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謡弦村アルフェイオ、陽虹を招くは漆黒の王編
15.歪んだものか正しいものか
しおりを挟む蜘蛛のような目をした大きな犬だなんて、見た事が無い。
普通の目が付いているはずの場所に、蜘蛛の目のような丸い目玉が横一列で並んでいる姿は、あまりにも非現実的で思わず体が竦んでしまう。
爪は鋭く、耳だって炎のように毛が逆立ち、角のようにぴんと立っている。
そういえば鼻は猿に近い。それなのに口は犬と一緒で大きく裂けて、気味の悪い色の舌をちらちらと覗かせながら、鋭い牙からも涎を滴らせていた。
明らかに、普通の犬ではない。
そのモンスターが俺達を喰らおうとしているのも、容易に知れた。
「あっ……あやつは“呪い犬”じゃ、いかん、あやつだけは……!!」
オサバアが心底恐怖しているような叫び声を漏らす。
呪い犬。あまりにも簡単な名称過ぎて拍子抜けしそうになるが、誰にでも覚えられる名前にしてあると言う所からして、相手が村人全員の恐怖の対象である事が判る。あの蜘蛛の目をした犬は、彼らが呪いと呼び恐れるほどの存在なのだ。
「ブラック、呪い犬って分かる?」
俺を抱えているブラックに聞くが、その表情は硬い。
「いや……だけど、長年この村の住人を悩ませ続けてきたモンスターなんだろうね。あの姿は普通のモンスターとは違うよ。なんというか……“歪なもの”のようだ」
「いびつなモノ……」
何だろう、今、さっきよりも強く背筋に悪寒が走った気がする。
思わず体を緊張させる俺に気付いたのか、ブラックは俺を降ろして背後に置いた。
何をするのかと思ったら、再び剣を抜いて呪い犬を見やる。相手はどの獲物から先に食べるか迷っているらしく、首をゆるゆると動かしていた。
「ブラック……お前まさか、戦うのか?」
この状況で剣を抜いたのなら、それ以外に考えられない。
思わず問いかけてしまった俺に、ブラックは軽く振り向いて横顔で苦笑した。
「まぁ、どいつもこいつも頼りなさそうだしね。僕がやるしかないでしょ。ツカサ君以外の奴らを助けるのなんてゴメンだけど、そうも言ってられないし」
「か……」
勝てる? と、思わず聞いてしまいそうになって俺は口を噤んだ。
いや、ブラックが負けるワケがない。心配から来る不安を振り切り、俺は笑った。
「ブラック、頼んだ。俺は……また殺されないようにしておくよ」
そう言うと……ブラックは、心底嬉しそうに顔を緩ませて頷いた。
「うんっ、行って来るよ! さっさ終わらせてツカサ君とセックスしたいしね!」
「ばーっ!!」
か、と叫ぶ前にブラックは目にも止まらぬ速さで飛び出した。
その大柄な体に似合わぬ俊敏な足さばきで地を駆けて、今まさに動き出そうとしていた禍々しい異形の犬に向かって、跳ぶ。
「ッ……!」
いや、あれは「飛ぶ」と言った方が正しいのかも知れない。
それほどの跳躍力でブラックは“呪い犬”の眼前まで高々と跳び上がったのだ。
「バカな……!! あ、あんなに高く……!」
ギルナダの声が背後から聞こえる。
だが、きっとブラックは聞こえていないだろう。犬の頭が引き、攻撃を反らそうと前足を振り上げブラックを狙おうとする。だが、その寸時の動きすらもブラックは察知して、空中で器用に体勢を変えると前足を踏み台にし前へ一気に跳んだ。
剣が、陽の光を浴びて煌めく。後はもう――――心配して見るだけソンだ。
「うっ……!」
振り返えると同時、呪い犬のけたたましい悲鳴と何かが噴き出す音がする。
ギルナダとオサバアは、俺の後ろを見てこれ以上ないくらいに目を丸くしていた。さもありなん。だってブラックは……誰も敵わないんじゃないかってほど、凄く強い冒険者で曜術師なんだから。
