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第五章(3)
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由季が目を開けると体に少しの重みを感じた。
ぼやけた視界が焦点を結ぶと、鼓動が跳ねる。すぐそこに彰の寝顔があったのだ。
――彰……。
胸が温かくなり、嬉しさで目元が熱くなった。
――まるで私の心を読んでくれたみたい……。
心が擦り切れそうになった時、彰にそばにいて欲しいと思った。でも忙しい彼を、自分の事情で呼びつけることなんてできるはずもない。
顔を寄せると、香水にまじり、彰の匂いがした。ささくれた心が撫でつけられ、彼の無防備な寝顔から目が離せない。
前髪が目にかかって邪魔そうだった。由季は指先でそっと前髪をどかしてやる。
と、彰の瞼が震えたかと思えば、目を開ける。
「あ、ごめん。起こしちゃった……」
「……平気だ」
彰は気怠げな声を漏らした。
「今、何時……?」
「深夜の三時」
「そっか。気分は、良さそうだな。さっきより血色が良い」
彰の大きな手が、由季の手を握っていることに気付く。ずっと手を握ってくれていたのだろう。手の平がうっすら汗ばんでいた。
彰を離そうとするが、由季は手を握り、引き留めた。
「お願い、このままで……」
分かったと返事をする代わりに、包み込む手に力がこもった。
今なら何でも話せそうな気がした。
「私……家を出ようとしたの」
「引っ越しってわけじゃないよな」
「……父親に、私がここに住んでるってばれたから……」
「オヤジさんに?」
「荷物をまとめて逃げなきゃって。でも、彰の顔が浮かんで、できなくって……、また、あなたに一言も告げずにいなくなるなんて嫌だって。それでどうしたら良いのか分からなくなってるうちに、気分が悪くなって」
「もしかして、あの封筒か? 中身を見ても?」
由季が頷くと、彰は片手はしっかりと繋いだまま、封筒の中身をテーブルに出す。封筒とケータイが出てくる。
【由季、ようやく見つけたぞ。あの女はともかく、お前までどうしてパパから逃げるんだ? パパは今、すごく困ってるんだ。でもお前とならやり直せる。もう逃げるなよ。今度逃げられたら、パパは次は何をするか分からないからな。携帯を同封するから、連絡があったらすぐに出なさい】
「なんだよ、これ……」
普段聞いたことがないほど、低く感情のない声で彰は呟くと、封筒を便箋ごと片手で器用に丸めると、ゴミ箱に捨てる。
しかし由季を見つめる眼差しは変わらず和やかで、優しい。
「卒業間近で突然学校をやめたのも、もしかして……こいつのせいか?」
由季は頷いた。
※
由季の父は地元では神奈川では有名な土建屋の創業者だ。
典型的なワンマンで、自分が常に一番でなければ気が済まない人間。
家庭でもそうだった。まるで王様で、口答えはたとえ子どもであっても許されず、ためらうことなく暴力を振るった。
母はかばってくれたし、絶対に逆らってはいけないと由季に言い聞かせた。
理不尽な怒りをぶつけられても母はただ謝っていた。自分に非がないことでも。
それでも父は普段は基本的に優しかったし、従順であれば、家庭は平穏だった。
いつしか由季は自分の本心を隠し、表面上は平静を装う術に長けるようになった。
由季が影が薄く、大人しく、目立たない性格になったのは、幼少期からの父に対する生存戦略だったのだ。
自分の身を、ひいては母親の身を守るための。
でもそんな風に本心を隠し従順に振る舞っていても、父への嫌悪を隠せない時があった。 それは平気で人の悪口を言うこと。
食卓で会社の出来事を話す時、父親はいつだって誰かを侮辱し、悪し様に馬鹿にした。
高卒からの叩き上げから会社を興した父親は大卒へのコンプレックスからか、より一層、馬鹿にし、嘲っていた。
