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大叫釜ギオンバッハ、遥か奈落の烈水編
発見
しおりを挟む【ギオンバッハ大叫釜】からアコール卿国に向かうには、まずその大釜へと落ち、滝壺の横に繋がる洞窟から激流を辿っていかねばならない。
そう言うのは簡単だが、実際に船でその道を通るとなると、誰もが不安にならずはおれぬだろう。特に、膨大な水を落下させる地下への滝を下るのは、普通に考えても自殺行為と言う他なかった。
けれども、このギオンバッハの街から出る連絡船は他の道を取らず、現在もそんな危険な水路を使って隣国へ人を送り出している。
一見すれば狂気の沙汰な渡航方法だが、数百年続いて来たこの方法が最早伝統だと言うのであれば、これもまた正当な手段と言えるのだろう。
しかし、それを行えるのは熟達した水の曜術師の手腕と、大地の気の【付加術】を冷静に操る事の出来る老獪な術師あってこそだ。
今となっては危険性などないと高をくくった旅人ばかりになってしまったが、本来なら、滝を落ちるなどと言う行為は褒められたものでは無かった。
(曜術師が船上で死にでもしたら大変な事になるってのに、相変わらず暢気に席に座ってるんだからなぁ)
離れ行くギオンバッハの街を船尾で眺めながら、ブラックは目を細める。もうすぐ落下地点だというのに、船内の客達は荷物を預け何の心配もせずにわいわいと会話を楽しんでいて、その様子に深い溜息が漏れた。
まったく、この平和ボケした様子は見るに堪えない。
そう思ってブラックは船尾に移動して来たのだが、それもまた危険ではある。船に万が一の事があれば、衝撃が強くかかるのは先端か船尾だ。それを知っていて尚この場所に来たのは、やはり焦りがあるからなのかも知れない。
――――ツカサと離れ離れになったというのに、自分は彼を置いて本来の目的地であった川下のアコール卿国へと向かっている。
そのことが、いっそう心をささくれさせるのだろうか。
考えて、ブラックは溜息を吐いた。
(はぁ……まさかこんな風に出発するなんてなぁ……)
太い鉄柵に肘をついて息を吐くが、現実は飛沫のように散ってはくれない。
そんな事を思ってしまう自分が余計に情けなくて、ブラックは再び息を吐かずにはいられなかった。
――――本来ならばツカサと一緒に、片時も離れず一緒に旅を続けるはずだったのに、何故そうではなくいけ好かない駄熊と二人で船に乗らねばならないのか。
何事も無く進んでいさえすれば、ブラックは船ではしゃぐツカサと二人で滝下りを見て楽しんだり、ぎゅっと抱きしめたりキスをしたり、なんだったら船のどこかで体をまさぐり愛し合ったりと色々していたはずだったというのに。
(あぁ……ツカサ君……ツカサ君、恋しいよぉ……)
何度も頭の中で愛しい少年の名を呼ぶが、しかし隣に応えてくれる人はいない。
いるのは川に突き落としたくなる図体ばかりデカい駄熊だけだった。
「ムゥ……このような小型の船には初めて乗ったぞ」
「クソ貴族みたいなこと言ってんなよ駄熊が」
とぼけた発言すらもツカサの可愛いものとは違う。全然代わりにならない。
そもそもツカサに代わる存在などないのだが、ついそう思うほどにツカサのことが恋しくなってしまい、ブラックは腕を組んで柵に体を乗り上げ息を吐いた。
「にしても……よくこんな無茶な航路を敷いたものだな」
「コレも聖女ってのの御業なんだとさ。とはいえ、本当か分かったもんじゃないが」
「ふむ?」
「あのキュウマとか言うクソ神小僧の事を考えると、歴史が本当に層になっているのかも怪しいだろってことだ」
「妙な言い方をするな……まあ要するに、異なる神話が重なって同一視されたという話だろう? だからこそ全ての言い伝えが疑わしい……という話は分かるが、それでイライラするのはどうかと思うぞ。何がどう変質しようが、外様の俺達には関係無い事だろう」
