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第一章 はじまりは夕闇とともに
いつもとは違う朝
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「結局、聞けなかったな……」
家へと戻ったリディアは、数時間前と同じように机に突っ伏していた。
すぐそばにランプはあるものの、火はついていない。
彼女は闇に浮かぶ自身の手を見つめながら、破ってしまった禁忌事項を指折り数えはじめる。
「日没後、家を出てはならない。夜間、人に会ってはならない。お酒を飲んではならない……お酒は飲んでないからセーフ、かな。いや、アウト、だろうなぁ」
自然とため息がこぼれ、自嘲気味に笑った。
禁を破ったらどうなるのか、それは教会の者にしかわからない。
そもそも禁忌と言われるほどの代物だ。
与えられる罰は並大抵のものではないのだろう。
玄関を見つめたリディアは、左胸に輝く巫女の証に、そっと触れた。
酒場を飛び出してから、二時間以上の時が過ぎているにも関わらず、誰かが咎めに来る気配は、ない。
恐らく黒髪の男は、リディアの素性に気づきながらも、夜間の外出を黙認したのだ。
なぜ教会に密告しないのか知る由もないが、リディアにとっては不幸中の幸いといえよう。
だが、彼女にはもう、それを喜べるほどの気力はなかった。
「祈りの巫女って、私って、いったい、何者なの……」
自身の運命を嘆きながらリディアは呟き、きつくまぶたを閉じる。
そして、重い身体を机の上に貼り付けたまま、夜は刻々と更けていった。
――・――・――・――・――・――
小鳥のさえずりとまばゆいほどの光が、寝息を立てるリディアの身体へと降り注ぐ。
いつの間にか朝を迎えており、闇で包まれていた部屋の中には強い日差しが差し込んでいた。
彼女はベッドへ向かうことなく、あのまま机の上で眠ってしまっていたのだ。
夏の太陽を浴びてもなお、リディアは目を覚まそうとしない。
結局、彼女を起こしたのは、扉を叩く硬い音だった。
「なんの音……?」
身体を起こしたリディアは、まぶしい光に目をしょぼつかせ、眠気まなこで部屋を見つめる。
起きる場所は違えど、いつもと同じ朝だ。
今日もまた、普段と変わらない一日が始まる。
彼女はそう信じて疑わなかったが、すぐにそれは間違いだと知ることとなる。
「おはようございます、ハーシェル様」
玄関から、低く穏やかな男性の声が飛び込んできたのだ。
声の主はハンス司祭だと、リディアはすぐにわかった。
彼は、彼女の心が自由を求めるたび、禁忌という鎖で縛りつけて邪魔をしてきたのだ。
「お返事がありませんが、どうしました? 巫女様、約束のお時間ですよ。お迎えにあがりました」
その言葉に、リディアの顔は一瞬にして血の気を失った。
同時に思考も停止したが、机の上に転がる、握りつぶされた手紙と金色の封筒が、現実を教えてくれた。
十八歳の誕生日である今日は、愛してもいない婚約者の元へ嫁がなければならない日だ。
祈りの巫女の使命からは決して逃れられないのだ、と。
「し、司祭様、すみません。今起きたばかりなので、着替えと支度をさせてください」
「承知いたしました。ですが、急ぎでお願いします」
扉の向こうから聞こえる声や、複数の人の気配に、ボタンをとめようとするリディアの指先が小刻みに震える。
すぐに着替えを済ませなければならないのに、指先でボタンが暴れた。
それはまるで、行きたくないという彼女の思いを表しているようにも見えた。
「巫女様。持ち物は必要ありません。貴女の夫となる方が用意してくださっていますし、着替えるだけで良いのです。わたしもお会いしましたが、夫となられるピート様は地位もあり、金銭的にも豊かですし、とても良い方ですよ」
司祭が発した『婚約者が良い方』という吉報は、リディアの心に安らぎを与える事は無い。
それどころか、彼女の顔は苦しげに歪んだ。
リディアは一年ほど前に、偶然、婚約者であるピートを、この町で見かけていたのだ。
金持ちの息子のピートはリディアより五歳ほど年上で、外見は取り立てていうこともない、ごく普通の男。だが、その心根は最悪の一言に尽きていた。
侍女や侍従を理由なく殴り、町を歩く貧しい者たちを口汚く罵った。
他人を見下すピートの瞳は濁っていて、気味が悪い――
それが、婚約者の第一印象だった。
リディアからすると、ピートは『良い方』からは遥か遠くに位置する人物だったのだ。
