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第五章(2)

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「ふぅー……」

 彰は新しい取引先である介護事業者との打ち合わせを終え、一息つく。
 これまでも顔認証システムと人工知能の組み合わせで徘徊防止の支援サポートなど進めているが、今回は認知機能の低下を人工知能により早期発見を行うシステムの開発に関するもの。これがうまくいけば、国の機関との連携も見込めるだろう。

 また、家庭においては認知機能が低下した人たち向けの人工知能による補助システムなどの開発も並行してすすめている。少子高齢化が叫ばれて久しい現在、高齢者の単身者も男女ともに増加傾向にある。

 家での事故で寝たきりになりかねず、引いては孤独死という問題もある。それを人工知能をハブにして、介護事業者や病院等との連携ができれば、健康寿命を延ばすことも可能になるだろう。
 ネクタイを緩めて楽になり、先方からの資料と部下がまとめてくれた議事録のデータを友哉へ送信する。

「お疲れ様です。常務」

 田村がコーヒーを運んできてくれる。会議が終わった時にいつも彰が飲む、頭をスッキリさせてくれる濃いめのコーヒーだ。

「サンキュ」

 彰はスマホを操作する。今朝からメッセージを送っているのだが、既読はついていない。
 とりあえず、『取引先との打ち合わせ終了 つかれた! 早く会いたい』というメッセージを送る。
 ここ二週間近く、メッセージのやりとりばかり。短い通話ではぜんぜん物足りない。
 由季の肌に触れたい。由季の目を見て、彼女の笑い声を聞きたい。喜ばせたい。

「彼女さんとお会いできなくて寂しいんですか?」
「……な、なんだよいきなり」

 とつぜん田村に指摘され、危うくコーヒーを吹くところだった。

「常務、最近かなり辛そうだなと思ったので」
「それは今にはじまったことじゃないだろ。どうしてそれが恋人の話につながるんだよ」
「ちょっと前までは今以上に予定が詰まっていて、毎日打ち合わせをしていても、すごく活き活きしてたじゃないですか。もちろん、今がそうじゃないとは言いませんよ。でも最近の常務、疲れたというか、寂しそうですので」

 田村は全てお見通しといわんばかり。女性というのは恋愛に敏感というが、普段はそんなことおくびにもださない田村も例外ではなかったらしい。
 誤魔化すようなことでもないので彰はあっさり認める。

「ここんところなかなか会えなくてさ。メッセージのやりとりか、短い通話くらいが関の山なんだよ……」

 それに、今日にかぎって一度も返信がないし、既読もつかない。
 それだけで不安でしょうがなくなる。これじゃあまるで束縛男だな、と我ながら呆れてしまう。

「お気持ち分かります。私も彼氏となかなか時間が合わなくって……」
「そういう時はどうしてる?」
「私だったら家に行きます」
「相手が忙しいと分かっていても?」
「断られたら大人しく帰りますけど。だって悶々としていると仕事にも影響がでて大変ですから。大人になると小利口になりすぎるんですよね、良くも悪くも。だから本能に従うべきタイミングを決めるんです。頻繁にされたらウザくて愛想を尽かされるでしょうけど、一年に何回かそういう日があっても、相手は可愛いな程度で許してくれるんで」
「じゃあ、田村さんも今夜は?」

 田村は肩をすくめる。

「うーん。寂しいは寂しいですけど、正直、今の彼氏にはそこまでするほどではないんですよね。ですから近々、別れるかもしれません」
「あ……そうなんだ」

 はい、となんてことのないように笑顔で言う田村は会議室から出て行く。

 ――なるほど、そういう考えもあるのか。

 さすがに男の彰が訪ねても可愛いとは思われないだろうが、五秒でも抱きしめることができれば、また一週間がんばれる。それに既読がついていないのが心配だ。普段は返信する時間がなくても既読はつけてくれるのに。

 ――高校時代はもっと余裕があったような気がするのにな。大人になったほうが辛抱ができなくなってるって、俺の認知能力も多少落ちてるってことか?



 午後十時。彰は退社すると、タクシーで由季の自宅へ向かった。
 シートに深く座りながらスマホをチェックする。
 再度確認してみたが、メッセージには一度も既読がついていなかった。
 念の為、二時間くらい前に『仕事忙しいか?』と送ってみたけど、やっぱり既読はなし。
 これから彼女の家に電撃訪問をするという試みに、ワクワクしているせいか、それほど気にはならなかった。

 道が空いていたこともあって二十分ほどで到着した。料金を支払い、出る。
 由季の部屋には明かりが点いていた。とりあえず在宅らしい。
 彰はエレベーターを待つのももどかしく階段を一段飛ばしで駆け上がる。
 高校時代、由季の家へはじめて行った時のことを思い出す。

 付き合って一ヶ月で、名目は受験勉強。
 彰としては本当にただの名目でどこかに遊びに行くつもり満々だったのだが、生真面目な由季はそのまま受け取ったようで結局、勉強することになった。