ぐうの音も出ない。
確かに、その言い伝えの違和感を論じようとも、その事に意味など無いのだ。
これはただの八つ当たりであって、別にそれで何かが変わるわけでもない。
自分の行動は理解しているはずなのに、隣に大事な存在が居ないというだけで、いとも簡単にブラックの心は苛立ちでささくれ立ってしまっていた。
『まもなく、大叫釜です。乗船客の皆様はしっかりと手すりを手に取り、落下による衝撃に備えて下さい……』
警告音声が聞こえる。
振り返って前方を見やると、速くなった川の流れの向こうが唐突に霞み消えているのが見えた。これなら、あと数分もせずに船は落下するだろう。
そう思ったところで、少し離れた場所にいた熊公が呟いた。
「…………ふむ……。ブラック、気のせいだと思っていたんだが……やはり、この船――――ツカサのニオイがするぞ」
「あ?」
思っても見ない事を言い出した駄熊に再度振り返ると、相手はこちらなど気もせず鼻を動かしながら軽く歩き始めた。
「ムゥ……こっちだ」
「お、おい待て。ツカサ君は牢屋にいるはずだろうが。なんでここに……」
「わからん。だが、ニオイがする。こっちからだ」
ワケが解らない。
どこに行くのかと問いたかったが、ぐっと言葉を飲んで背後に続く。
熊公は客室ではなくその周囲の廊下を歩き、再びふんふんと鼻を動かす。そして、どこへ行くのかと思ったら階段を降り始めた。
人気が少なくなった船の下層には、不思議と人の気配がない。
と、急に浮遊感が襲って軽く足の裏が浮いた。
「おっ……――――」
いや、足の裏だけではない。体全体が宙に浮きあがる。
船が滝を落ち始めたのだ。
次に急激な重さで地面へと引き摺り戻されると瞬時に察し、ブラックと熊公は咄嗟に壁と天井に手を突き手すりを掴んで地面へ降りる。
途端、思った通りに重さが圧し掛かって来て、浮いた臓腑が下へ押された。何度かこの感覚を味わった事があるが、やはり慣れる物ではない。
熊公も嫌そうな顔をして眉を顰めながら、手すりを掴みつつ慎重に進んだ。
――――と、床に扉を見つけて熊公がそこに鼻を近付ける。
「…………」
ここだ、と指で示すそこは、どうみても収納庫のようだが。
とりあえず開けて覗きこみ……ブラックは熊公と顔を見合わせた。
「ここか」
「ここだ。……とはいえ、人の気配は無いがな」
収納庫のように見えた床の扉の下には――――鉄製のしっかりしたはしごがあり、その下には広い空間が広がっているようだった。
人の気配は無いが、かなり広い空間で荷を積む部屋にも思える。
だが、上から見たその「倉庫」には……まるで、外の景色を確かめるためのような窓がいくつかついていた。
……本来ならば、倉庫にそのような窓などつけるはずもないのに。
(これは……どういうことだ……?)
熊公は、そこに「ツカサのにおいがある」と言った。
ということは、間違いなくツカサはこの部屋にいたという事になる。
罪人であり、外には出られないはずのツカサが船に乗せられていたという事は……やはり、この隠し倉庫に放り込まれて運ばれてしまったという事なのか。
だがツカサの身柄は恐らくアコール卿国には無いはずだ。
船に乗せられていたとしても、別の国に輸送された可能性は低いはず。けれども、可能性が無いと断じるのは軽率な事なのかも知れない。
(……そうだな。贋金の件だって、シアンは他国に工場があるのではないかと考えて僕達に依頼をして来たんだ。ツカサ君が冤罪を着せられた事だって、そういった普通ありえないような事が起きているのだから、他国との繋がりが無いと考えるのは早計だったのかも知れない。……しかし、だとしたらツカサ君を捕える意味は何だ?)