あいつは××大を出ているくせに要領が悪い、あいつは大学院まで出ておいて何にもできない無能だ、と。
そんな誰かを侮辱する話なんて聞きたくなかったけど、途中で止めたり、たしなめたりすれば、どんな目に遭うかは痛いほど分かっていた。
母と由季に許されるのは追従の言葉と愛想笑いだけ。
少しでも侮辱される相手への同情とも取られかねない言動をすれば、平穏な食卓はたちまち制裁の場になった。
誰かをボロ雑巾のように利用し、使い捨てにする。
由季はそれに何の罪悪感を抱かない父に吐き気にも似た気持ちをもよおした。
さらに、父への嫌悪をさらに高める出来事もあった。
高校一年の時。学校帰りの由季は自宅の前でスーツ姿の男性が立っている場面に、遭遇したことがあった。
自宅まえにいる挙動不審の男性を前にして、由季が踵を返そうとした時、呼び止めれた。
逃げ出したくなるくらい怖かったけど、その男性は顔が青白く目が虚ろで正気には見えなかった。下手に逃げれば酷い目に遭わされるかもしれないと、由季は相手を刺激しないように振り返った。
『ここのお子さん、ですか?』
『……そうですけど』
瞬間、胸ぐらを掴まれ、耳元でやかましく叫ばれた。
『お前の父親は最低だ! 俺を利用するだけ利用して俺の持っている技術を盗んでいった! 訴えようとしたら、お前の父親は俺に横領の濡れ衣を着せて解雇したんだ……!!』
近所の人が通報してその場は逃れることができた。
その話を聞いた父は怒り、『あいつの言葉はぜんぶ嘘だ! 自分の無能を棚にあげておいて……』と食卓で激昂していた。でも由季には嘘には思えなかった。
この父ならそんなことをやりかねない、いや、やるだろうという妙な確信があった。
一分一秒でも同じ空気を吸いたくないと思いながら、我慢できたのは母がいてくれたからだ。綺麗で、優しい自慢の母。でもあの日、由季の運命を狂わせる出来事が起こった。
模試の結果でA判定がでて、その日は気持ち良く帰宅できた。
しかし家の前まで来た時、由季が聞いたのは会社にいるはずの父の怒声と何かが割れたり、倒れたりするようなやかましい音。
慌てて家に入ると、リビングで母が頭を押さえてうずくまっていた。
こめかみからは小量だったが、血が流れていた。
母を見下ろす父親は鬼のように顔を真っ赤にし、眦をつりあげ、これまで見たことがないくらい怖ろしい表情をしていた。
『お母さん!』
『由季、その女から離れろ! そいつは食わしてもらってる分際で俺に逆らったんだ!』
『警察を呼ぶから!』
『やめろ、この野郎!』
ためらいなく殴られ、スマホを奪われた。父は奪ったスマホを壁に叩きつけ壊した。
『いいか、警察なんかに連絡してみろ! お前ら、二人とも殺してやるからな!!』
父は威嚇するようにリビングの椅子を、由季たちのそばに放り投げると、家を出て行った。母を病院に連れていこうとしたが、騒ぎになることを怖れ、母は拒否した。
仕方なく薬局で包帯や消毒液を購入し、それで治療を済まさざるをえなかった。
不幸中の幸いで出血量に比べて傷は小さかった。
『お母さん、一体なにがったの?』
お母さんが悪いのと繰り返す母に、由季はしつこく聞いた。あの父親が一度だってまともな理由で怒ったことなどないのを知っていたから。
『……お父さんが浮気してるみたいなの。だから、連絡をして問いただしたの……』
『どうしてそんなことしたの!』
『どんなにどうしようもない人でも……好きな人だから、かな。本当に馬鹿なことをしたと思ってる……。でもまさか家にまで戻ってくるなんて……』
『逃げよう』
『何を言ってるの!?』
『これ以上なにかあったら、殺されるよ!? 分かってる!?』
『駄目。由季はもう卒業よ。それに大学だって……』
『あいつのお金で大学なんて入ったら、少なくとも四年はあいつの言うことに従わなきゃいけないんだよ!? 耐えられる!?』
『あなたのためだったら……』
『大学だったら奨学金でもなんでも取ればいける。国公立にすれば必要なお金も減るし』
