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第四章(2)

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「――よしっ」

 由季は朝から気合いを入れて、ジャケットにブラウス、ロングスカート姿で姿見の前に立つ。
 今日は、彰への取材の日。
 ここのところ恋人として彰と一緒にいることが多かったせいで、忘れがちではあるが、彼は大切な取材対象。とても重要な。

 今回ばかりは公私の別はきっちり分けて臨むつもりだった。
 なにせ、今回の取材は二泊三日の予定。
 さつきからその話を聞いた時は驚いた。

『二泊三日なんて初耳なんだけど……』
『どういうことも何も、彰さんからそう聞いたんだけど?』

 もうすっかりさつきの中で彰さん呼びがすっかり定着してしまったらしい。

『そんな勝手に。私のインタビュアーのスケジュールとか……』
『別の仕事のスケジュールはちゃんと事前に教えてくれるじゃない。まさか緊急の仕事が入ったの?』
『……それはないけど』
『じゃあ、良かったじゃない。取材にかこつけて、デートしてくれば』
『で、デートって……。これは大切な仕事で。編集者として大丈夫なの?』
『由季のライターの腕には全幅の信頼をおいてるの。あとは友だちとして頑張ってきなさいっていうエール。三日間、どんな楽しい思い出を作ったか、あとでちゃんと教えてよね?』

 さつきと話し終わったあと、彰にすぐ連絡をした。

『泊まりって本当!?』
『俺と由季の間なら別にセクハラにはならないだろ? 恋人同士なんだから』
『それはそうだけど、いくらなんでも……』
『じゃなきゃ、取材を受けない』
『それは卑怯よ!』
『なんとでも。というか、これはインタビュワーに気持ち良く仕事をしてもらいたい取材対象者としての心遣いなんだけどな』
『普通は逆だから!』

 そんな流れの中で、今日を迎えた。
 彰が何を考えているのかは分からないが、

 ――そっちがその気なら、私だってしっかり仕事モードで行くから。

 まず自宅に迎えに来るのはNGを出し、彼の会社に出向くというところから始めるという、正規の手順を踏んだ。



 会社に到着して受付に用件を伝えると、すぐに彰が姿を見せた。
 彼は今日は堅苦しいスーツ姿ではなく、チノパンに白い開襟シャツという、動きやすさを考慮したようなラフな格好だった。そんな飾り気のない格好も似合う。

「よ、由季――」
「おはようございます。司馬さん」

 にこりと笑いかけた由季は、『司馬さん』という所に強いアクセントをのせた。
 彰は苦笑し、「じゃあ、行きましょうか」と由季に合わせる。
 エレベーターを下りて、外に出る。

 向かったのはそばにある地下駐車場。普段はタクシーで行き来しているらしいが、これから旅行ということで今日は車出勤したようだ。
 梅雨が明けたばかりの七月下旬。
 夏の暑さは本格的になり、直射日光が肌に刺さる季節。

「今日は暑いですね。三十五度にはなるってニュースで言ってましたよ」
「そうみたいですね。水分補給を忘れないようにしましょう」

 彰が助手席を空けてエスコートしようとしてくれるが、由季は素通りして自分の手で後部座席の扉を開けると、後ろのシートに乗り込んだ。
 彰はこれみよがしにため息をこぼすと助手席の扉を閉め、運転席に乗り込む。
 しかしなかなか出発せず、ルームミラーごしに、今まさらにシートベルトをしている最中の由季を見つめてくる。

「分かった。降参」
「何が、ですか?」
「……いつまでその仕事モードを続けるつもりなんだよ。今日はこれから楽しい楽しい二泊三日の旅行だぞ」
「仕事にかこつけて、旅行を画策しようとするからでしょ」
「画策ってひどい言い方だな。サプライズだろ。まあ、本当は海外でも良かったんだけど、さすがにスケジュールが採れなかったからな」

 彰はぶつくさ言うが、由季にはどうでも良いことだ。

「とにかく、二泊三日の間、しっかり仕事モードで対応させていただきますのでよろしくお願いします」

 由季はインタビューの時には欠かさない、ノートと、録音アプリをたちあげたスマホを膝の上に置き、ペンを握る。

「……まさかこうなるとは予想外すぎたな」

 彰はぼやきつつ、車を発進させる。

「それで、今日はどちらへ行かれるんですか?」
「熱海です。うちの会社の保養施設があるんで。自然に囲まれた良い場所で、それも温泉がついてて最高ですよ。一緒に入りませんか?」
「……セクハラですよ、司馬さんっ」

 彰は嬉しそうに微笑む。

 ――どうして嬉しそうなの?