そこまで大がかりな組織だったとしたら、なおさら平時のツカサに冤罪を吹っかけて捕まえる理由が解らなくなる。
彼の本質を知っていれば「欲しい」と思うのは当然だが、この杜撰で痕跡を隠しもしない行動から考えると、その特殊な能力を狙っての作戦とは考えにくい。ツカサの【黒曜の使者】の力を狙っての誘拐だったのなら、犯人は十中八九ツカサだけでなくブラックの事も知っているだろう。【グリモア】の凶悪さも、承知しているはず。
だというのに、こちらの能力を知っている相手が、容易く痕跡を辿れるような方法でツカサを奪おうと考えるはずがない。
(これが【アルスノートリア】の仕業だったとしても、あいつらならこんな小細工をしなくたって力に任せてツカサ君を攫えるだろう。そもそも、今のところツカサ君を狙う理由も無いし……あの【菫望】が動いたとしたら、もっとえげつない方法を取るだろうしな……)
強大な力を持つ者であれば、手段は数限りなく生まれる。
なにも兵士達を操る必要も無かったはずだ。
そうなると……やはり、これはツカサの「表面上」を見て行われた事件になる。
(だけど、ちんちくりんでむにむにのツカサ君なんて、強姦目的以外で欲しがるもんかなぁ。そりゃ僕だってお嫁さんにしたいと思って指輪を贈ったけど、冒険者としての力はザコもザコだしなぁ)
曜術師としての力を欲しがられたのだろうか。
メスとしての色香も普段は出てこない、生娘のようなツカサではあるが、曜術師の能力で考えれば有能と言えるし、ふとした瞬間に出てくる生唾を飲んでしまうような魅力を知ってしまえば彼を手放したくなくなるが……それらを一発で見抜かれたとは考えにくい。同属性の曜術師とて、相手の力量を測るのは難しいのだ。
となると、やはり見た目に関係する事のような気もするが……。
自慢ではないが、強者と一目で分かる自分達が狙われず、人畜無害そうなツカサが狙われる理由があるとすれば――――若さぐらいだろうか。
(でも、若さが必要な事ってなんだろうなぁ……労働とか……?)
そんなもの、ツカサが一番苦手としている事だろうに。
と、考えて……ブラックは、ふと自分の左手の指に巻き付く指輪が目に入った。
(…………まさか、まさかね)
考えて、一応指輪に大地の気を籠めてみる。と、濃密な琥珀色の宝石がゆっくりと光を含んで輝きだし、周囲を照らしながら蝋燭の火のような光を膨らませた。
「――――え?」
「なんだ、どうしたブラック」
今まで下を覗き込んでいた熊公が、ブラックの無意識の声に顔を上げる。
しかし、その視線はブラックではなく指輪の向ける光にすぐに移動した。
「これは……」
「動いているな。光が。……どういうことだ。ツカサの居場所が動いているのか?」
首をかしげる熊公だったが、ブラックはハッとある事に気付き立ち上がると、一気に階段を駆け上がって甲板へと戻った。
そうして、周囲を確認する。
「はぁっ、はっ、は……っ! も、もう洞窟……っ」
船は無事に滝を下ったのか、薄暗い洞窟の中を走っている。
水の曜術師と船頭が上手く音頭を取っているらしく、激流の中でも突き出した岩を避けて壁や障害物にぶつからないように進んでいた。
だが水がぶつかる音は洞窟に響いて轟轟と煩く、ブラックは顔を歪めながら、船の明かりが届かない洞窟の奥へと左手を思いきり伸ばす。
見えない何かを掴むような頼りない動きだったが、しかし指輪は……しっかりと、ある「一定の方向」を必死に伝えるように、光をゆらゆらと伸ばしていた。
「……!! やっぱり……!」
「どうしたんだ、何か気が付いたのか?」
追って来た声があるが、ブラックにはその微かな音を気にする暇など無い。
徐々に光が差す方向が遠ざかって行くのに焦って船尾へと戻り、左手の方向に手を動かして、琥珀色の灯が指す方を見定めようと目を動かしたが……やがて、光が完全に一点の方向しか向かなくなった事に気付き、手を垂れた。
「その光は……ツカサの指輪がある場所を示す光か」
横に並んできた影があるが、返事をするのも鬱陶しくてただ首を縦に振る。
やっとツカサが捕らわれている明確な位置が分かったというのに、自分はその場所を特定できずに流されてしまった。
不甲斐ない結果に臍を噛むが、しかし悠長にしても居られなかった。
「お前の指輪が示したという事は、ツカサはこの洞窟の中にいるんだな」
