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第一章 はじまりは夕闇とともに
定められた運命
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絶望と霞は、よく似ている。
音も無く這い寄り、香りのように包みこんでくるところも。
救われようもない孤独を、まざまざと突きつけてくるところも。
出口を覆い隠し、延々と苦しめてくるところも。
港町として栄えるミディ町にも、そんな絶望に囚われた娘がいた。
震える足で立ち尽くす彼女の名は、リディア・ハーシェル。
生まれながらにして“祈りの巫女”という理不尽な使命を抱えた、憐れな娘だった。
――・――・――・――・――・――
「ハンス司祭、その手紙って、まさか……」
弱々しくかすれた声が、ひまわり咲き乱れる庭へと消えていく。
怯えたような目をするリディアの視線の先には、真っ青なローブを身に付けた老齢の男と壮年の男とがおり、笑みを浮かべていた。
「ええ。おめでとうございます! いよいよ明日ですよ」
ハンス司祭と呼ばれた老齢の男は、金色の封筒を差し出しながらにこりと微笑みかけてくる。
“おめでとう”と言われているにしてはリディアの表情は硬く、焼き立てのパンが入っているかごを強く握っており、その手も微かに震えている。
「……ッ!」
胸元まで伸びた亜麻色の髪が強い風で浮き上がり、顔に貼り付いて視界を塞いでくる。
このまま現実から目を背けたい気持ちはあったが、横髪をのけたリディアは覚悟を決め、大きく息を吸いこんだ。
「手紙ですが、すみません……代読してください」
「そうですね、早く読みましょう。今日の知らせは、良い知らせ。早くお聞きになりたいのもわかりますよ」
ハンス司祭は嬉しそうにうなずいて、金色の封筒から中身を取り出し、再び口を開いた。
「ネラ教会より“祈りの巫女”リディア・ハーシェルに第一の使命を果たすことを命ずる。十八歳を迎える明日、ピート・ガスリーの元に嫁ぐべし。なお、迎えは十時に来るものとする。そして……」
朗々と司祭は手紙の内容を読んでいたが、リディアの耳には何一つとして入って来ないまま。
滑らかな肌は病的なほどに白さを増していき、ペリドットに似た大きな緑色の瞳に至っては、焦点さえ合わなくなっていた。
一見すると血の通わない人形のような姿にも見えるが、小刻みに震えるその手だけは、人形ではない“心”を強く主張していた。
「さ、今日はもう夕暮れ時です。早くお家の中にお入りなさい。明日はとても大切な一日になるのですから」
ハンス司祭は、金色の封筒をリディアに手渡してきて、穏やかに微笑みかけてくる。
そして、壮年の司祭と共に“私もハーシェル家に生まれ、ネラ様にお仕えしたかった”だとか“生まれながらに名誉ある使命を授かれるなど羨ましい”などと、話しながら去っていく。
リディアはそんな二人を、ただぼんやりと見つめることしかできずにいた。
だぼっとした上着に、地味なロングスカートというあか抜けない服装のせいか、ひどく幼く見えるが彼女は明日、十八回目の誕生日を迎える。
十七歳最後の日である今日、リディアを管理するネラ教会から届いた金色の封筒……それは、祈りの巫女である彼女にとって、死の宣告にも似た意味を持っていたのだ。
「うぅッ」
突如込み上げて来た吐き気をリディアは条件反射的に抑えていき、そのまま慌てた様子で家の中へと戻っていったのだった。
――・――・――・――・――・――
黄昏色と闇が混じり合う部屋の中、リディアはホットミルクが入ったカップを手に、ゆったりと椅子に腰かけた。
まだ幼い頃、辛いことがあった時には、決まって母親がホットミルクを作り、慰めてくれたことを覚えていたのだ。
