異世界日帰り漫遊記!

御結頂戴

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断章 かつて廃王子と呼ばれた獣

7.置き去りにされた記憶

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 ――――硬い表情をした母親に手を引かれ、暴れ回る声とは反対の方へ進む。

 だが音は徐々に近づいて来ており、正確ではないようだが相手に補足されているのは間違いなさそうだった。
 相手もまた、獣人として中々の手練てだれだったのだ。

 クロウクルワッハは、子供ながらに“ぞく”の追跡能力の高さに恐怖したが、母に強く手を握られていることで、かろうじて震えずに歩くことが出来た。

 ……きっと、一人では部屋から出ることも出来ずにちぢこまっていただろう。

 出来るだけ音をたてないよう、母に誘導されるがまま付いて行く。

 いや、誘導されているというより、何も考えずに、ただ、不安や恐怖から逃れようと母親に安心を求めてひっついていたに過ぎない。
 幼いクロウクルワッハにとって、母親は絶対的な存在で当たり前のものだった。

 スーリアはいつも、クロウクルワッハと共にいる。
 朝起きて夜眠るまで、傍にいなくても常に館の中に気配を感じていた。

 それがどれほど幼子おさなごを安心させ、慰めるかは言うまでもない。
 館の外の獣人達からどう思われているかくらいは察しているがゆえに、常に自分を愛し肯定してくれる母親は、精神を安定させる生命線でもあった。

 だから、こんな状況であっても、クロウクルワッハは恐怖に震えず泣くことも我慢が出来た。どんな時も自分を抱きしめてくれる庇護者がいるから、強くれたのだ。

 そして――なんとか外に出て、多数の薬草のニオイで気配を隠そうと、スーリアが大切にしている薬草園に入った時も、クロウクルワッハは泣かずに我慢していた。

 異常事態は無事に過ぎ去る事と信じ、背の高い草のかげで母親に抱きしめられ何とか震えをこらえていた。しかし。

「おい、王妃様。隠れても無駄だぜ!」
「くそっ、せっかくの草だってのにくせぇな……鼻がきづれえ」

 下卑た男達の声。
 時折ふざけた会話にホッホッと甲高い獣の笑い声が聞こえて、特徴的なその声が確実に他の種族であることを感じさせた。

 熊ではない。アージャのような山羊やぎや羊のたぐいでもない。
 聞いた事も無い声にクロウクルワッハの背筋は冷たくザワついたが、自分をかかえる母親の体温が、その恐怖による熱をやわらげてくれた。

 しかし、だんだんと足音が近付くにつれて空気がぴりぴりとしびれてくる。
 おのれの感覚が誤解しているのかもしれないが、複数の足音が、土を踏む音が、明確に聞こえてくるようになって、クロウクルワッハの獣耳は毛を緊張にふくらませた。

 男達がふざけて、自分達を探す声を漏らす。
 ケタケタと笑いながら汗と血の臭いを漂わせる男達は、クロウクルワッハの心の中に強く不快な印象を与えた。

 何十年経過しようと、その時の感覚や思いは忘れることが出来ない。

 その後に起こったことも、いまだに忘れることが出来なかった。

「…………」

 クロウクルワッハを抱きしめていた柔らかな腕が、わずかに動く。
 その逡巡しゅんじゅんするかのような動きは、やがてゆっくりとクロウクルワッハを解放した。

 なぜ今自分を手放すのか。
 理由が分からず不安になって母親を見た幼子おさなごに、彼女は微笑んだ。

 そして、男達に聞こえないほどの小さな声で囁いたのだ。

「あの人達が館から出て遠くへ行くまで……絶対に、ここを動いてはダメよ」

 ――――母上、それはどういうことですか。

 そう、問い返したかった。
 だがスーリアはもう一度だけクロウクルワッハの事を強く抱き締めると、それ以上の問答をする隙もなく立ち上がり、背の高い薬草のかげから音を立てずに出て行ってしまったのだ。クロウクルワッハを一人残して。

「っ……ぅ……う……」

 不安と良い知れぬ焦りから、ぐずるような声が漏れそうになってくちふさぐ。
 母親が、自分を置いて行った。理由も言わずに離れた。

 今までにない行動をされて、クロウクルワッハは泣きそうになる。
 ただでさえ恐ろしくて不安な状況の中で、唯一自分を安心させてくれる親がいなくなってしまったのだ。

 その初めての行動に混乱する幼い頭のクロウクルワッハに、さらに追い打ちをかけるようにして、すぐ近くから男達の声が聞こえて来た。

「おい、いたぞ!!」
「あ゛? なんだ、散々逃げ回ってたくせにもう逃げるのはやめたのか?」
「キキキッ、ザコ熊どものメスのくせに、俺達に立ち向かうつもりかよ」

 知らない声。知らないわらい方。知らない臭い。

 戦場と決死の戦いを知らぬ幼子おさなごにとって、それらは恐怖でしかない。
 あきらかに悪意を持っている声がわらうと、隠れていたい本能が働きその場から動く事すらも出来なくなってしまっていた。

