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大叫釜ギオンバッハ、遥か奈落の烈水編
発覚
しおりを挟む「それで……ツカサ君から少しでも話は聞けたのかしら?」
少し心配そうに切り出してくるシアンに、ブラックは頷きとも傾げともつかぬ動きで頭を動かすと、ソファに背を預けて雑に足を組んだ。
「正直……あまり要領を得なかったよ。強引に開いた道を歩いている間も、僕の言う事にハイハイ頷くばっかりで、いつもみたいにギャンギャン言わなかったし」
「自白剤みたいなものを飲まされたように見えたな」
横から口を出してくる熊公にイラッとしたが、残念ながら否定する要素は無い。
そう、あの時ツカサは……いつもと違って、非常に大人しかった。
心の中では何か煩く考えていたのかも知れないが、表情や動きからでは彼が「何を考えているのか」が分からず、ただ「普通」の状態にしか見えなかった。
あの緊迫した状況の中で、ツカサは「平然とし続けていた」のだ。
――――それがどれだけ異常な状態なのかは、語るまでもない。
「そうね……ツカサ君はいつも笑顔だけど、その笑顔だって彼のものはすぐコロコロ変わるのだものね。……あんな、何も知らない子供みたいな笑顔ではなかった」
そこはさすがにシアンも理解していたのか、再会した時のツカサの様子を思い出し深刻な顔で俯いている。【碧水のグリモア】というだけでなく医術にも明るいシアンまで焦るほどなのだから、その様子は相当違和感があったに違いない。
普段のツカサを知っている者ならば否定できない事である故か、いつもならすぐにブラックの言葉を否定し貶す怪力雄女までもが、眉間に皺を寄せ床を見つめていた。
「……ツカサは気付いていたと思うか?」
熊公が問うのに、ブラックと同時にシアンも首を振る。
「ブラックですら、彼が“毒”に侵されている事を大叫釜から出た後で気付いたのですから……ツカサ君は、自分がそうなっていた事すら知らなかったはずです」
――何かの理由があるのか、シアンは駄熊に対していつも敬語を使う。
だが今その事を気にしても仕方が無い。会話に集中して、ブラックはシアンの言う話に詳細を加えるように、あの時気付いた事を振り返りつつ口を挟んだ。
「受け答えはしっかりして意思もあったから、なんというか……自白剤とは少し違う感じかな。だけど暴露状態というか、表情を隠すのが余計にヘタになっててコッチの言う事に素直に受け答えしちゃうし、妙にほわほわして楽観的というか……」
「それは……言いにくいが、いつものツカサさんでは」
ぶん殴ってやりたいところだが、この雄女の言う事も尤もである。
確かに平素からツカサは表情が分かり易く、今どんな気持ちなのかと言う事も態度だけで理解出来てしまう。それに、お人好しが災いしてか自分の落ち度以外には酷く楽観的で、どうかしたら自分を害した者すら許してしまう有様だった。
こう並べ立ててみれば、確かにいつものツカサだろう。
だが、長くツカサと付き合ってきたブラックからしてみれば、救出した直後の彼の態度からは違和感しか感じなかった。
もし、この違和感が、体を侵す“毒”のせいだとすれば……心当たりがなくもない。だからこそ余計にツカサの異変を感じたのかも知れないが。
「ブラック、端的に言って原因は何が考えられるかしら」
「幻惑術……独自に調整した口伝曜術か、新薬の可能性が高いだろうね。僕としては後者の方だと思うけど」
「根拠は?」
「曜気の気配が無かったからだよ。……僕の【紫月のグリモア】の【幻術】のように、幻惑術は月の曜術師のみが使える特殊な術だ。催眠、昏倒、混乱……状態異常にする術は付加術より豊富だけど、だからって“曜気の気配を示さない術”なんて、物の道理を考えても不可能だ。滅多に曜術を使わないツカサ君ですら、僕らが“視”れば体の中に気が巡っていることがわかるのに」
そう。この世界で生きているものは、必ずその身の内に気を宿している。
どのような「気」なのかは、生まれ持った属性や種族によって異なるが、それでも皆が何らかの力によって体を動かしているのだ。これは、人族によって作り出された創造物も例外ではない。
