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聖都バルバラ、祝福を囲うは妖精の輪編
29.言葉に表せないほどの
しおりを挟む「あ……あぁ…………っ」
獰猛な爬虫類のような瞳に、上向きの牙。小さな前足の鉤爪は、最早俺の世界のウサギとは全く違う凶暴なもので、その巨体は見事な赤い毛皮に覆われていた。
みなごろしという名を含んだ、恐ろしいウサギの魔物。
その、魔物が……俺達の目の前に、立ちはだかっていた。
「コダマ、ウサギ…………」
――ヤバイ、このままじゃ殺される。
だけど今の俺は攻撃魔法を使うほど精神が耐えられない。
アクア・レクスを使った後にも関わらず、こうして曜術を使えているのは、俺に注がれ続けている大地の気のお蔭だ。でも、あの疼くような感覚は続いていて、ウォームやラピッド程度の簡単な曜術しか使えないし、不利な属性に囲まれたこの場所で木の曜術なんて、とても……。
「グルルルルル……」
「っ、う……」
赤く艶やかな毛皮に覆われたコダマウサギのボスが、俺をじっと見つめる。
その恐ろしい出で立ちは今にも逃げ出してしまいそうな程の迫力だったが、俺はなんとか相手に隙が出来ないかと視界の隅々にまで意識を配った。
だけど、どう逃げても相手に捕まるのは明白で。
……どうしよう。こんな所で立ち止まっている訳にはいかないのに。
早くしないと、ブラックが……。
「グルルゥ……ガァアァアアア……」
「ひっ……!?」
唸り声が変化する。それと同時に、コダマウサギがゆっくりと俺の方へ頭を下げて近付いてきた。なんだ、これ。まさか俺を食べようとしているのか。
だけど……涎を垂らしているワケでもないし……興奮していると言うより、相手は俺の様子を窺っているような……。
考えて、俺はふとコダマウサギの話を聞いた時の事を思い出した。
確か、恐ろしいほど強いと言う赤いコダマウサギに遭遇した時でも、このフードを被っていればどうにか逃げられると言う話を聞いた気がする。
だけど、無事に逃げるには、コダマウサギ同士が交わす“挨拶”を完璧にやり遂げなければならず、それが出来ずに逃げて殺される奴が多いと言う話も聞いている。と言う事は……これは、挨拶をしようとしているのか。
だとしたら、俺達が生き延びるには……このコダマウサギのボスと完璧に挨拶を交わして、円満にこの場を立ち去るしかない。
「グルルルル」
顔が近付いて来ると、生臭い鼻息が顔に掛かってくる。
俺が黙っているのを相手は気にしていないと言う事は、言葉が挨拶と言う訳ではないらしい。と言う事は、なんらかのボディランゲージが必要と言う事なのか……でも、この恐ろしい顔を近付けられるのは流石に逃げ出したくなる。
喰われるかもしれないと言う本能的な恐怖は、どうしても拭える物ではない。
自分が今生きているからこそ、守るべきものが背後のあるからこそ、俺の理性は正常に恐怖を吐き出しているんだ。
けれど、今の状況ではそれが鬱陶しくて堪らなかった。
怯えているのを悟られてしまえば、確実に食われる。
そうなれば、もう、ブラックを助けられない。
「グゥウ、グルルルルァァア」
コダマウサギの鼻先が、近付いて来る。
思わず硬直した俺の鼻の頭に、相手は自分の鼻先をぐいっとくっつけて来ると、においを嗅ぐように鼻を動かし始めた。
人間だと、バレる……か……?
思わず冷や汗をかいたが、しかしコダマウサギは唸り声のような音を喉で転がして、それから俺の鼻の頭と唇を長くて大きな舌でぺろぺろと舐めた。
な……舐めた……?
もしかして、これがコダマウサギの「挨拶」……?
……ああ、なるほど……逃げ出すわけだ……。自分を食い殺す相手にこんな事をされたら、誰だって逃げ出してしまうだろう。
今の俺はブラックが居るから逃げられなかったが、でも普通の状態の俺だったら逃げるか失禁しているかもしれない。
捕食獣に自分の体の一部を触られると言うのは、それだけ恐ろしい事だった。
だけど、今のは挨拶だ。
そしてこの状況を乗り切るには……俺も、同じ事をしなければならない。
「グルルルルル」
相手のコダマウサギは少し顔を離して、俺をじっと見つめ首を傾げる。
まだ殺気を発しもしないで俺をただ見詰めていると言う事は、やはり相手は俺に挨拶を求めているのだろう。危険が無いのなら、考えるまでも無い。
俺は覚悟を決めて、唾を飲み込むと……目の前のコダマウサギの鼻に自分の鼻をつけて、生臭い血の臭いがこびりついた顔の臭いを嗅いだ。
「グルル」
音は怖いけど、これは怒っていない。ただの鳴き声だ。
やはりこれが正解か。なら、次はもう決まっている。
「…………っ」
俺は舌を出すと、さっきコダマウサギがやったのと同じように、コダマウサギの鼻頭をちろちろと舐めた。
「グルルルルルッ」
くすぐったいのか、なんだか鳴き声が違う。
だけど悪い気はしていないみたいだ。良かった……じゃあ、あとは……口か。
口を噛み切られてしまわないか怖いけど、でも、やらなきゃならない。
少し屈んで、大人しく俺を待つ相手の口におそるおそる近付くと、普通の猫や犬のように鼻の下から割れた口の線にちろりと舌を這わせ、牙が覗く口の合わせを、相手には小さすぎる舌で何度か舐めた。すると。
「グルルルル、キュゥゥウウウ……クゥウウウウ……」
