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第五章(6)

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 翌日、彰は目を覚ます。目を閉じたまま腕を伸ばして、そこにいるだろう由季を感じようとしたのだが、腕は空振った。ただシーツには温もりが残る。
 目を開けると、由季はいなかった。時刻は午前六時。欠伸を噛み殺しながらベッドから抜け出す。
 今日はいよいよ、由季の父親と会う日だ。
 寝室を出ると、驚いた。キッチンで由季が動き回っていたのだ。

「あ、おはよう」

 リビングダイニングには甘い香りが漂う。

「もうすぐ朝ご飯できるから」
「そんなことしなくても良いんだぞ……」
「遠慮しないで。フレンチトーストにしてみたんだけど、どう? もし嫌だったら普通のトーストも用意するけど」
「いや、フレンチトースト最高」
「良かった」

 食卓にフレンチトーストにサラダ、コンソメスープが並べられていく。いつもは前日に購入したパンを朝食にするから、その彩りの豊かさが嬉しい。
 由季が向かいの席につくと、いただきます、と手を合わせて食べる。

「どう?」
「うまいっ」
「良かったぁ」
「心配することないだろ。前作ってくれた肉じゃがもうまかったし」
「でも感想を聞くまではドキドキなんだから。今日は出勤するんでしょ」
「ああ。だから好きなように過ごしてくれ。ここにはプールやジムもあるから」
「ありがとう。今日は何時くらいに戻る? もし取引先との会食もなければ、夕飯を作るけど」
「頼む。それから、今日はお前の父親と話を付けてくるから」

 言うべきかどうか迷ったが、由季は当事者だ。事前に知る権利がある。もちろん、これから彰が何をするか話すつもりはないが。

「私も一緒に……」
「駄目だ。俺にとって由季は弱みそのものだ。お前がいたら冷静に交渉ができなくなるだろうし、向こうは向こうでお前を刺激してさらなる要求を突きつけてくることも考えられる。だから……」

 由季は俯き、押し黙った。きっと全てを彰に任せてしまうことへ自責の念を感じているのだろう。

「お前が罪悪感を抱くことなんて何もないんだ。適材適所だ」
「……たしかに交渉は彰のほうが得意よね。でもあの男をどうやって納得させるの? お金を渡したらそれこそ、あとあとまでたかってくるだろうし」
「ちゃんと考えがあるから大丈夫だ」

 彰がすることを知ったら、いくらあの父親のことを忌み嫌っている由季も嫌悪感を覚えてしまうかもしれない。だから教えられない。相手は頭のイかれた異常者だ。異常者は常識的な手口、合法的な手段では黙らせられない。

「とにかく帰るのは八時か、九時か、それくらいだから」
「……分かった」
「笑ってくれよ。沈んだ顔がみたくて話したんじゃない」
「そ、そうだね」

 由季は微笑を浮かべ、食事を再開する。
 食事を終えると顔を洗い、歯を磨き、スーツに着替えて身支度を調える。

「じゃあ、行ってくる」

 洗い物をしている由季に声をかけて玄関に向かうと、スリッパの音がついてくる。

「? どうかしたか?」
「お、お見送りを……」

 何気ない一言だったんだろうが、彰からすれば動揺するには十分すぎた。

「マジか」
「な、なによ、その反応」
「……今日も会社を休みたくなった。このまま抱きたい」
「ちょっとそれは……」
「分かってる。だから、ハグで我慢するよ」

 彰が腕を広げると、由季が身を預けるように抱きついてくる。
 腕の中にすっぽりとおさまる小さな体を壊さないよう、包み込むように抱きしめた。

「……キスじゃなくて良いの?」

 由季の声に鼓膜が震え、ゾクゾクした。

「キスは、駄目だ。今したら、押し倒す自信がある」
「なんの自信よ……って、いつまでこのままなの? 遅刻したんじゃ意味ないじゃない」

 由季が苦笑する。でもそれくらい彰は離れがたさを感じていた。
 しかし本当にいつまでもぐずぐずはしていられない。

「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」

 行ってきます。いってらっしゃい。そんな普通の挨拶を交わせる世界を守るため、彰は力強く歩き出した。



 運転席にいた彰は腕時計で時間を確認する。午後七時十分前。
 指定された公園を確認する。
 外灯の下には中年太りの男がいる。男はしきりにキョロキョロと辺りを見回す。

 ――間違いない。あいつだな。

 友哉からは、由季の父親、和彦の顔写真も手に入れている。もちろん入手した写真はまだ社長だった頃のバイタリティのある時のもの。
 今公園にいる男はくたびれはて、険しい顔つきで、常に眉間にシワを作っている。
 彰は一時間くらい前からここで待機していたから怪しまれることはない。

 和彦がケータイを耳に当てる。しかしいつまでも出ないことに貧乏揺すりが止まらない。
 プリペイドケータイはすでに処分してある。
 やがて、グレイのバンが公園の出入り口を塞ぐように停まる。
 その様子を彰はスマホで撮影する。
 バンから男たちが現れる。
 和彦の悲鳴。そして男たちの怒声。
 和彦が男たちに掴まれ、バンへと引きずりこまれていく。
 さすがは本職の連中。動きに無駄がなかった。十秒にも満たない。
 バンはすぐに走り出し、住宅街の暗がりへ消えていく。
 連中に和彦の居場所を密告したのは、彰だ。この場所や、おそらく連中に隠しているだろう海外口座の存在も教えた。

 ――これで片付いたな。

 本当は和彦を自分の手で始末しようとも考えたが、罪で汚れた手で由季を抱くわけにはいかないと思い直し、今回のやり方に変えたのだ。
 もうこれで由季の人生を邪魔するものは存在しない。
 彰は『今から帰る』と由季にメッセージを送ると、車を出した。
 途中、駅前で花とケーキを購入し、マンションに戻る。

「ただいま……って、びっくりした……」

 由季は玄関前に正座をしていたのだ。

「な、何してるんだよ」

 花とケーキを脇へ置くと、由季を立ち上がらせた。

「あの男になにもされたなかった!?」

 必死に訴える由季を、彰は抱きしめる。背中を何度も優しくさすった。

「もう大丈夫だ。ぜんぶ解決したから」
「私を安心させるために……」
「そんなわけないだろ。な? 俺も何もされてない」

 彰は微笑み、まるで手品師が種も仕掛けもないことを証明するみたいに両腕を上げてみせた。

「……良かった」

 由季の全身から力が抜ける。
 ここで彰が帰宅するのを待つ間、きっと色々な想像をしていたのだろう。
 どれだけあの男は、由季の心身を疲弊させてきたのか。

「今日の夕飯は?」
「ロールキャベツ」
「最高だな」

 彰は由季の腰を抱き、リビングへ歩き出した。
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