例えば、貴金属や【曜具】には宝飾技師などの曜術師が籠める金の曜気が含まれているし、植物を用いる薬師も己の曜気を籠める事によって薬効を高めている。
完成してしまえば融和し見えなくなることもあるが、それでも「気配」程度は確実に感じる。そう言いきれるほど、活力のあるものは気を内包していた。
曜術などその極みと言っても良い。
だからこそ、術による催眠誘導などではないと言い切れたのだ。
誰にも気取られないほどに「気」の気配を消すことなど、出来はしない。不可能と断言できる。まだ毒物や薬と言った物が原因だと考える方が現実的だった。
(……いくら【グリモア】や【アルスノートリア】がデタラメな力を持ってたって、この法則からは抜け出せないはずだ。僕だって……あの【菫望】とかいうクソ野郎の気配くらいは感じられるワケだしね……)
そう。この世界に住まう存在ならば、この絶対的な理からは逃れられない。
だからこそ、ブラックは術が原因ではないと確信したのである。
「では……やはり薬?」
「だが薬のようなニオイはしなかったぞ」
ふんふんと鼻を動かしてみせる駄熊に、シアンは困ったような顔をして片手で頬を抑えて見せる。
「ということは……かなり前に飲まされてしまったのかも知れませんね……獣人の鼻でも違和感を感じられなかったという事は、少なくとも今日飲まされたのではない」
独り言のように呟くシアンに、ブラックも素直に頷く。
彼を背負って運んでいたブラックですら、すぐには違和感に気付かなかったのだ。
薬となれば多少臭いが残るだろうし、ツカサにも何らかの変化が在ったはず。密着していたブラックですら気が付かなかったのだから、そういう事になるだろう。
「遅行性の可能性も有るしな。ここに木の曜術師でも居れば良かったんだが」
「あえて計画を立てていたことが裏目にでてしまったわね……。こんな事になるなら同行して貰えばよかった……」
そう残念そうに言うのは、アコール卿国の首都で落ち合う予定だったという、世界最高の薬師と煽てられているいけ好かない眼鏡男のことだ。
ブラックとしては二度と会いたくない存在だったが、植物と薬に関しては噂どおり世界一にも近いだろう見識を持つあの男なら、ここで悩む事も無く症状を言い当ててしまったのかも知れない。
(チッ……学術院が書物の提出を出し渋ってたせいで、僕の知識は薬学関係のものが少なかったしな……。こんな事になるんなら、どこかで仕入れておけばよかった)
そう自分で自分を詰るが、いま後悔しても仕方が無い。
普通、自分の専門分野以外の事を学ぶ者は少ないのだ。ブラックが炎と金を操る曜術師である以上、薬品に通ずる知識が専門家に劣るのは仕方のない事だった。
だが、様々な毒を認識していると無意識に自信を持っていたブラックからすれば、そうやって白旗を上げるのも悔しい。
なにより、またツカサを自分一人で救えなかったのが非常に腹立たしかった。
「水麗候、薬師ならば飲んだ薬がどういうものか瞬時に理解出来るのか?」
「それは力量によりますね……普通、木の曜術師の薬は曜気が込められていますが、木属性は変容し溶け込む性質があります。そのため、液体に封じ込められた気は固体に宿らないことで拡散し、溶けて、飲んだ者の“気”に取り込まれてしまうのです」
「…………なるほど、塩のようなものか」
「ああ、確かに……物に例えればそうかもしれませんね」
トンチンカンな事を言っているようだが、駄熊の理解力には毎回舌を巻く。
この駄熊の回答は、要するに未知の物を己に引き寄せた結果なのだ。
だが褒める気持ちにはなれず、ブラックは顔を顰めた。
(土の曜術を使える特殊な獣人族ってのもあるんだろうが……ほぼ浅い知識しかないだろうに、理解が早くてイヤになる)
子供だろうが大人だろうが、にわか知識で覚えていた事の詳細を一気に説明されてしまうと、誰もが戸惑い理解が遅れてしまうだろう。
だが、応用力が高い者は、その戸惑いを一気に消化してしまう。
それが今の熊公が言ったような、トンチンカンな例えなのである。
(そう言えば、ツカサ君もそういう所は早いんだよな。言ってる意味がわかんない時があるけど……)