 駄目だ、と頭を振る。そもそもこういうことを考えてしまうこと自体、彰のペースに乗せられているということに他ならない。

 ――あくまで仕事。仕事……。

 そう念じるように自分に言い聞かせる。

「熱海という立地を選ばれたのはどうしてですか?」
「もちろん東京から近い、温泉地ということもあります。でもそれだけじゃありません。高校時代、部活の合宿ではじめて熱海に行ったんです。その時にすごく過ごしやすくって。それまで熱海と言ったら、親や祖父母の世代の観光地ってイメージだったんで。島原さんもそんなイメージありませんでしたか?」
「たしかにそうでしたね」

 ――言われてみれば、熱海って地名は知ってるし、テレビのロケ地として使われてるのを観るけど、行ったことはないな。

 由季の熱海についての認識も、彰とそれほど変わらない。

「一週間くらいいたんですけど、食い物はうまいし、海と山があるのはもちろん、温泉もある。すっかり魅了されたんです。だから、保養所を建てるなら絶対熱海だって考えてて。今度の旅行で、島原さんを熱海好きにしてみせますよ」

 彰は冗談めかしてうそぶく。
 録音しながらもしっかりメモも残す。

 ――確かに彰、すごく陸上部がんばってたよね。

 一年の時にはじめて見た、彼の走る姿に思わず目を奪われたことは今でも覚えている。
 他にも陸上部員はたくさんいたにもかかわらず、真っ先に彼の姿が目に飛び込んだ。
 無駄を削ぎ落としような動きと、腕の振り方や足運び。前掲姿勢でゴールをする姿。
 運動が得意ではなかった由季だからこそ、余計にその流れるようなフォームに目を奪われたのかもしれない。
 二年の時はインターハイ出場まで成し遂げたのだから、本当にすごい。

「それで……って、島原さん?」

 はっと我に返る。

「あ、すみません。ちょっとぼうっとしてました……」
「もしかして俺の高校時代の勇姿を思い出してたとか?」
「……うん。たしかに格好良かった」

 その時、彰が少し変な声を出した。

「ど、どうしたの」
「お前が突然、素に戻るからびっくりしたんだよ」

 彰の耳が少し赤くなっていた。

 ――可愛いところもあるんだ。

 今日は比較的、道路は空いていた。
 途中サービスエリアで昼食休憩を取り、インターチェンジで真鶴道路、熱海ビーチラインと走る。

「綺麗!」

 海沿いを走ると、由季はさすがに目を輝かせ、窓の向こうの青い海が日射しを受けて白く輝く様子を食い入るように見つめた。

 水平線には入道雲が立ち上り、空と海の青さが水平線の向こうで淡く溶け、二種類の青が互いを尊重し、引き立てているかのよう。
 海をこうして見るのも正直、久しぶりだった。

「楽しんでくれて嬉しいよ、島原さん」

 彰がからかうように声をかけてくる。
 はっとした由季はコホンと咳払いをして仕事モードに戻り、何を聞くべきかとノートに目を走らせる。

「それでは、草薙友哉社長について、お聞きしてよろしいですか?」
「駄目です」
「どうしてですか?」
「あいつ、自分のことをペラペラ喋られるのを嫌うんで。聞きたいことがあれば俺から伝えます。もちろん、あいつが答えてくれるかどうかは分かりませんけど」
「司馬さん、さっきから質問になかなか答えてくれませんね」

 そんなことありませんよ、と彰は笑う。

 ――私が公私の別をつけようとすることに対してやり返してるってこと?