「……多分な。だが、ここに入るには再びギオンバッハに戻る必要がある。仮に入口が在るとしても、見つけるのは難しいだろう。ツカサ君がこの船に乗せられて、別の場所に移されたのだとしたら、ここから行くのが一番簡単なはずだ」
「こんな場所なら、誰もここから囚人が消えたとは思わないだろうしな」
熊公の言葉に、ブラックは「そのとおりだ」と息を吐いた。
そう。ツカサは間違いなくここから何らかの方法で連れ出され、この急流の洞窟のどこかにある場所に囚われているのだ。
この指輪が示した光は絶対だ。間違えようがない。だからこそ、確信できた。
ツカサはこの……国境の山脈の真下を通る、急流の洞窟にいるのだと。
(なるほどね、ははっ……ここは盲点だ。国境の山脈なんて誰も入りたがらないし、その真下を通る洞窟だって、一般人からすればただの通り道だろう。こんな所に後ろ暗い空間が作られているなんて考えもしないに違いない)
だから、ツカサの指輪は一定の方向から動かなかったのだ。
詰所の向こう側には、ギオンバッハ大叫釜が在る。
そしてその更に向こう側には――――――国境の山が聳え立っていたのだから。
「ツカサ君……」
愛しいツカサに贈った指輪の片割れは、もう随分と離されてしまった。
この距離から考えると、恐らくツカサが捕らわれている場所は山の中央部分だ。川の流れの速さも相まってすぐに遠ざかってしまったが、位置が解ればそれでいい。
むしろ、こんな人気のない場所に連れて来られたのは……好都合だ。
(その方が……何が起こったってツカサ君に言い訳出来るしね……)
考えて、ブラックは無意識にニヤリと笑った。
剣を突き合わせる相手に「敵」しか居ないのであれば、心が優しいツカサも自分の所業を咎めはしないだろう。まあ、そうは言っても敵にまで同情してしまうツカサだ。勝手に傷付いて、勝手に病むのだろうが。
(でも、僕が……僕さえいれば、ツカサ君は元気になってくれるもんね……?)
どれほど罪深い事を犯したとしても、ツカサはブラックから逃れられない。ツカサにも、この穢れきった自分を愛してしまっているという自覚が在るのだ。どんな事をしても、病んでも、きっとツカサは自分の望むように心を切り替えて乗り切り、元に戻ってくれるだろう。彼は、そういう子なのだから。
しかし、そうなった場合、一時でも他の存在がツカサの心を支配してしまう事になるが……まあ、仕方が無い事だろう。何かを排除して心を晴らせば、他の場所で何か厄介事が生まれる。世界はそう言う物なのだ。
まったくもって、人の世は煩わしい。
こんな風な事はもうたくさんだ。何もかもが終わったら、どこか人知の及ばぬ場所にツカサだけを連れて消えてしまいたい。そうすれば、もうこんな面倒事に関わって悩む事もなくなるのだから。
……とはいえ、その野望を実行するにしても……まずは、ツカサを悪漢共から奪い返さねばならないのだが。
(まあ……いっか。どんな事になっても、ツカサ君は僕のものなんだから)
空っぽの自分に残った、最後の「大切なもの」をみすみす手放すつもりはない。
例え何もかもを敵に回そうとも、彼がそばに居ればそれで良い。
ツカサが離れたいと望んだとしても、最早それを叶えてやるつもりも無いのだ。
……故に、手段は選ばない。
彼を自分に縛り付けて完全に堕とす前戯は、まだ終わっていないのだから。
――――考えて息を吐いたブラックに、薄暗い中で熊公が問いかけて来た。
「ムゥ……おまえ、悪そうな顔をしているな。何を考えているんだ」
その問いに、いつの間にか歪んでいた口を更に笑みに歪めて、ブラックは笑った。
「……相手が悪人“だけ”なら、遠慮する必要も無いだろう?」
何の遠慮も無くそう言い切ったブラックに、熊公は何の感情か僅かに眉を上げたが、しかし否定する事も無く即座に頷いた。
「うむ、暴れ損ねたところだったしな。悪人相手ならば、殴り殺すぐらいはツカサも許してくれるだろう。そう考えると楽しみになって来たぞ」
拳を掌に打ち付けて、にわかに活気づく熊公を呆れた目で見やるが、ブラックは否定する事も無く剣の柄に手をやって暗がりの洞窟を見つめた。
(待っててねツカサ君……ギルドの事を報告したら、すぐに助けに行くから……)
ギルド、警備兵、そしてこのギオンバッハ。
全てに抱いていたこの違和感は、恐らくすべて氷解するはずだ。
それがツカサに出会う事で起こるのだと考えれば、何故か異様に興奮が増した。
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