だが、利口な事には変わりない。
物事の理解に必要なのは、聴者の「既存の記憶との擦り合せ」による噛み砕きだ。
それを自力で行って正解を出せるのは、聡いと言っても差し支えないだろう。
新しい概念に対してそうやって例えを要するのも、受け入れ理解しようとしているからだ。頭が固いものは、聞き入れる事すらない。それを考えると、熊公もツカサと同様に地頭は悪くないと言えた。
…………こういう部分のせいで、自分達の間に割り入って来るような行動を平然と出来るのだろうが、まあ、そこを突っ込んでいる場合ではない。
一瞬意識が逸れてしまったが、ブラックは駄熊の声に耳を傾けた。
「だが、薬は薬ではないのか? 体内に飲まれても曜気の流れは異なるだろう」
「それも難しい話ですね……薬の効能によって正常な気の流れが促進されたのであれば、それは曜気の力ではなく代謝の範疇です。簡単に言えば、川にエサを撒けばその撒いた場所が判らなくなるのと同じ。その流れに魚が活気づいても、そのエサが人為的な物かなど下流の人間には分かりません。よほど薬に精通している者でなければ、どんな薬が使われたのかわからないでしょう」
シアンの言う事は、教養のある者にとっては一般的な知識だ。
薬になってしまえば、飲んだ者の体に吸収された時点で、他者が籠めた曜気の気配は消えてしまう。それゆえ他人が薬を飲まされたと悟るのは難しい。
一級の木の曜術師ならば認識も可能になるかも知れないが、普通は見分ける事など出来ない。遅行性だと、顕著な症状が無い限り、外見での判断はほぼ不可能だ。
もしはっきりと判別できる存在がいるとすれば……こう言うのはシャクだが、それは緑樹のグリモアくらいだろう。
あまり見た事が無い症状であることからしても、明確な判別は新薬の研究をも行うあの胡散臭い眼鏡男ぐらいしか出来ないはずだ。
「…………しかし、ブラックは感じ取った」
「それは……ブラックが毒性のある薬や毒物に聡いからかもしれません」
話を流そうとするシアンの姿を見て、少し妙な気分になる。
親と言うのは子供を庇う物だと旅の間に知ったが、彼女の今の行動は、ブラックの過去を思って隠そうとしてくれたが故のものなのだろうか。
けれど今はその親心も何とも言えない感覚になり、ブラックは息を吐いた。
「ともかく、ツカサ君の症状は僕が覚えている。あのクソ眼鏡に会うまでは、ああだこうだ言っても仕方ない。……今は早く治ってくれるのを待つしかないだろう」
「……そうね。でも……そこまで奇妙な薬だと、今までの事を覚えてるのかしら」
「どうだろう。……少し話を聞いた限りでは、記憶が無い日もあったみたいだし……たぶん期待できないだろうね。それに、ギオンバッハ大叫釜を抜けてから、ツカサ君は急に意識が薄れがちになったし」
なんとも奇妙な限りだが、逆に言えばこれが「術」ではなくて良かったと思う。
もし【アルスノートリア】が関わっている一件だったとしたら、十中八九相手は【菫望】の力を使ってツカサを恐ろしい幻影に陥れて心を壊しただろう。
だからこそ、治す見込みがある薬の方がよほどありがたかった。
「今後も彼らのことは調査が必要ね……その薬も、もし新薬で他の人に使用されるとしたら、ツカサ君以上の被害が出るかもしれない。あれほど大きな採掘場を作って、ギルドや一部の警備兵も抱き込んだ相手なら……かなりの巨大な組織でしょうし」
「ああ、そのことなんだけど……一体全体どういうことだったんだ?」
ツカサの事で頭がいっぱいで忘れていたが、そういえばツカサは冤罪を着せられて囚人のような扱いを受けていたのだ。
この雄女と合流した時にいきさつを話し、シアンに連絡をとってからは、西へ東へとツカサを助ける前の下準備で忙しくて、真相を探る事はすべて任せていたのだが――その全貌は分かったのだろうか。
あの後、冤罪を受けた者や囚人達は全員救出できたものの、捕えた職員達は自分の仕事が危うい物だった事も知らない「雇われ」で困惑していたし、ツカサが口にしていた「モルドール」という主犯格の事は誰に聞いても「分からない」ようだったし。
新しい情報が出たのかと見やると、シアンはあからさまに困ったような顔をして、再びアラアラと言わんばかりに頬に手を添えた。
