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麗憶高原イデラゴエリ、賢者が遺すは虚像の糸編
19.その本に名前は記さず
しおりを挟む「……ふぅ。とりあえず簡単な翻訳は終わったよ」」
「ほ、ほんとか……」
しばらく本のページをめくる音だけが続いた後、ようやくブラックがそう言って、終了を示すかのように深く溜息を吐いた。
俺はその言葉に、なんとか声を絞り出して反応する。
よ、よかった。ようやくこのケツ痺れ地獄から抜け出せるんだ……。
そう思うと俺も溜息が漏れそうだったが、何を思っているのかブラックに気付かれたらヤバいので、その安堵感を何とかこらえた。
……いや、翻訳おめでとうとか先に言うべきなんだろうけどさ、そんな建前や感謝を口にするヒマもないほど、俺はケツが限界にきてしまってるのよ。
だってもうね、ケツの感覚が鈍いの。
感覚が無いとまでは言わないが、明日筋肉痛でケツがもげてもおかしくないくらい痺れまくっているのだ。今まで大人しく座っていた事を褒めて欲しい。
そもそも、あれから二時間くらいは余裕で経過しているんだぞ。
筋肉でガッチガチに硬いオッサンの膝の上で文句も言わず座ってたんだから、少しくらい文句を言ったっていいはずだ。
これでケツがもげたら絶対にブラックのせいなんだからな。
でもそんな事を面と向かって言うのも危険なので、俺は太腿をモゾモゾと動かし尻の感覚を確かめながら言葉を続けた。
「それで、この本達はどんな内容だったんだ?」
振り返って顔を見上げると、ブラックは難しげに表情を歪めて「うーん」と唸る。
作業は終わったと言っていたのに、なんだか煮え切らない感じだ。
何か引っかかる事でもあるのだろうかと目を瞬かせると、ブラックは俺を見返してふぅ~と息を吐き、髪の毛に顔を突っ込んできた。うわなにするおまえ。
慌てて逃げようとしたが、ガッチリつかまれていて逃げ出せない。
しかしブラックは俺の頭に顔を埋めてぐりぐり押し付けるだけで、これ以上変な事をしてくる気はないようだ。
……これは多分……目が疲れたり体力がゼロになったときに、猫や犬などのペットもしくは手近な毛布やぬいぐるみに顔を埋めるヤツだな。
まあ……今まで真剣に本を凝視し続けてたんだから当然か。
ヤメロと思う気持ちもあったが、しかし今一番頑張っていたのはブラックなので、俺の頭に顔を埋める程度で良いのなら、ここは何も言わないでおこう。
そう思って数分モジモジしていると、ようやくブラックが顔を離した。
「は~。癒されたぁ……」
「いや、それはないだろうけど……それで、少しは疲れとれた?」
再び振り返ると、ブラックは妙にツヤツヤした顔で満足そうに笑ってみせた。
「うんっ! ツカサ君式治療法は効くねぇ、えへへ」
「なんじゃそりゃ……。ってかそれより、内容はどうだったんだよ」
「え? ああ……大体は備忘録かなあ。筆跡からしても、あの点字以外は全部同じ奴が書いてたみたいだね。でも特に気になる記述はなかったよ?」
「そうなの?」
あれだけ本が積み上げられているのに、そんなに内容が無かったのか。
思わず拍子抜けしてしまったが、ブラックは「そもそも適当に記してあるから、普通の本みたいにみっしり文字が書いてあったり、内容が在ったりするもんじゃないんだよ」と付け加えた。
なるほど……確かにメモは右から描いたり上に付け加えたりするしで、本みたいに文章を整列させてメモを書く事なんてめったにないよな。
この数冊の備忘録もそうだとしたら、内容が薄いのも納得だ。
じゃあ、どういうメモだったんだろう?