『でも逃げたと知れたら……』
『準備をすれば良い。あいつに悟らせないように従順なふりをして。あいつに見つからないように、知り合いや親戚、おじいちゃんとおばあちゃんにも一切知られないように』
迷うそぶりを見せる母に、由季ははじめて苛立ちを覚えてしまった。
一つ間違っていれば殺されてもおかしくないほどの目に遭っているにもかかわらず、まだ愛している、とかいう理由で行動するのをためらうのか。
『お母さん、いい加減に目を――』
『……彰君はどうするの』
『そ、そんなことを言ってる場合!? 今はそれどころじゃないでしょ! 彰のことは私の問題! お母さんは自分の問題だけに集中してっ!』
動揺した由季は一気にそうまくしたて、母に家を出ることを承諾させた。
部屋に戻り、いつもの習慣でスマホをチェックしようとして、今し方父親にスマホを壊されたことを思い出した。母と逃げるということは当然、彰とも縁を切らなければいけない。まだ付き合い始めてから半年にも満たない、けれど、最良の日々。
どうするべきかは分かっていた。
彰に絶対に迷惑はかけられない。彰と付き合っていることを父親は知らない。
だったらこのまま関係を終わらせるべきだ。
あの父親のことだ。彰との関係に気づけば、彼の家に押しかけて迷惑をかけかねない。 それだけはあってはいけない。
別れたくないと思う自分がいた。
母と彰を天秤になんてかけられない。どっちも由季にとっては大切でかけがえのない人だから。
その日は苦しくて辛くて、ほとんど眠ることもできず、朝を迎えた。
睡眠不足のせいで鈍く痛む頭をおさえながら一階へ下りていけば、スーツ姿の父親が食卓についていた。昨日のことなど忘れてしまったような、いつもと同じく繰り返される平穏な朝がそこにあることに、虫唾が走った。
父親にとって昨日のことなど何ら特別なことではない、日常の延長線上に過ぎないのだ。
父親は当然のように「おはよう」と笑顔を向け、味噌汁のおかわりを母親へ頼んでいた。その光景に胃のむかつきを押さえられず、トイレで吐いた。
おぞましいという言葉は、こういう時のためにあるんだと涙を流しながら思った。
あの男は化け物だ。こんな男と暮らすことはありえない。
朝食はいらないと逃げるように家を出て学校へ向かった。
その時にはもう彰と別れることに迷いはなかった。母と自分を守るために……。
疲労困憊のまま教室に入ると、「よっ」といつもの無邪気な笑顔で彰が声をかけてきた。 それから探るような目つきで見られた。
『大丈夫か? 顔色、悪いぞ。メッセも見てないし。いや、別に大したもんを送ったわけじゃないんだけど。風邪か?』
その優しさが嬉しくて、他のクラスメートが見ていることなんて関係なく、彼の胸に飛び込んで何もかもぶちまけ、泣きたくなった。
『ごめん……。ケータイ、壊れたの。夜だったから修理にも出せなくって』
どうにかそう声をしぼりだした。
『そっか。あ、面白い動画を見たんだけどさ』
別れることを考えれば会話を遮るべきだった。でもこれが彰とまともに話せる最後のチャンスだと思ったら、何もできなかった。むしろこの他愛のない会話をこれからの支えにしようと、いつも以上に由季は興味津々に彼の言葉を聞いていたと思う。
そしてその日の放課後、彰に別れを切り出した。
幸せな時間をこれからも築いていきたかった。
たとえいずれ二人の関係が壊れる時がきたても、そこにはちゃんと段階が欲しかった。
別れてもこれからも良い友だちのままでいたかった。でもそんなことはこれからの自分には許されない。
由季は身勝手に一方的に別れを切り出し、走り去った。『どうして』と聞かれたくなかった。別れたい理由なんて存在しないんだから。一緒にいたい理由しかなかったんだから。
『待てよ、由季! どうして突然……俺が気に障ることをしたんだったら謝る。悪いところがあるんだったら直すよ。だから……』