「今回はビジネス面じゃなくって、俺のプライベートを取材するんですよね。プライベートな質問なら喜んで」
「そ、そう言われましても……」
「たとえば、彼女のこととか」
「! そ、そんなことはさすがにサイトには載せられませんよ!」
「でも、これまでだって取材で話したことを一言一句掲載してるわけじゃないですよね?」
「ま。まあ……」
「じゃあ、これもその一環だと思ってください」
「で、でも彼女のことはあんまりにもプライベートすぎますから。プライベートの取材というのはオフの日に何をして過ごすとか、何かへのこだわりとか、新しいビジネス開拓のヒントになりそうなものであって……」
「じゃあ、この話題はぴったりですね。俺にとって彼女の存在そのものがビジネスへの強い原動力になってるんで。折角だから聞いて下さい。俺の彼女、すっごく可愛いんで」

 ルームミラーごしに見える彰は、からかうように笑みを大きくする。
 完全に、彰への対抗策を逆手に取られてしまった。

「この間、仲間の起業家が上場したんで、それを祝うパーティーに参加した時なんですけど、そのドレスが霞むくらい美人で」
「もうその辺で」
「それじゃ、出会いの話とか興味ありますか? 俺、今の彼女は高校時代の同級生なんです。それが仕事をしているうちにばったり出会って」

 ――どうしてこんなことを聞かされなきゃいけないの!?

 でもここで音を上げるのはさすがに悔しい。由季は内心の恥ずかしさを必死におさえて、あくまでインタビュワーに徹しようと決めた。

「……彼女さん、どういう方なんですか」
「そうだな。あまり教室では目立つ方ではなかったんです。そういう子、どの学校にもいるじゃないですか」
「……ですね」
「でも不思議と、目についたんです。普通、休み時間はみんな友だちと話すか、スマホをいじるかじゃないですか。その子、一人で本を読んでいたんです。電書とかじゃなくって、ハードカバーを。背筋を伸ばして、その姿勢がすごく綺麗で、妙に印象に残ったんです」

 ――み、見られてたの!?

「教室だけじゃなくって、登下校の時にたまたま同じ車両に乗り合わせた時があって、目の端でその子のこと、なんだか気になって見ちゃって。その時も周りの大人がスマホいじってる中、食い入るように本を読んでて……」

 こんな話、これまで一度も聞いたことがなかっただけに、不意打ちだった。
 彰の寝室に、由季が学生時代に大好きだったハードカバーの本が置かれていたことを思い出す。

 ――あれ、たまたまじゃなかったってこと?

「付き合いはじめてから思い返してみると、理由がよく分からないのにあそこまで目が向いたのって、当時は自覚してなかったけど、俺、一目惚れをしてたんじゃないかって思うんです。映画みたいに劇的なものじゃないけど、あとから思えば、そうだったんだって、じんわりと胸に広がるような……」

 由季は赤面する。

「島原さんも学生時代、そういう気持ちってありました?」
「わ、私は……あの……ど、どうだったかな……」
「もう、私の話は良いですから」
「じゃあ、続きを。その子とスイーツを食べに行ったことがあって……」
「彼女さんの話題はもう良いので……」

 由季は必死になって止めようとするが、彰はかなりノリノリで、無視して話を続ける。

「エッチの時なんて最初は恥ずかしそうにしてるんですけど、すごく敏感で。こっちがいじると、可愛い声をあげて蕩けてくれて……」
「司馬さん、うちはそういう雑誌ではないのでっ」
「のろけと思って聞いてください。彼女とはパーティーのあと、スイートルームに泊まってそこで」
「もう分かった。分かったから、もうそこまでにして!」

 ぜぇぜぇ、と由季は肩で大きく息をする。もう取材どころではない。

「降参か?」
「……う、うん」
「言葉と表情が全く合ってないぞ」

 悔しさが表情に出てしまっているのだろう。

「まったく、ここまでするなんて思わなかった……」
「すまん。悪ノリがすぎた」
「……ね、本を読んでた時の話だけど、本当? 口から出任せじゃなくって」
「本当」
「そんなの、今さら聞かされるなんて」
「盗み見してたって聞かされて、喜ぶ奴はいないだろ」
「確かにクラスどころか学校で一番のイケメンが、地味子をジロジロ見てたってなったら、イメージが壊れるかも」
「キモいと思ったか?」
「まさか。私だって、見てたわけだし……こういうのはお互い様、でしょ」

