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第一章 はじまりは夕闇とともに

そして、未来は変わりはじめる

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 酒を盗む。
 冗談にも聞こえる台詞セリフだが、黒髪の男は苛ついた様子を見せ、ため息をついた。

「……バド、お前は気楽なもんだな。見られてるのにも気付かねぇなんてよ」

 その言葉に虚を突かれた。
 リディアの呼吸は止まり、身体も一気に強張っていく。

 距離も保っていたし、気付かれるはずはない――
 そう思いながらも、リディアの頭には一抹いちまつの不安がよぎった。

 悲しいことに不安は的中し、うつむく彼女に射抜くような視線が飛んでくる。
 途端、目の前が白くなったような錯覚に陥り、自身の心臓の音がやたらと耳につきはじめた。

 表情をつくろう暇など、与えてはもらえない。

 すぐさま彼らのいた方から椅子を動かす音がし、徐々に足音が近づいてくる。
 騒がしいフロアの中では些細な音のはずなのに、リディアにはそれがやけに大きく聞こえた。

 視界に男物のブーツの先を捉えた途端、足音は止まる。
 リディアは、ごくりとつばを飲み込んだ。


「それで、どういうつもりだ?」
 その声に、彼女は恐る恐る顔を上げた。
 それまで無人だった隣の椅子には、黒髪の男が横柄な態度で腰かけていた。
 目付き鋭く、凶悪な威圧感を発しながら、リディアのことをにらむように見つめてきている。

 あまりの恐ろしさにリディアのひたいからは、冷たい汗が流れて頬を伝う。

 石像のように固まってしまったリディア。
 見つめてくる黒髪の男もまた、同じように動かない。

 そのまま視線だけを動かした黒髪の男は、彼女の頭からつま先までを一通り見つめてきて、最後に、興味もなさそうに呟く。

「女、か。色気のないガキは呼んでねェんだが」

 悪意ある言葉を吐かれたリディアだったが、彼女の顔は歪むどころか、反対にわずかな緩みを見せる。
 そんな異様ともいえる彼女の態度は、どうやらこの男の気にさわってしまったようだ。

「その反応……気に食わねェな」
 眉を寄せた男の目つきは、さらに鋭いものへと変わった。


 普通の女ならば、色気がないなどと言われたら怒るなり、悲しむなりするだろう。
 だが、リディアは普通の女とは程遠い、祈りの巫女なのだ。
 色香をまとわないように、と教会から義務付けられていたし、彼女もそれを守ろうと工夫を凝らしていた。
 その結果が、サイズの合わない上着であり、地味なロングスカートというわけだ。

 色気がないのはある意味、彼女の努力の賜物たまものであるともいえよう。


 しかし、そんなことは他人が知るよしもない。
 黒髪の男は、いわれのない文句をつけてきて、リディアは身をすくめる。
 あたりは騒々しいのに、そのテーブルだけ時が止まってしまっていた。

 だが、思わぬ助け船が後ろから飛び込み、時計の針は再び動き出す。


「キャプテンそのへんにしてやってくださいよ。かわいそうに怖がっちゃってるじゃねーですか」
 バドと呼ばれていた茶髪の男が、黒髪の男をなだめにやって来てくれたのだ。

 ようやくあの視線から解放される――
 安堵(あんど)したのもつかの間、なぜか今度はバドがリディアの顔をまじまじと覗きこんできた。


「確かに格好は超絶ダサイっすけど、顔は……かわいい、すげェ、かわいいじゃん!」

 鼻息荒く距離を詰めてくるバドに怖じ気づいたリディアは、身体を傾けて距離を取ろうと試みる。
 だが、バドは気にする様子もなく、至近距離でリディアの顔を見つめ続けてきた。

「う、え、あの……」

「ったく、人のこと言えたもんじゃねェ。どっちが怯えさせてんだよ。んで、俺たちに何の用だ」
 黒髪の男がバドを引っぺがして、かったるいとでも言いたげに、尾行の理由を尋ねてくる。
 その瞳にはもう、先ほどのような鋭さはなくなっており、リディアはほっと胸を撫で下ろした。

 気付かれてしまったのなら仕方がない、と覚悟を決めたリディアは、大きく息を吸って姿勢を整える。
 そして、紫の瞳を真っ直ぐに見つめながら、静かに口を開いた。


「ネラのしるべについて、教えてください」

「は?」

「世界のことを、そして私のことを、知りたいんです」


 二人はしばしの間、見つめ合う。
 黒髪の男が口を開こうとしたその瞬間、間に割って入るかのように腕と酒のボトルが飛び込んできた。

「はいよ、追加の酒二つお待ちどう……って君は、どこかで?」
 突如現れた恰幅かっぷくの良い店員がリディアを見つめてくる。

 この男に面識はない。けれど、彼女になくても、彼にはあるのだろう。
 彼女が祈りの巫女というのは、この町全員に知れ渡っているのだから。


「き、気のせいです」
 慌てて顔を背けるが、酒場の男は怪訝けげんな表情でリディアを覗き込もうとしてきた。

 祈りの巫女が夜の酒場にいて、見知らぬ男と話しているなど、知られるわけにはいかない。
 リディアは誤魔化す方法を必死に考えていくが、何一つとして浮かぶことはなかった。 
 
 絶体絶命の状況に震えていると、黒髪の男の声が彼女の耳に響いた。
「人違いだろう。コイツは俺の妹で、盗賊に襲われてから人嫌いがひどい。あまり見ないでくれるか」

「す、すみません。しかし、盗賊とは、可哀そうに」

 酒場の男は深々と頭を下げて謝ってきて「あの方が禁忌を破るはずがないしな」と、独り言をつぶやきながら次のテーブルへと向かっていく。

「なるほどな」
 黒髪の男はにやりと左口角をあげ、横目でリディアを見つめてきていた。


 意味を含んだ視線を向けられているとも知らず、リディアは安堵あんどの吐息を漏らした。

「助かりました。ありがとうございます……って、あれ?」
 リディアが顔を上げたその瞬間、目の前にはなぜか黒髪の男の手があった。
 しかも、それはなぜか胸元に迫ってきていた。
 男に身体を触られたことなどないリディアは茫然ぼうぜんと固まり、手の行方を見ていることしかできずにいる。

 それをいいことに、黒髪の男はリディアのマントと中に着ているブラウスを引っ張り、平然とした顔で左の胸元をのぞきこんできた。


「――ッ、やめて下さい!」
 正気を取り戻したリディアが、慌ててその手を跳ね除けたが、すでに手遅れだろう。

「ちょ、キャプテン! ここは酒場っすよ、一体なにしてんスか!?」
 立ち上がったバドは、動揺した様子で黒髪の男を見つめている。
 だが、黒髪の男はそれに反応することもなく、リディアのことだけを紫の瞳に映していた。

「やはり、お前は……」

 アレを、見られた。禁忌を破ったことを知られたら、いったいどうなってしまうのだろう――
 そんな思いで一杯になり、混乱したリディアが言えた言葉はたったこれだけ。

「ごめんなさい! 許してください……っ」

 血の気を失い、涙を浮かべたリディアは胸元を隠して酒場を飛び出し、夜闇へと消えていくのだった。
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