 だが、そんなクロウクルワッハを余所よそに、勝手に話は進んで行く。

「お前に怨みはねえが、死んでもらわなきゃなんねえんでなあ」
「ザコメスだろうが第二王妃だ。あのクソ熊の野郎、メスなんぞにえらく服従して、尻に敷かれているらしいじゃねえか。マハのクソ女なら難しいが、お前程度ていどのザコメスなら簡単に始末出来るぜ。キキッ」

 始末。なんのことだろう。
 何故この男達は、スーリアや、自分に優しくしてくれるマハをわらうのか。

 何も分からない。
 だがそんな相手にも、スーリアは物怖ものおじしていないようだった。

「私を殺しに来たんですか。……確かに、ドービエルは私達を、妻であるメスを大切にしてくれます。けれど私が殺されても、いくさをやめる事はしませんよ。ドービエルは、貴方がた愚かな猿族の行為を獣として正すために動いている。その信念は、私の命で止められるようなものではありません」

 恐れなど何一つない、凛とした声。
 クロウクルワッハをしかる時のような清廉さを含む音に、思わず息を呑む。

 しかし、猿族の男達には何の言葉も響いていないようだった。

「だがよ、お前が死ねばアイツの心は深刻な打撃を追うだろぉ?」
「充分なんだよソレで! お前みたいな使えなさそうなメスですら、俺達の攻撃の役には立つんだ。感謝して喜びながら死になァ!!」

 下卑げびた声。
 大きく動く音にクロウクルワッハはハッとして、背の高い草の隙間からのぞく。

 すると、そこには――――

 三匹の猿耳をした男達と、その男達が飛び掛かった刹那に地面に手をついて土の壁を放った己の母親の姿が見えた。

「――――っ……」

 まるで夕陽に染められた空の色のように、明るく薄い暖かな色の光。
 その光の中で土を浮き立たせ壁を作ったスーリアに、猿達は面喰った。

 だがスーリアは恐れずにすぐその場から駆け出すと、少しでも息子から敵を離そうとして、息をまらせながら猿達にわざと分かりやすい道を選んで離れていく。
 突然の防御に動揺した猿達は、クロウクルワッハがすぐ近くにいることに気付きもせずスーリアを追いかけて行った。

「っ……ぁ……は……はは、うえ……」

 ドン、という大地を震わせて何かが隆起する音と、猿達の怒声。
 徐々に遠くなっていく音に、夜の暗がりで震えているクロウクルワッハは安堵あんどすると同時に、非常に嫌な焦燥感しょうそうかんに駆られた。

 ――――感じた事のない、叫び暴れたくなるような衝動。

 母親が居なくなったことで混乱し始めた頭をさらにぐちゃぐちゃにするようなその感覚に、クロウクルワッハは呼吸を荒くしながら息を吸う。
 だが、うまく呼吸が出来ない。

 震えか、それとも何かのさわりか、泣きじゃくった時のように吸う息が引きつる。

 怖い。なにか、嫌な予感がする。
 母親が敵を連れて遠くへ去った事が、安堵あんどするよりも恐怖を引き起こした。

「は、は……うえ……ははうえ……っ」

 呟いた声はもう、泣き出しそうに歪んでいる。
 置いて行かれ迷子になった子供のようにクロウクルワッハは震え、追いかけようとして草のかげから出ようと思ったが――――母親との約束に、踏みとどまる。

 ここを動いてはだめ。

 そう言われたが、しかし、このような危険な状況で置いて行かれた幼子おさなごの精神は、すでに言われたことを守れるような理性を失っていた。

 ましてや、母親が敵に追われて姿を消したのだ。

 どんなに悪意から遠ざけて育てられた子供であっても、数々の物語を知り、人がおのれを阻害する寂しさを知っていれば、最悪の事態などおぼろげでも想像してしまう。

 「人の死」というものを知らない子供ですら、その恐怖からは逃げられなかった。

「ははうえ……!」

 衝動的に、草のかげから出る。

 それからはもう、スーリア達の戦う場所へ向かうしかなかった。

 ――――あまりうまく走れない、成長が遅れた短い足を必死に動かす。

 母上、ははうえ、と、何度も小さな声で呼ぶが、その声は何故か流れてくる涙により一層みにくく歪んだ。なのに、届かない小さな声で、大好きな母親を呼ぼうとする自分を止めることが出来なかった。

 闇夜に浮かぶ庭を、必死の思いで走る。

 スーリアが“ほんの少しの土を操る力”で何とかひねり出した土壁の残骸を追い、己の大好きな母親の匂いと男達の血腥ちなまぐさい臭いを追って、よたよたと駆けた。

 何度も、何度も、母親を呼びながら。

 だが、館のかどの先。
 スーリア達が今しがた去って行ったそのかどに差し掛かろうとした時。

「――――――!!」

 どん、と、地震のような強い衝撃が辺り一帯を包んだ拍子に、クロウクルワッハの足がついもつれてその場に倒れこんだ。

 あと少し。あと少しで、母親の姿を確認できたのに。
 そう思って必死に立ち上がろうとするクロウクルワッハの耳に

 音が、聞こえた。

「ぁ…………」

 今まで聞いた事のない、優しく美しい声をした母親の……濁った声が。












 
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