だから、俺も背を向けていられるんだ。
あんな奴、ブラックの敵じゃないって分かるから。
「……ムアンさん、何もしないんですか」
ブラックが、あのモンスターを倒してくれる。何が来たって、ブラックなら何度だって退けてくれる。だから、俺は自分に出来る事をやらなくちゃ。
俺が、これ以上何か引き起こさないようにムアンさんを止めるんだ。
そう思い、しっかり地面に立つ……つもりだったのだが、まだ力が戻ってないのかガクンと体が傾いでしまい、藍鉄に支えて貰ってしまった。う、うう、情けない。
そのまま藍鉄に半ば強引に背に乗せ上げられて、俺はムアンさんに近付いた。
「これが、貴方の望んだ事なんですよね」
歩み寄ると、こちらの動きに気付いたギルナダが「危ない」と言わんばかりに近寄って来ようとした。だが、俺はそれを手で止めて、馬上から再度問いかける。
「村が滅ぶかもしれない。それが、貴方の望みだったんですか」
ただ立ち尽くして、無表情で目を見開いているだけの彼女に問いかける。
まるで人形のように動かなくなってしまっていた彼女は、その俺の言葉に急に意識を取り戻したようになって、顔を上げた。
「ほろ、ぶ……?」
まるで、初めて聞いたような顔で俺を見る。
その紅暗色の瞳には相変わらず光など無かったが、それでも彼女は今までよりもずっと人間らしい顔をしていた。
やはり、何か変だ。今更、何も知らないような顔をして驚くなんて……。
「霧を晴らせば、霧の中で迷っていたモンスター達が襲ってくる。そうですよね? なのに、どうして霧を晴らしたんですか」
「おい、ツカサおめぇ、なに言ってんだ……」
ギルナダは、意味が解らないようだ。
そりゃあそうだろう。だって、この村の人達にとっては「霧を晴らせばモンスターがやってくる」と言うのは当たり前の事なんだ。それ以上でもそれ以下でもない。
だからこそ、霧が晴れた事に対してここまで恐怖しているんだ。きっと、坂の下に居る人達も今頃大混乱しているだろう。
だけど、ムアンさんはそうじゃない。
それを知っているのに、知らないような顔をして今更驚いているんだ。
だからこそ、おかしい。崖から落ちて……恐らく、長い間行方不明だったのだろうが、そのせいで記憶を失っているとしても肝心な所だけ忘れてるなんておかしいし、もし彼女がマトモだったら、驚くだけでなく取り乱しているはず。
……悪気は全くなく、それでいて驚いたとしても取り乱しもしない。
こんなの……記憶を失っているだけだとしても、やっぱり変だよ。
本当に「良いこと」だと信じてやっていたとしたら、彼女の中で決定的に「今までと違う変化」が起こっているに違いない。それが何なのかは判らないけど……でも、見極めようとすることは悪手じゃないはずだ。彼女が今までの行為を善行だと信じていたのなら、尚更。
「ムアンさん、霧を晴らせばモンスターがこうして襲って来るんですよ。これでは、村を守る事にはならない。前に進む事も出来ないんじゃないんですか」
「…………ぁ……あ、ぁ……」
「姉さん……?」
にわかに震えはじめたムアンさんに、ギルナダが問いかける。
だが、その声に坂の下の方から大勢の怒号や悲鳴が割り入って来た。
「ッ……!! まさか下にも獣が……!?」
「ギルナダ行け! ここは俺達に任せろ!」
こうなっては一刻の猶予も無い。俺はギルナダを縛めていた蔓を解除すると、彼に強い声で呼びかけた。しかしギルナダはムアンさんの事が気になるようで、わずかに逡巡していたが……俺達の事を信じてくれたのか、下の方へ降りて行った。
「ツカサ君! こっちからもどんどん来るよ!」
「うぐっ……た、頼む食い止めてくれ!」
霧が晴れた事によって、モンスター達がにじり寄って来る。
くそ、話している暇すらないってのかよ!