 それでもはじめて由季の家に行く時にはドキドキもしたし、親御さんにちゃんと挨拶ができるだろうかとそんなことばかり考えて、気持ちが決まるまで由季の自宅前で十分ほど動物園のクマよろしくウロウロしてしまったほど。
 そして意を決してチャイムを鳴らしたあとの、あのインターホンから声が聞こえるまでのちょっとした沈黙の緊張感と言ったら凄かった。

 由季の母親はテンション、社交性ともに高い由季という性格で、目元や顔立ちが姉妹のように瓜二つだった。
 将来、由季も化粧を覚えたらこうなるのかなと期待してしまうほど、綺麗な人だった。
 物腰は柔らかく、由季がはじめて彼氏を家につれて来たと大喜びで、由季のほうはといえばテンション爆上げの母親を前に、ただひたすらに恥ずかしそうだった。
 そんな淡い青春時代のことを思い出し、口元を緩ませながら、由季の部屋の前までやってくる。
 少しの緊張を覚えつつ、チャイムを鳴らす。もう一度鳴らすが、反応はない。

 ――コンビニにでも出かけているのか。それとも居留守か……。

 時間が時間だ。こんな夜更けに突然訪問者があっても扉なんてあけず、息を潜めるのが普通か。

「由季、俺だ。彰だ。いきなり来て、悪い。ただ一度顔が見たくて……」

 しかしやっぱり扉は開かない。寝ているのかもな、と残念な気持ちになりながら踵を返した。その時、背後で扉が開く。

「……あ、彰……どうして……?」
「由季!」

 彼女の目は大きく見開かれ、信じられないという表情だった。
 彰は思わず由季に駆け寄ってしまう。

「体調が悪いのか? 顔色がひどいぞ」

 由季の顔は青白くやつれ、尋常な様子ではない。
 彰は首と膝上に両手を滑り込ませると由季を抱きあげ、部屋に入った。そのまま居間に入ると、ソファーに寝かせた。

「……平気。風邪とかじゃないから」

 額に手をやるが、熱はない。生理だろうか。
 由季の目は潤み、何度かまばたきをすると、目尻にじわっと涙が滲む。

「俺がついてるから」

 由季に何があったのかは分からないが、今の由季から離れてはいけないと、本能が訴えていた。彼女の手を優しく取り、握りしめる。目の前にいる彰という存在が夢でなく現実であると、伝わるように。

「何が必要なものがあれば買ってくる」
「……大丈夫。でも、どうして来たの?」
「お前をびっくりさせたくて。あと、最近ちゃんと顔も見られなかったから、試しに来てみたんだ。迷惑だったら帰ろうと思って」
「ごめんなさい。こんな、私……」

 心が不安定になっているのか、由季は涙をこぼして、子どものように泣きじゃくって、言葉が言葉にならなかった。

「謝るなよ。人間、誰にだって調子が悪い時はあるんだから」
「ごめんなさい……」
「分かった。分かったから、謝るな」
「私……本当に、あなたのことを……でも、どうしたら良いのか分からなくって……」

 由季は何が言いたいのか要領をえなかった。相当混乱しているらしい。
 思いつくことは、熱海のあの一件のこと以外にない。
 車中で、由季はどうにか説明してくれようとしたが、彰は遮った。
 気にならないと言えば嘘になるが、過去にこだわらないというのは本音だ。無理をして聞きたくもない。大切なのは現在だ。

 だが今回のことと、それを結びつけるのは時期尚早のように思えた。
 第一あれから何週間も経っている。その間、由季はメッセージに返信してくれたし、短い通話のあいだの受け答えも普段と変わりなかった。
 だから、こんなにも彼女を取り乱させている原因は他にある。
 そして今日、一度もメッセージに既読がつかなかった。

 ――昨日か今日くらいに何かあったんだな。

 と、部屋の片隅にキャリーケースが置かれていることに気付く。そのそばには服が何着か詰められないまま、放置されている。
 仕事の関係で出かけるのかとも思ったが、几帳面な彼女にしては下着や服が外に置きっぱなしなのが気になった。
 由季の今の状態を考えれば荷物を詰める準備をしていたようにはとても思えない。
 由季は、彰が訪ねてくるまでソファーに横になっていたのだ。
 それにテーブルの上には預金通帳や印鑑。
 さすがに通帳まで持ち出すのはおかしい。思い当たることは――。

「……もしかして家を出ようとしたのか?」

 由季の目が大きく見開かれ、それから「ごめんなさい……」とかすれた声を発した。
 まるで親に怒られるのを怖れる子どものように目を伏せる。

「大丈夫だ」

 彰は彼女が体にかけていたであろうタオルケットを肩まで引っ張り上げると、由季の手を握り締め、彼女が眠るまで柔らかな髪をなで続けた。
 そして彼女が小さな寝息をたてはじめたことに、ほっと胸を撫で下ろす。
 業務につかっているメッセージツールで明日、会社を休むことを送ると、テーブルを眺める。

 そこには宛先の書かれていない白い封筒が置かれていた。それは一度クシャクシャに丸めたものを引き延ばしたように、皺くちゃだった。
 気にはなったが、今なにより優先するべきことは由季のことだと頭を切り替える。
 念の為、救急病院を検索した。
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