 実際、二年の時に、我慢できずにそれまで大して接点もなかったのに、走るフォームが綺麗だって、つい言ってしまったことがあった。その時、彰はまさか話しかけられると思ってなかったのだろう、すごくぽかんとした顔をしていた。思い返してみてもあれはどういう心理状態だったのだろう。ファンが有名人と遭遇して何かを言わずにはいられない心境に似ているだろうか。

 そうこうしているうちに、車は海岸沿いにホテルが立ち並ぶエリアを走行する。
 観光客だろう、たくさんの人たちが海岸沿いを散歩していた。
 車は海岸を離れ、山手へ上がっていく。

 熱海はびっくりするくらい坂道が多い。平坦な道は海岸線くらいだと言っても過言ではなかった。
 市街地のような雑然とした空気は影をひそめ、自然が目につくようになる。

「見えてきた。あれだ」

 見晴らしの良い高台に立てられた、クリーム色の外壁の建物を彰が指さす。
 彰は駐車場に車を止めた。
 運転席から下りた彰が後部座席を開けてくれる。

「ありがとう」

 車を降りて、一番に感じたのは日射しの強さとは裏腹な、うっすらとかいた汗が引くような清涼感。保養施設の向かいにある鬱蒼とした透明感のある竹藪も涼しさに一役買っていた。

「ここで社員の研修や来期の事業計画を発表したりしてるんだ。大会議室もあって、レクリエーションに使ったりもしてる」

 建物は檜の良い香りがした。
 二十畳近いリビングに、十畳ほどの囲炉裏の切られた和室。
 ウッドデッキからは熱海の市街地の向こうに広がる紺青の海、そして初島、その向こうに伊豆大島を臨めた。

「綺麗……」
「夏は海が良いよな。でも他にも二月あたりに来ても良いんだよな」
「二月って、雪とか?」
「桜」
「桜は季節外れでしょ」
「それが違うんだ。熱海の良いところは梅と桜が同時に見られるところだからな。熱海桜は早い時には一月にはもう咲きはじめてる」
「温泉地だから温かいっていうのも影響してるのかな」
「さあ、どうだろうな。桜は綺麗だぜ。こっちで季節外れの桜を堪能して、東京に帰ってソメイヨシノで花見をする。長めの花見が楽しめて最高なんだ」

 自然な感じで、持参したボストンバックを彰が持ってくれようとする。

「荷物くらい持てるから」
「二階も案内する」

 彰は由季の抗議を無視して二階へ上がっていく。二階は二人一部屋の個室がいくつもある。
 ベッドに、パソコンがおける十分な広さのある机、本棚、ハンガーラックなどがおかれたシンプルな室内。ただどの部屋の窓からも海が見えるような設計になっているようだ。

 三階にはレクリエーションルームや談話室があったりする。そして、明らかに二階の部屋よりも上等な個室がいくつかあった。
 大画面の液晶テレビに個室風呂、ベッドも二階のものよりも明らかにグレードが高い。

「この客間を使ってくれ」
「いいよ。私は二階のお部屋で」
「使い終わったら、どのみちクリーニングを頼むんだから、どの部屋を使ったって一緒なんだよ。だったら良い部屋を使ったほうがお得だろ?」
「……そ、そういうことなら」
「夕方まで好きにすごしてくれ。俺は一階にいるからさ」

 彰は部屋を出ていく。
 荷物を置き、着替えをクローゼットにかける。
 窓を開けると、爽やかな風が髪を優しく撫でながら過ぎていく。
 市街地の向こうの海の煌めき。
 船や、ヨットの影が見えた。海は白波ひとつたたず、優しげに凪いでいる。

 ――夜景も綺麗そう。

 東京から新幹線で一時間たらずの場所にあるとは思えない美しい風景。
 欠伸がこぼれる。
 少し休もう、と由季はベッドに横になった。糊のしっかり聞いたシーツがとても気持ち良かった。
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