ブラックに問いかけるような視線を送ると、相手は肩を竦めながら答えた。
「大体は普通の感想くらいで、ライクネス王国の料理がマズいだとか、アコール卿国の城でパーティーしたとかみたいな感じだね。……まあ、本を買う事が出来るくらい裕福なら、城に呼ばれるのもありえるから別に引っかかる事じゃないけど」
「うーん……異世界っぽいことは書いてあった?」
それだけじゃ俺の世界の人が書いたものか判断できないな。
何か引っかかる部分は無かったのかと聞くと、ブラックはトントンと指で軽く机を叩きながら、それらしい部分を思い出そうとした。
「異世界っぽい部分ねえ……。あっ、そういえば、しきりに『はんばーがーとぽてととしぇいく』が食べたいって変な言葉が書いてあったかな」
「それだよ! そんなもんコッチの世界に無いだろ、俺の世界だと一般的なんだよ!」
「ええ? この長ったらしい名前のモノが?」
「いやそれセットになってんだよ。セット……えー……三つの食べ物をまとめてるの」
食べ物二つに飲み物ひとつ。これを纏めて出すお店が俺の世界にはごまんとあるのだと説明すると、ブラックは目を丸くして不思議そうに首を傾げていた。
相手からすれば、似たような食べ物が世界中どこででも同じ店で食べられる……と言うのが、あまり理解できなかったらしい。
……まあそれもそうか。
この世界って冷蔵庫とか高級品だし、各国は混ざり合う事も無く今も独自の文化を守り続けてるんだもんな。それに、常夏だの常春だのと季節も限定されてるから、他の国でも安定して美味しく食べられるチェーン店なんて存在しないのだ。
輸送だって、飛竜や争馬種みたいな早い輸送手段も気軽に使えないし、主な手段はゆったりのんびりのヒポカムちゃん便だけ。
これではチェーン店なんてよほどの金持ちでもなければ難しすぎる。
せいぜい財団が同じ商品を揃えて売る雑貨店くらいが関の山だ。
そう考えると、俺の世界の輸送技術にちょっと驚かされるが、ブラックが「世界中に存在する“同じメニューを出せる”店」に不可解さを覚えるのも無理はない。
改めて考えると俺だってびっくりだもん。
でも、だからこそ異世界の人間が書いたって証明できるからありがたい。
異世界の方が遅れているという気はないが、それぞれ違う技術が進化したってことなんだろうな。こっちはこっちで、曜具なんていう魔法の道具が普通に使われてたりするし、曜術で俺の世界よりラクチンな生活できてる場合もあるわけだし。
ともかく、ファストフード店に関しては俺の世界に分があったようだ。
「うーん……ツカサ君の世界は、本当に食べる事に関して情熱的なんだねえ……。まあ確かに、僕も常にツカサ君の料理が食べられたら幸せだけどさあ」
「ばっ、お、お前急にそんなこと言うんじゃないよ」
「本音だもん。……ともかく、これが異世界人の書いた本だってのは分かったけどさ、あんまり人の描写が少なくてねえ。パーティーを結成して、だいぶ経ってからの備忘録なのかな。名前くらいしか分からなかったよ」
「そ、その名前って?」
ハンバーガーのセットと来たら、間違いなく七人は異世界人だろう。
いや、途中から書いていたメモなら、こちらの世界の仲間もいるのかな。
どちらにせよ、この本にメモをしていた「女性」は、俺と同郷には違いない。
だったら、名前も日本人と同じ名前なんじゃないのか。
そう考えるとやけにドキドキしてきてしまい、ブラックの顔をジッと見つめながら返答を待っていると――――相手は何故か優越感染みた笑みを浮かべ、口を緩めた。
「ふへへっ、ツカサ君が僕のこと見つめてるぅ」
「いいから早く言えっ!」
何をいまさら喜んでるんだよと無精髭だらけの頬を軽く引っ張ると、ブラックは「いひぇひぇ」と全く痛くなさそうな声を漏らし、ようやく答えてくれた。
「えーと確か……名前が出てきたのは、女性三人男性三人。……残念ながら筆者の名前は出てこなかったけど、女性達は【ヒナコ】と【カオリ】、それに【レイナ】。男性は【ユザワ】と【ヒカル】と【アサヅキ】だね」