彰は慌てたように追いかけ、前に立ち塞がった。
『ち、違うの。彰は悪くない』
『だったらどうして突然別れるなんて……』
彰の傷ついた顔が忘れられない。
『本当にごめんなさい……!』
振り切るように懸けだした。彰の足音は聞こえてはこなかった。
走っているうちに胸が見えない手で絞られるように苦しくなり、目頭が痛くなって勝手に涙が溢れ、こらえきれずに校舎裏でうずくまるようにして泣いた。
ハンカチをくわえて声が漏れないように必死に押し殺した。
なんて身勝手なんだろう。泣きたいのは何の前触れもなく別れを切りだされた彰のほうであるはずなのに。それでも嗚咽をとめられなかった。
ひどい顔で帰宅すると母は全てを察し、『ごめんね、ごめんね……』と由季に縋るようにして泣きだした。
『大丈夫。私なら平気だよ……』
由季は母を慰め、今後についての計画を練っていこうと話し合った。
学校では由季と彰が別れたという噂が広まっていた。
彰が吹聴するはずもないから、きっとクラスでの由季たちのよそよそしい態度を見て、察したのだろう。一部の女子からはざまあみろと言わんばかりに悪し様に言われることもあったが、気にもならなかった。別れたことに関するでたらめな噂はいくつかあったけど、どれも由季に非があり、彰は被害者という内容だったことに安堵を覚えた。
これで彰に非があったという噂が流れていたら、さらに自己嫌悪は深まっていただろう。
でもその噂自体も飽きられたのか、そのうち誰も口にしなくなった。
辛かったのは彰を見る時だった。同じクラスにいる以上、どうしたって完全に避けられはしない。事故のように目が合うと、彼は傷ついたような顔をして、顔を背けた。
彰を傷つけたくせに、彼の顔を見てさらに傷つく自分の身勝手さに呆れた。
準備を着々と済ませ、冬休みのある日、由季は母と一緒に父親の元から逃げ出した。
見知らぬ土地で母子二人で生活を立て直しつつ、奨学金で大学へ進んだ。
ぼやけた視界が焦点を結ぶと、鼓動が跳ねる。すぐそこに彰の寝顔があったのだ。
――彰……。
胸が温かくなり、嬉しさで目元が熱くなった。
――まるで私の心を読んでくれたみたい……。
心が擦り切れそうになった時、彰にそばにいて欲しいと思った。でも忙しい彼を、自分の事情で呼びつけることなんてできるはずもない。
顔を寄せると、香水にまじり、彰の匂いがした。ささくれた心が撫でつけられ、彼の無防備な寝顔から目が離せない。
前髪が目にかかって邪魔そうだった。由季は指先でそっと前髪をどかしてやる。
と、彰の瞼が震えたかと思えば、目を開ける。
「あ、ごめん。起こしちゃった……」
「……平気だ」
彰は気怠げな声を漏らした。
「今、何時……?」
「深夜の三時」
「そっか。気分は、良さそうだな。さっきより血色が良い」
彰の大きな手が、由季の手を握っていることに気付く。ずっと手を握ってくれていたのだろう。手の平がうっすら汗ばんでいた。
彰を離そうとするが、由季は手を握り、引き留めた。
「お願い、このままで……」
分かったと返事をする代わりに、包み込む手に力がこもった。
今なら何でも話せそうな気がした。
「私……家を出ようとしたの」
「引っ越しってわけじゃないよな」
「……父親に、私がここに住んでるってばれたから……」
「オヤジさんに?」
「荷物をまとめて逃げなきゃって。でも、彰の顔が浮かんで、できなくって……、また、あなたに一言も告げずにいなくなるなんて嫌だって。それでどうしたら良いのか分からなくなってるうちに、気分が悪くなって」
「もしかして、あの封筒か? 中身を見ても?」
由季が頷くと、彰は片手はしっかりと繋いだまま、封筒の中身をテーブルに出す。封筒とケータイが出てくる。
【由季、ようやく見つけたぞ。あの女はともかく、お前までどうしてパパから逃げるんだ? パパは今、すごく困ってるんだ。でもお前とならやり直せる。もう逃げるなよ。今度逃げられたら、パパは次は何をするか分からないからな。携帯を同封するから、連絡があったらすぐに出なさい】