「それが……あれだけ派手にやっておいて、全くそのモルドールという人物の情報が出て来なかったのよね……。本当にその部分だけが分からないみたいで、みんな首を傾げていたし……。雇われていた職員達も、特に怪しい所は無くて、むしろちゃんと仕事をしていたみたいなのよねえ……」
ツカサの様子からしても、それは確かだろう。
彼は一見してメスと判らない少年らしさ満点の子だが、わかる者には珍しくて実に魅力的なメスだと分かってしまう。そもそも少年のメスという実に希少な存在がこれほど自由に外を歩いている事もないので、手に入れたいと思う輩であれば、何をしても手に入れようと考えるだろう。
多種多様な罪で投獄されていたオスの囚人達からすれば、きっとツカサは垂涎の的だったはずだ。だが、彼の体は綺麗なままで、暴行の痕は見られなかった。
少し痩せて抱き心地が変わっていたのと薄汚れていたぐらいで、ツカサ本人も何かに怯えたような様子なんて微塵も無かったのである。
…………普通に考えて、ありえないことだ。
だが、あの場所が普通の監獄ではなく実に規律正しく運営された監獄だったとするなら、彼が無事に日々を過ごせていた事にも納得がいく。
監獄の看守などロクでもないものだろうに、これはとても異常な事だった。
「……組織に関しての詳しい事はわかってないのか?」
「今ギルド長の女と警備兵達に尋問を行っているわ。まだ報告書がまとまっていないから、調査結果をまとめて話すのは明日かしらね。その頃には、ツカサ君も目覚めていてくれたらいいんだけど……」
「たぶん……大丈夫だと思う」
ツカサと交わった時に感じたが、今のツカサは回復しはじめているようだ。
自己回復能力のおかげで薬の後遺症も無さそうだし、なんとか明日はいちゃいちゃする事が出来るだろう……まあ、そんな場合ではないと怒られそうだが。
そう思うと内心ニヤつきが抑えられない。
病み上がりのツカサにセックスを迫って怒られるのも興奮するなと考えていると、不意にシアンが問いかけて来た。
「ブラック、そう言えばツカサ君が二つの名前を口にしたと言っていたわね。主犯と思しきモルドールの事は調べていたけど……もう一つの名前は、まだ私に報告していないのではなくて? 彼は、そちらの名前の事について何か言っていなかったの?」
「シアン様、私もそのもう一人の名前を聞いておりません。この下郎、なぜかそれを言う前にツカサさんをベッドに連れて行ってしまったので」
言いながら「早く話せ」と睨んでくる鬱陶しい長耳雄女にイラッとしたが、それでも、シアンにその名を言っていいのか迷ってブラックは口を噤んだ。
だが、その逡巡を知らない駄熊が、つい口を滑らせてしまう。
「たしか、ツカサは……セレストがどうとか言っていたな」
「……!!」
――――しまった。口止めしておくんだった。
そう思ったが、もう遅い。
咄嗟にシアンの方を見やると、相手は穏やかに目蓋を下げていた目を大きく見開き――――先程までの優雅さを失って、震えながら硬直していた。
「せれ、すと…………? セレスト、と……言ったのです……か……」
声が震えているシアンを見て、流石におかしいと思ったのか、駄熊も焦ったような雰囲気で目をやりながら大丈夫かと顔色を窺っている。
だがもうそんな気遣いなど、シアンには関係が無かったようだ。
「シアン様っ」
ガタッ、と、大きな音を立ててシアンは立ち上がる。
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「す、水麗候」
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「…………す、少し……時間を下さい……みっともない所をお見せしてすみません、一度下がらせて頂きます……っ」
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そう。
セレストとは、空の色を表す「忘れられた意味」を持つ名前。
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