。
普通なら、そんなことを考えないだろう。魁夷に生まれなくて良かった、とは思っても。
何故そんなことを考えしてしまうのか。
それは旬果に、子どもの頃の記憶がないからだ。赤ん坊の記憶がないのは普通かもしれないが、物心ついた時の記憶も定かではない。
最初の記憶は八歳から唐突に始まる。
両親と会っても、まるで初めて会った時のような感覚になった。
両親にそのことを伝えたことはない。無駄に心配させたくなかったからだ。
だから自分は本当は魁夷なのではないか、そんなことを空想することがあった。
本当にそうだったら、どうしようと思う一方、そうだったらなと思うこともある。
もし魁夷であったら、本当に兵士になって両親に楽をさせられるから。
湯浴《ゆあ》みで汚れを落とし、母の何穂《かほ》が作ってくれた料理を、家族三人で囲んだ。
父の王義史《おうぎし》は顔に深い傷を負っていた。その傷が利き目である左目を塞いだせいで、兵士を辞めたのだと言う。昔は都の将軍だったという話を、母から聞いたことがある。しかし父は、将軍時代のことを語りたがらなかった。
ただ左目以外は無事で、粗末な衣服をまとった肉体は衰えてはいない。
野良仕事をしていることもあって、肌は赤銅色に輝いていた。
旬果は、お椀を空にすると言う。
「ねえ、父さん。また稽古つけてよ」
「お前は十分強いだろ。そんなに強くなって、虎でも仕留めるつもりか?」
旬果は違うよ、と否定する。
「私、都に上がって兵士になりたいの」
突拍子のない娘の発言に、義史は噎せ返り、母の何穂はきょとんとした。
義史は眉を顰《しか》めた。
「何を馬鹿なことを。女が兵士になんて……」
「でも、私、父さんの子どもなんだから、才能はあると思うんだよね。弓の腕前だって百発百中なんだし」
何穂が、ホホホと笑う。
「あなたは、素敵な殿方を見つけることを考えなさい」
「こんな田舎じゃ、素敵な殿方なんて夢のまた夢。そういうのは考えたことなんてないし」
義史は苦笑する。
「だったら考えるんだ。女の幸せは、好きな男と世帯を持つことなんだ」
「そう言われても全然ぴんと来ないなぁ。だって都に上がって強い兵士になれば、もっと贅沢できるし、温かい着物だって……」
しかし義史は取り合わない。
「馬鹿言ってないで、ちょっとはそのお転婆を直して、針仕事でも覚えろ」
「それくらいやってるってば」
「穴が空いたのを繕うくらいだろ?」
「それで問題ないじゃない。私たちの服を縫わなきゃいけない時なんて、獲物を追いかけてる途中に、木の枝に引っかけて破れた時くらいじゃない」
「ははは! それもそうだなぁっ!」
旬果が肩をすくめると、義史たちは大笑いする。
これがいつもの王家の日々だ。貧しいけれど、家族三人笑うことを忘れない。
だから旬果も、自分の貧しい境遇を苦に思ったことはない。それでも、両親に楽をさせてあげたいという想いはある。
それも金持ち男に嫁ぐのではなく、自分の力で両親に楽をさせてあげたいのだ。
今の旬果があるのは、優れた兵士であった父の薫陶あればこそ。
旬果は小さな頃から活発で、村の子どもたちを従えて野山を駆け巡った。そんな旬果に手を焼き、少し大人しくさせようとして弓や武術の稽古などを父がつけたのだ。
疲れて眠れば少しは静かになるとでも思ったのだろうが、予想とは違い、旬果は武芸に夢中になった。今ではこの辺りの村では一、二を争う猟師だ。
「――ね、父さん。都には魁夷がたくさんいるんでしょ?」
話の方向が変わり、義史は怪訝《けげん》な顔をする。
「それがどうした?」
旬果は、街で遭遇したことを話した。
「力も強いはずなのにどうして逆らわず、されるがままにならなきゃいけないの。あんなの変だよ」
「魁夷は奴隷としてこの国に来ているんだ。知らない訳じゃないだろ?」
「まあ……」
村にある塾で、聞いた話だ。
旬果達が暮らすこの国――瑛国を五百年前に建てた高祖はこの地を荒らし、人々から財産や土地を収奪していた魁夷たちから母国を取り戻し、彼らの本拠地である涼国を多大な犠牲を出しながら従え、魁夷に支配された苦難の暗黒時代に終止符を打った。
それから毎年、何十人もの魁夷を労働力として受ける立場になり、それが今も続いている、と。
義史は言う。
「逆らえば国にいる同胞がその分虐げられ、自らも殺される。そう思えば、どんな理不尽な目に遭おうとも、じっと耐える他ないだろう」
「……それは分からなくもないけど、だからってちゃんと働いてるのに、ひどいことをされて良い訳じゃないと思うんだけど」
「だが、かつては我々の先祖が、魁夷たちにひどいめに遭っていたんだ。――下らないことを言ってないで、食事が終わったら食器を片付けろ」
「はぁい」
(やられたから、やる返すなんて……。そんなのを続けたら、憎み合うだけなのに)
青臭い考えだという自覚はあるが、そう思わずにはいられなかった。
※※※
月明かりが窓から差し込んでいる。
旬果は両親に挟まれる格好で、床についていた。
眠れなかったのだ。
魁夷を見かけるたび、もし自分が魁夷だったら?そんなことを考えることがあった。
普通なら、そんなことを考えないだろう。魁夷に生まれなくて良かった、とは思っても。
何故そんなことを考えしてしまうのか。
それは旬果に、子どもの頃の記憶がないからだ。赤ん坊の記憶がないのは普通かもしれないが、物心ついた時の記憶も定かではない。
最初の記憶は八歳から唐突に始まる。
両親と会っても、まるで初めて会った時のような感覚になった。
両親にそのことを伝えたことはない。無駄に心配させたくなかったからだ。
だから自分は本当は魁夷なのではないか、そんなことを空想することがあった。
本当にそうだったら、どうしようと思う一方、そうだったらなと思うこともある。
もし魁夷であったら、本当に兵士になって両親に楽をさせられるから。
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