「なんだよ、これ……」
普段聞いたことがないほど、低く感情のない声で彰は呟くと、封筒を便箋ごと片手で器用に丸めると、ゴミ箱に捨てる。
しかし由季を見つめる眼差しは変わらず和やかで、優しい。
「卒業間近で突然学校をやめたのも、もしかして……こいつのせいか?」
由季は頷いた。
※
由季の父は地元では神奈川では有名な土建屋の創業者だ。
典型的なワンマンで、自分が常に一番でなければ気が済まない人間。
家庭でもそうだった。まるで王様で、口答えはたとえ子どもであっても許されず、ためらうことなく暴力を振るった。
母はかばってくれたし、絶対に逆らってはいけないと由季に言い聞かせた。
理不尽な怒りをぶつけられても母はただ謝っていた。自分に非がないことでも。
それでも父は普段は基本的に優しかったし、従順であれば、家庭は平穏だった。
いつしか由季は自分の本心を隠し、表面上は平静を装う術に長けるようになった。
由季が影が薄く、大人しく、目立たない性格になったのは、幼少期からの父に対する生存戦略だったのだ。
自分の身を、ひいては母親の身を守るための。
でもそんな風に本心を隠し従順に振る舞っていても、父への嫌悪を隠せない時があった。 それは平気で人の悪口を言うこと。
食卓で会社の出来事を話す時、父親はいつだって誰かを侮辱し、悪し様に馬鹿にした。
高卒からの叩き上げから会社を興した父親は大卒へのコンプレックスからか、より一層、馬鹿にし、嘲っていた。
あいつは××大を出ているくせに要領が悪い、あいつは大学院まで出ておいて何にもできない無能だ、と。
そんな誰かを侮辱する話なんて聞きたくなかったけど、途中で止めたり、たしなめたりすれば、どんな目に遭うかは痛いほど分かっていた。
母と由季に許されるのは追従の言葉と愛想笑いだけ。
少しでも侮辱される相手への同情とも取られかねない言動をすれば、平穏な食卓はたちまち制裁の場になった。
誰かをボロ雑巾のように利用し、使い捨てにする。
由季はそれに何の罪悪感を抱かない父に吐き気にも似た気持ちをもよおした。
さらに、父への嫌悪をさらに高める出来事もあった。
高校一年の時。学校帰りの由季は自宅の前でスーツ姿の男性が立っている場面に、遭遇したことがあった。
自宅まえにいる挙動不審の男性を前にして、由季が踵を返そうとした時、呼び止めれた。
逃げ出したくなるくらい怖かったけど、その男性は顔が青白く目が虚ろで正気には見えなかった。下手に逃げれば酷い目に遭わされるかもしれないと、由季は相手を刺激しないように振り返った。
『ここのお子さん、ですか?』
『……そうですけど』
瞬間、胸ぐらを掴まれ、耳元でやかましく叫ばれた。
『お前の父親は最低だ! 俺を利用するだけ利用して俺の持っている技術を盗んでいった! 訴えようとしたら、お前の父親は俺に横領の濡れ衣を着せて解雇したんだ……!!』
近所の人が通報してその場は逃れることができた。
その話を聞いた父は怒り、『あいつの言葉はぜんぶ嘘だ! 自分の無能を棚にあげておいて……』と食卓で激昂していた。でも由季には嘘には思えなかった。
この父ならそんなことをやりかねない、いや、やるだろうという妙な確信があった。
一分一秒でも同じ空気を吸いたくないと思いながら、我慢できたのは母がいてくれたからだ。綺麗で、優しい自慢の母。でもあの日、由季の運命を狂わせる出来事が起こった。
模試の結果でA判定がでて、その日は気持ち良く帰宅できた。
しかし家の前まで来た時、由季が聞いたのは会社にいるはずの父の怒声と何かが割れたり、倒れたりするようなやかましい音。
慌てて家に入ると、リビングで母が頭を押さえてうずくまっていた。
こめかみからは小量だったが、血が流れていた。
母を見下ろす父親は鬼のように顔を真っ赤にし、眦をつりあげ、これまで見たことがないくらい怖ろしい表情をしていた。