これから、あんな男の妻になる――
不安のあまり震える身体を、彼女は自分自身でぎゅうと強く抱きしめた。
家へと戻ったリディアは、数時間前と同じように机に突っ伏していた。
すぐそばにランプはあるものの、火はついていない。
彼女は闇に浮かぶ自身の手を見つめながら、破ってしまった禁忌事項を指折り数えはじめる。
「日没後、家を出てはならない。夜間、人に会ってはならない。お酒を飲んではならない……お酒は飲んでないからセーフ、かな。いや、アウト、だろうなぁ」
自然とため息がこぼれ、自嘲気味に笑った。
禁を破ったらどうなるのか、それは教会の者にしかわからない。
そもそも禁忌と言われるほどの代物だ。
与えられる罰は並大抵のものではないのだろう。
玄関を見つめたリディアは、左胸に輝く巫女の証に、そっと触れた。
酒場を飛び出してから、二時間以上の時が過ぎているにも関わらず、誰かが咎めに来る気配は、ない。
恐らく黒髪の男は、リディアの素性に気づきながらも、夜間の外出を黙認したのだ。
なぜ教会に密告しないのか知る由もないが、リディアにとっては不幸中の幸いといえよう。
だが、彼女にはもう、それを喜べるほどの気力はなかった。
「祈りの巫女って、私って、いったい、何者なの……」
自身の運命を嘆きながらリディアは呟き、きつくまぶたを閉じる。
そして、重い身体を机の上に貼り付けたまま、夜は刻々と更けていった。
――・――・――・――・――・――
小鳥のさえずりとまばゆいほどの光が、寝息を立てるリディアの身体へと降り注ぐ。
いつの間にか朝を迎えており、闇で包まれていた部屋の中には強い日差しが差し込んでいた。
彼女はベッドへ向かうことなく、あのまま机の上で眠ってしまっていたのだ。
夏の太陽を浴びてもなお、リディアは目を覚まそうとしない。
結局、彼女を起こしたのは、扉を叩く硬い音だった。
「なんの音……?」
身体を起こしたリディアは、まぶしい光に目をしょぼつかせ、眠気まなこで部屋を見つめる。
起きる場所は違えど、いつもと同じ朝だ。
今日もまた、普段と変わらない一日が始まる。
彼女はそう信じて疑わなかったが、すぐにそれは間違いだと知ることとなる。
「おはようございます、ハーシェル様」
玄関から、低く穏やかな男性の声が飛び込んできたのだ。
声の主はハンス司祭だと、リディアはすぐにわかった。
彼は、彼女の心が自由を求めるたび、禁忌という鎖で縛りつけて邪魔をしてきたのだ。
「お返事がありませんが、どうしました? 巫女様、約束のお時間ですよ。お迎えにあがりました」
その言葉に、リディアの顔は一瞬にして血の気を失った。
同時に思考も停止したが、机の上に転がる、握りつぶされた手紙と金色の封筒が、現実を教えてくれた。
十八歳の誕生日である今日は、愛してもいない婚約者の元へ嫁がなければならない日だ。
祈りの巫女の使命からは決して逃れられないのだ、と。
「し、司祭様、すみません。今起きたばかりなので、着替えと支度をさせてください」
「承知いたしました。ですが、急ぎでお願いします」
扉の向こうから聞こえる声や、複数の人の気配に、ボタンをとめようとするリディアの指先が小刻みに震える。
すぐに着替えを済ませなければならないのに、指先でボタンが暴れた。
それはまるで、行きたくないという彼女の思いを表しているようにも見えた。
「巫女様。持ち物は必要ありません。貴女の夫となる方が用意してくださっていますし、着替えるだけで良いのです。わたしもお会いしましたが、夫となられるピート様は地位もあり、金銭的にも豊かですし、とても良い方ですよ」
司祭が発した『婚約者が良い方』という吉報は、リディアの心に安らぎを与える事は無い。
それどころか、彼女の顔は苦しげに歪んだ。
リディアは一年ほど前に、偶然、婚約者であるピートを、この町で見かけていたのだ。
金持ちの息子のピートはリディアより五歳ほど年上で、外見は取り立てていうこともない、ごく普通の男。だが、その心根は最悪の一言に尽きていた。
侍女や侍従を理由なく殴り、町を歩く貧しい者たちを口汚く罵った。
他人を見下すピートの瞳は濁っていて、気味が悪い――
それが、婚約者の第一印象だった。
リディアからすると、ピートは『良い方』からは遥か遠くに位置する人物だったのだ。
これから、あんな男の妻になる――
不安のあまり震える身体を、彼女は自分自身でぎゅうと強く抱きしめた。
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