昨日までは熱い飲み物など飲みたくないと思っていたのに、とリディアは呆れたように笑う。
両手でカップを包んで、ミルクを口にすると、その温かさと甘みが、恐れで冷えた身体を柔らかく解きほぐしてくれた。
冷静さをわずかに取り戻したリディアは、小さく息をついて顔を上げていく。
指先は懐かしい温もりから名残惜しそうに離れていき、宛名が書かれた封筒のほうへと向かった。
「これって、私の名前だよね、きっと」
リディアは自嘲気味に笑う。
町に行けば、そこかしこに文字は溢れているのに、彼女はこの歳にして一つも字を読めずにいた。
決して勉強が出来ないわけでも、やる気がないわけでもない。
むしろ本を読みたいと願っていたのに、ネラ教会が文字を教えることを制限してきていたのだ。
そのせいで純粋な知的好奇心は町民からも突っぱねられ、満たされることは一度たりともなかった。
結果、文字すら読めないままリディアは大人になってしまっていた、というわけだ。
中を見ると、先ほど司祭が読みあげた真っ白な紙が一枚だけ入っている。
かさりと音をたてて開くと、そこには十行ほどに渡る文章が模様のごとく整った字で書かれていた。
――どうしよう。さっきの内容、ほとんど覚えてないや。
リディアは自嘲するように笑い、深いため息をついていく。
詳しい内容は覚えていなくても、一つだけはっきりしていることがある。
それは『祈りの巫女』と呼ばれるリディアが明日、ネラ教会が決めた婚約者の元へ嫁ぎ、第二、第三の使命を果たさなければならないということだ。
――好きでもない婚約者に嫁いで、その人との子どもを産んで。その後は……
リディアは視線を落とし、下唇をぎりと噛みしめる。
ふと思い出した光景は、降りしきる雨の中、黒い傘の下で母親が最期に見せた笑顔。
「どうして私なんかが、祈りの巫女なの……?」
机の上に突っ伏し、迫り来る深い闇を見つめながらぐしゃりと手紙を握りしめる。
そんなリディアの姿は、溺れる者が何かをつかもうとするしぐさにひどくよく似ていた。
音も無く這い寄り、香りのように包みこんでくるところも。
救われようもない孤独を、まざまざと突きつけてくるところも。
出口を覆い隠し、延々と苦しめてくるところも。
港町として栄えるミディ町にも、そんな絶望に囚われた娘がいた。
震える足で立ち尽くす彼女の名は、リディア・ハーシェル。
生まれながらにして“祈りの巫女”という理不尽な使命を抱えた、憐れな娘だった。
――・――・――・――・――・――
「ハンス司祭、その手紙って、まさか……」
弱々しくかすれた声が、ひまわり咲き乱れる庭へと消えていく。
怯えたような目をするリディアの視線の先には、真っ青なローブを身に付けた老齢の男と壮年の男とがおり、笑みを浮かべていた。
「ええ。おめでとうございます! いよいよ明日ですよ」
ハンス司祭と呼ばれた老齢の男は、金色の封筒を差し出しながらにこりと微笑みかけてくる。
“おめでとう”と言われているにしてはリディアの表情は硬く、焼き立てのパンが入っているかごを強く握っており、その手も微かに震えている。
「……ッ!」
胸元まで伸びた亜麻色の髪が強い風で浮き上がり、顔に貼り付いて視界を塞いでくる。
このまま現実から目を背けたい気持ちはあったが、横髪をのけたリディアは覚悟を決め、大きく息を吸いこんだ。
「手紙ですが、すみません……代読してください」
「そうですね、早く読みましょう。今日の知らせは、良い知らせ。早くお聞きになりたいのもわかりますよ」
ハンス司祭は嬉しそうにうなずいて、金色の封筒から中身を取り出し、再び口を開いた。
「ネラ教会より“祈りの巫女”リディア・ハーシェルに第一の使命を果たすことを命ずる。十八歳を迎える明日、ピート・ガスリーの元に嫁ぐべし。なお、迎えは十時に来るものとする。そして……」