『お母さん!』
『由季、その女から離れろ! そいつは食わしてもらってる分際で俺に逆らったんだ!』
『警察を呼ぶから!』
『やめろ、この野郎!』
ためらいなく殴られ、スマホを奪われた。父は奪ったスマホを壁に叩きつけ壊した。
『いいか、警察なんかに連絡してみろ! お前ら、二人とも殺してやるからな!!』
父は威嚇するようにリビングの椅子を、由季たちのそばに放り投げると、家を出て行った。母を病院に連れていこうとしたが、騒ぎになることを怖れ、母は拒否した。
仕方なく薬局で包帯や消毒液を購入し、それで治療を済まさざるをえなかった。
不幸中の幸いで出血量に比べて傷は小さかった。
『お母さん、一体なにがったの?』
お母さんが悪いのと繰り返す母に、由季はしつこく聞いた。あの父親が一度だってまともな理由で怒ったことなどないのを知っていたから。
『……お父さんが浮気してるみたいなの。だから、連絡をして問いただしたの……』
『どうしてそんなことしたの!』
『どんなにどうしようもない人でも……好きな人だから、かな。本当に馬鹿なことをしたと思ってる……。でもまさか家にまで戻ってくるなんて……』
『逃げよう』
『何を言ってるの!?』
『これ以上なにかあったら、殺されるよ!? 分かってる!?』
『駄目。由季はもう卒業よ。それに大学だって……』
『あいつのお金で大学なんて入ったら、少なくとも四年はあいつの言うことに従わなきゃいけないんだよ!? 耐えられる!?』
『あなたのためだったら……』
『大学だったら奨学金でもなんでも取ればいける。国公立にすれば必要なお金も減るし』
『でも逃げたと知れたら……』
『準備をすれば良い。あいつに悟らせないように従順なふりをして。あいつに見つからないように、知り合いや親戚、おじいちゃんとおばあちゃんにも一切知られないように』
迷うそぶりを見せる母に、由季ははじめて苛立ちを覚えてしまった。
一つ間違っていれば殺されてもおかしくないほどの目に遭っているにもかかわらず、まだ愛している、とかいう理由で行動するのをためらうのか。
『お母さん、いい加減に目を――』
『……彰君はどうするの』
『そ、そんなことを言ってる場合!? 今はそれどころじゃないでしょ! 彰のことは私の問題! お母さんは自分の問題だけに集中してっ!』
動揺した由季は一気にそうまくしたて、母に家を出ることを承諾させた。
部屋に戻り、いつもの習慣でスマホをチェックしようとして、今し方父親にスマホを壊されたことを思い出した。母と逃げるということは当然、彰とも縁を切らなければいけない。まだ付き合い始めてから半年にも満たない、けれど、最良の日々。
どうするべきかは分かっていた。
彰に絶対に迷惑はかけられない。彰と付き合っていることを父親は知らない。
だったらこのまま関係を終わらせるべきだ。
あの父親のことだ。彰との関係に気づけば、彼の家に押しかけて迷惑をかけかねない。 それだけはあってはいけない。
別れたくないと思う自分がいた。
母と彰を天秤になんてかけられない。どっちも由季にとっては大切でかけがえのない人だから。
その日は苦しくて辛くて、ほとんど眠ることもできず、朝を迎えた。
睡眠不足のせいで鈍く痛む頭をおさえながら一階へ下りていけば、スーツ姿の父親が食卓についていた。昨日のことなど忘れてしまったような、いつもと同じく繰り返される平穏な朝がそこにあることに、虫唾が走った。
父親にとって昨日のことなど何ら特別なことではない、日常の延長線上に過ぎないのだ。
父親は当然のように「おはよう」と笑顔を向け、味噌汁のおかわりを母親へ頼んでいた。その光景に胃のむかつきを押さえられず、トイレで吐いた。
おぞましいという言葉は、こういう時のためにあるんだと涙を流しながら思った。
あの男は化け物だ。こんな男と暮らすことはありえない。
朝食はいらないと逃げるように家を出て学校へ向かった。