「男は、ほぼ苗字……いや、家名呼びなのか……」
「えっそんなの分かるの?」
ブラックが驚いたように俺を覗き込んでくる。
何故そんな顔をするのか分からずこっちまでギョッとしてしまったが、まあ確かに日本人の苗字って外国の人だと違いが分からなかったりするらしいもんな。
ゲームや映画でトンチキな名前の日本人キャラとかすごい居るし……まあ俺も他の国の人の苗字の法則性とかは分からないので、ブラックもそういう感じなんだろう。
パッと単語だけ聞いて苗字か名前か判断できるってのも、その国の人ならではって事なのかな。そう考えると面白いけど、まあ今考える事じゃないか。
俺は気を取り直して、ブラックに説明した。
「うん……流石にユザワは名前に使わない言葉だから家名だと思う。あと、アサヅキもそうだと思うんだけど……名前って可能性もあるから分かんない。滅多にないけど名前の方に付ける人もいるし。ヒカルは確実に名前だと思う」
「そういう物なのか……。うーん、僕一人で翻訳してたら、誰が家名で呼ばれているのか判らなかったよ。ツカサ君すごいっ」
「わっ、だ、抱き着くなって! ケツが衝撃で逝くっ。もう爆発する!」
感極まったブラックに突然抱きしめられて、また体に押し付けられる。
しかし今の俺はケツがマヒしていて、そのマヒのじんじんする痺れが腰にまで到達しそうなほどなのだ。そんな状態で抱きしめられたら、し、痺れがががが。
「ツカサ君のお尻はむにむにふにふにの特別製だから大丈夫だよう」
んなワケあるか!!
ていうかムニムニだろうと普通に痺れるってのこんちくしょう!
「はーなーせー!! あと続きっ、続きを言えー!!」
「んもー、ツカサ君たらせっかちだなぁ。そんなにお尻痺れちゃったの? ……じゃあ、本題を話す前に……僕が痺れを取ってあげる!」
「…………は?」
取ってあげるって、どうやってこの痺れを取ると言うのだろう。
意味が分からず呆けていると、ブラックは俺を抱えたままいきなり立ち上がった。
「じゃあ、やりやすいように体勢変えようか」
「えっ、ええ!?」
言われるがままに、俺の体は机の上に乗せられる。
上半身だけべったりと机の上に乗り上げて、腰から下をだらんと遊ばせているような格好だ。……ブラックが背後にいる状態でこの俯せの格好は、非常に怖い。
逃げようかと思ったのだが、その間にブラックが俺の足を割り開いて来て、どうやらそこに椅子を引きながら入ってきてしまったようだ。
「ひっ!? あ、アンタなにして……っ!」
「はーい、ツカサ君大人しくしててね~。今からほぐしてあげるからね~」
「ほ、ほぐすって……!」
こんな、俯せで股を大きく開いた状態で、どう大人しくできると言うのか。
明らかにおかしい状態で何をどう冷静で居ろというんだお前は!
「足は僕の腕に乗せていいよ。そうしたら足を開いてるのもつらくないでしょ? ああ暴れちゃだめだってば。ほら、静かにしてないとロクショウ君が起きちゃうよ」
「っ……!」
そ、そうだ。ここにはロクショウもいたんだ。
気が付いて机の上を見ると、いつの間にかスヤスヤと寝てしまっているロクが真横にいる。ロクも俺に似て寝たらなかなかの衝撃でも起きないのだが、でもこんな至近距離で騒いだら確実に起こしてしまうだろう。
そんな可哀相な事はしたくない、と口をギュッと噤んだ俺に、ブラックは忍び笑いを漏らしながら、一層股の近くまで足を進めた。
「ふふ、ふっ、ふへへ……安心してよぉ、絶対痛い事なんてしないから……!」
そのモブおじみたいなセリフで安心できる人がいたらお目にかかりたい。
心底そう思ったが、こうなってしまうともう逃げ場も無かった。
ぐうう……ブラックめ、あとで覚えてろよ……!!
→
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