だけどこのままムアンさんを放っておけない。
どうすべきかと再び彼女を見ると――
「き、霧……霧を、晴らす……霧を晴らすと、何が……何が、おこる、おこ、る?」
「ムアンさん……?」
彼女は頭を抱えて、瞠目しながらその場に膝を付いていた。
まるで、今まで自分がやって来た事を信じられないとでも言うように。
「ムアン、お主……」
今まで黙っていたオサバアが、ムアンさんに近付いて来ようとする。
と、彼女はいきなり背筋を伸ばしてガクンと頭を揺らすと天を仰ぎ、そのまま大仰に震え出した。まるで……何か、体に不具合でも起きたかのように。
「ムアンさん!?」
「あ゛ッあ、アァあぁア゛、あ゛ア゛あ゛ア゛ア゛ぁア゛あ゛あ゛ァ゛あ゛!!
彼女の爪がモンスターと同じように鋭く尖り、異様な長さに伸びる。
急に立ち上がった彼女の横顔は、最早表情とも言えないようなほどに歪み、まるで牙を剥き出しにした獣のように目を爛々と光らせていた。
さっきまで、目に光なんて無かったのに。
「あ゛ぁ゛あ゛ア゛あ゛!!」
「オサバア!!」
驚く俺を後目に、彼女は少し離れた場所に居たオサバア目掛けて駆け出す。
その姿を見て、俺は思わず手を出し彼女を止めようと力を込めた。だが、間に合わない。蔓を出す暇がない、炎は使えない、殺す気でいかないと彼女はもう止める事も出来ない。それほどまでに正気を失っていた。
藍鉄が動くが、もう遅い。一瞬躊躇った俺を嘲笑うかのように、彼女は“大切な村の人間”に凶器と化した鋭い爪を振り上げ――――
その、瞬間。
「だから言ったんだよ。先に殺しておいた方が良いって」
いつの間にか彼女の背後に居たブラックの剣に、脇腹を貫かれていた。
「――――!!」
「ムアン!!」
思わず叫ぶオサバアの目の前で、ムアンさんは一瞬大きく痙攣すると、そのまま剣から逃れるように体を前に動かし倒れる。
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……だけど、ブラックは譲歩してくれている方だ。
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今は人でなしだけど、俺にだけは優しい。
ちゃんと、優しい所は有るんだよ。だからムアンさんを殺さずにいてくれた。
その事に感謝しながら、俺は倒れ込んだままの彼女を仰向けに動かす。マントには血が付着しているし、きっとかなりの深手を負っているだろう。
「ムアン! しっかりおし!」
いつのまにかオサバアが俺達のすぐ傍に来ていて、彼女の名を呼んでいる。
だが、ムアンさんは応えない。ただ倒れたままで、ぴくりとも動かないのだ。
これはまさか、ショックで気を失っているんじゃ……それだとヤバいぞ。早く彼女を手当てしないと。そう思い、彼女の患部に触れるために仰向けにする。
と……そこで、ある事に気付いた。
「え……あれ……?」
目を瞑って動かないムアンさん。
あんなに深々と脇腹を刺されたのだから、大量に出血していてもおかしくないはずだ。それなのに彼女の腹からは……血の一滴も出てはいなかった。
あの血液は、モンスターを斬り続けたブラックの剣から染みた血だったのだ。
「な、なんで……」
「ムアン……痛くないのか……?」
オサバアの声に、彼女は薄らと目を開ける。
けれどその顔は再び表情を失っていて。
「…………そう、か……私、は……なんて愚かな、ことを」
「ムアン、待ってな今手当てを……」
オサバアが慌てて言うが、彼女は微かに首を振る。
そうして、何故か俺達を見た。
――――陽の光を孕んだ、橙色の瞳で。
「邪悪は……放たれ、た…………ふた、たび……こ……と……が……」
「な、なに言ってんだ。ムアン、しっかりおしよムアン!!」
オサバアが彼女を抱き抱える。
だが、彼女はまるで今やっと呼吸をし始めたかのように、目を閉じて安らかな顔で息を深く吸いこむと……ゆっくり目を開けて、泣きそうな顔で彼女を抱えているオサバアを見上げた。
「かあ、さん…………ごめん、ね」
「あ……あぁあ……!」
母さん。
今にも消え入りそうな声でそう呟き、ムアンさんは目を閉じる。
瞬間――――
彼女の体は急激に潤いを失い萎み始め、最後には骨へと変わってしまった。
「――――……ッ!!」
目を見開いて絶句するが、声は出せない。
出す事なんて出来なかった。
だって、彼女は……自分の母親の前で、二度目の死を迎えてしまったのだから。
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