その時にはもう彰と別れることに迷いはなかった。母と自分を守るために……。
疲労困憊のまま教室に入ると、「よっ」といつもの無邪気な笑顔で彰が声をかけてきた。 それから探るような目つきで見られた。
『大丈夫か? 顔色、悪いぞ。メッセも見てないし。いや、別に大したもんを送ったわけじゃないんだけど。風邪か?』
その優しさが嬉しくて、他のクラスメートが見ていることなんて関係なく、彼の胸に飛び込んで何もかもぶちまけ、泣きたくなった。
『ごめん……。ケータイ、壊れたの。夜だったから修理にも出せなくって』
どうにかそう声をしぼりだした。
『そっか。あ、面白い動画を見たんだけどさ』
別れることを考えれば会話を遮るべきだった。でもこれが彰とまともに話せる最後のチャンスだと思ったら、何もできなかった。むしろこの他愛のない会話をこれからの支えにしようと、いつも以上に由季は興味津々に彼の言葉を聞いていたと思う。
そしてその日の放課後、彰に別れを切り出した。
幸せな時間をこれからも築いていきたかった。
たとえいずれ二人の関係が壊れる時がきたても、そこにはちゃんと段階が欲しかった。
別れてもこれからも良い友だちのままでいたかった。でもそんなことはこれからの自分には許されない。
由季は身勝手に一方的に別れを切り出し、走り去った。『どうして』と聞かれたくなかった。別れたい理由なんて存在しないんだから。一緒にいたい理由しかなかったんだから。
『待てよ、由季! どうして突然……俺が気に障ることをしたんだったら謝る。悪いところがあるんだったら直すよ。だから……』
彰は慌てたように追いかけ、前に立ち塞がった。
『ち、違うの。彰は悪くない』
『だったらどうして突然別れるなんて……』
彰の傷ついた顔が忘れられない。
『本当にごめんなさい……!』
振り切るように懸けだした。彰の足音は聞こえてはこなかった。
走っているうちに胸が見えない手で絞られるように苦しくなり、目頭が痛くなって勝手に涙が溢れ、こらえきれずに校舎裏でうずくまるようにして泣いた。
ハンカチをくわえて声が漏れないように必死に押し殺した。
なんて身勝手なんだろう。泣きたいのは何の前触れもなく別れを切りだされた彰のほうであるはずなのに。それでも嗚咽をとめられなかった。
ひどい顔で帰宅すると母は全てを察し、『ごめんね、ごめんね……』と由季に縋るようにして泣きだした。
『大丈夫。私なら平気だよ……』
由季は母を慰め、今後についての計画を練っていこうと話し合った。
学校では由季と彰が別れたという噂が広まっていた。
彰が吹聴するはずもないから、きっとクラスでの由季たちのよそよそしい態度を見て、察したのだろう。一部の女子からはざまあみろと言わんばかりに悪し様に言われることもあったが、気にもならなかった。別れたことに関するでたらめな噂はいくつかあったけど、どれも由季に非があり、彰は被害者という内容だったことに安堵を覚えた。
これで彰に非があったという噂が流れていたら、さらに自己嫌悪は深まっていただろう。
でもその噂自体も飽きられたのか、そのうち誰も口にしなくなった。
辛かったのは彰を見る時だった。同じクラスにいる以上、どうしたって完全に避けられはしない。事故のように目が合うと、彼は傷ついたような顔をして、顔を背けた。
彰を傷つけたくせに、彼の顔を見てさらに傷つく自分の身勝手さに呆れた。
準備を着々と済ませ、冬休みのある日、由季は母と一緒に父親の元から逃げ出した。
見知らぬ土地で母子二人で生活を立て直しつつ、奨学金で大学へ進んだ。
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そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
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