朗々と司祭は手紙の内容を読んでいたが、リディアの耳には何一つとして入って来ないまま。
滑らかな肌は病的なほどに白さを増していき、ペリドットに似た大きな緑色の瞳に至っては、焦点さえ合わなくなっていた。
一見すると血の通わない人形のような姿にも見えるが、小刻みに震えるその手だけは、人形ではない“心”を強く主張していた。
「さ、今日はもう夕暮れ時です。早くお家の中にお入りなさい。明日はとても大切な一日になるのですから」
ハンス司祭は、金色の封筒をリディアに手渡してきて、穏やかに微笑みかけてくる。
そして、壮年の司祭と共に“私もハーシェル家に生まれ、ネラ様にお仕えしたかった”だとか“生まれながらに名誉ある使命を授かれるなど羨ましい”などと、話しながら去っていく。
リディアはそんな二人を、ただぼんやりと見つめることしかできずにいた。
だぼっとした上着に、地味なロングスカートというあか抜けない服装のせいか、ひどく幼く見えるが彼女は明日、十八回目の誕生日を迎える。
十七歳最後の日である今日、リディアを管理するネラ教会から届いた金色の封筒……それは、祈りの巫女である彼女にとって、死の宣告にも似た意味を持っていたのだ。
「うぅッ」
突如込み上げて来た吐き気をリディアは条件反射的に抑えていき、そのまま慌てた様子で家の中へと戻っていったのだった。
――・――・――・――・――・――
黄昏色と闇が混じり合う部屋の中、リディアはホットミルクが入ったカップを手に、ゆったりと椅子に腰かけた。
まだ幼い頃、辛いことがあった時には、決まって母親がホットミルクを作り、慰めてくれたことを覚えていたのだ。
昨日までは熱い飲み物など飲みたくないと思っていたのに、とリディアは呆れたように笑う。
両手でカップを包んで、ミルクを口にすると、その温かさと甘みが、恐れで冷えた身体を柔らかく解きほぐしてくれた。
冷静さをわずかに取り戻したリディアは、小さく息をついて顔を上げていく。
指先は懐かしい温もりから名残惜しそうに離れていき、宛名が書かれた封筒のほうへと向かった。
「これって、私の名前だよね、きっと」
リディアは自嘲気味に笑う。
町に行けば、そこかしこに文字は溢れているのに、彼女はこの歳にして一つも字を読めずにいた。
決して勉強が出来ないわけでも、やる気がないわけでもない。
むしろ本を読みたいと願っていたのに、ネラ教会が文字を教えることを制限してきていたのだ。
そのせいで純粋な知的好奇心は町民からも突っぱねられ、満たされることは一度たりともなかった。
結果、文字すら読めないままリディアは大人になってしまっていた、というわけだ。
中を見ると、先ほど司祭が読みあげた真っ白な紙が一枚だけ入っている。
かさりと音をたてて開くと、そこには十行ほどに渡る文章が模様のごとく整った字で書かれていた。
――どうしよう。さっきの内容、ほとんど覚えてないや。
リディアは自嘲するように笑い、深いため息をついていく。
詳しい内容は覚えていなくても、一つだけはっきりしていることがある。
それは『祈りの巫女』と呼ばれるリディアが明日、ネラ教会が決めた婚約者の元へ嫁ぎ、第二、第三の使命を果たさなければならないということだ。
――好きでもない婚約者に嫁いで、その人との子どもを産んで。その後は……
リディアは視線を落とし、下唇をぎりと噛みしめる。
ふと思い出した光景は、降りしきる雨の中、黒い傘の下で母親が最期に見せた笑顔。
「どうして私なんかが、祈りの巫女なの……?」
机の上に突っ伏し、迫り来る深い闇を見つめながらぐしゃりと手紙を握りしめる。
そんなリディアの姿は、溺れる者が何かをつかもうとするしぐさにひどくよく似ていた。
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