高い声……なんだ、興奮してるのか? それとも、不快なのか。
心配になって相手を見上げると、コダマウサギは目を膜のような物で覆い、唯一ウサギらしい耳を小刻みに震わせていた。
思わず退いてしまうと、相手はその目の膜を薄らと開いて俺を見る。
相変わらず怖い目だ。
だけど、俺を見詰めるその眼差しは、獲物を見るような目では無かった。
「あの……」
思わず声を出すと、コダマウサギはまた高い声を上げてぶんぶんと首を振る。
何が起こったのか解らないまま唖然としている俺に、赤いコダマウサギは爬虫類のような目を向けるとくねくねと体を動かした。何か怖い。
何をしているのか解らないままポカンとしていると、相手はまた高い声で鳴いて、そのまま俺に背を向けてどこかへと行ってしまった。
「……たす、かった…………?」
良く解らないけど、でも、俺の挨拶は「正解」だったらしい。
これで動ける。早くブラックを洞窟に連れて行かないと……。
「洞窟、洞窟はどっちだ……」
コートのウサミミをくるくると動かして、俺は風を吸い込む洞窟の音を聞く。
ずっと被っているからか、徐々にこのコートの使い方が解って来た。……まず、この耳は聞こえる音のボリュームを自在に調節できる。その上、集中具合によって広範囲を聞き取れるようになるし、微細な音すら聞き逃さない。自分の聞きたい音を見つけると、ウサ耳がその音をロックして追尾出来るようにもなるのだ。
これは恐らくコダマウサギ固有の能力なんだろうが、これほどまでに有用な聴覚強化装備は他にないだろう。本当に凄いコートだ……買ってて本当に良かった。
……ただ、この能力はコダマウサギの能力な訳で、それを考えると彼らの集団に出会った時が怖くて仕方ないが……考えていても仕方ない。
俺はラピッドを掛け続けながら、今出来る限りの速さで洞窟へと向かった。
「はっ……はぁ、は……っ」
背中が冷たい。ブラックのコートにどれだけ雪解け水がしみ込んだのか解らないが、洞窟に着いたらコートは脱がした方がよさそうだ。
そして火を焚いて、温度を上げて、それから……それからどうすればいい。
とにかく、早く洞窟へ。吹雪がこれ以上酷くなるとブラックが危ない。
脇目もふらずにただ洞窟の音が聞こえる方向へと走っていると、やっと目の前にうっすら洞窟を持つ巨大な岩屋が見え始めた。
山も遠い場所にいきなりぽつんとある巨大な岩は、洞窟がぽっかりと開いている事もあってか、どうも人が住む家のようにも見える。
せめて、人の家ほどに防寒の効果が有ればいいのだが……。
次第に肺を圧迫してくる呼吸で喘ぎながら、俺は最後の力を振り絞り洞窟の口へと駆け込む。そうして、勢いよく倒れ込んだ。
「っぐあぁあ!!」
ずざざ、と雪では無い地面の音がして、ここが洞窟の中なのだと解る。
そんな俺の姿に気付いたのか、洞窟に居た先客が声を発した。
「ツカサ、くん」
…………アドニス……。
やっぱり、別の洞窟って訳じゃ無かったのか。
……悪いけど、今はあんたと話したくない。
俺は咳き込みながらも必死で呼吸を繰り返して息を整えると、自分の上に力なく乗っかっているブラックを洞窟の奥へと引き摺った。
入り口の付近は寒い。もっと、もっと風の来ない奥へと行かなければ。
徐々に外の光が届かなくなるが、そんなものは俺が曜気で「フレイム」を出せば済む話だ。それよりも今はブラックの体を温めなければ。
「ブラック……!!」
ようやく風が来ない所まで辿り着くと、俺はブラックを降ろして頬を叩く。
……やはり、冷たい。息はしているが、かなり弱くて不安だ。
「ええと、まず……炎を…………」
と、思って、俺はある重要な事に気付いた。
「薪が……ない…………」
そうだ。薪が無いのだ。
俺がフレイムを使えると言っても、術をずっと発動し続ける事は出来ない。
恐らく、俺がフレイムを発動し続けられる時間は、焚き火が燃え尽きる時間より短いはずだ。なにより、ブラックを介抱するためにはフレイムだけを発動している訳にもいかない。焚き火だけではブラックの体は温まらないからだ。
だから、どうしても焚き火が必要だった。
でも、このままではどうする事も出来ない……。
どうすべきか焦っていると、背後から急に明るい光が近付いてきた。
「なっ…………」
思わず振り返って、俺は言葉を飲む込む。
そこにいたのは、なんと……掌に発光する物体を宿しているアドニスだった。
「…………灯りが要ると、思いまして」
相手の声は、元気がない。だけど、協力する気ではいるようだ。
俺はその言葉に応えずにブラックの方を向き直ると、服を脱がし始めた。
濡れた服をいつまでも着ていたら、体温なんて上がるはずがない。
そのまま裸でいるのは得策ではないが、俺には「ウォーム」という新しい曜術が有る。それで温めて大地の気を注いでやれば、ブラックも息を吹き返すはずだ。
濡れたコートや水が染みてしまった服を脱がせてズボン一枚にし、俺はもう一度相手の心音を確かめるため胸にウサ耳を当てた。
「…………弱い……」
ブラックの体は、まだ温かさを失っていない。この状態は多分、炎の曜気を発し続けた結果陥った「曜気不足」も関係している可能性がある。
炎の曜気の存在しない場所で術を使い続ければ、気は枯渇するしかない。
だとしたら、炎の曜気も与えなければ……。
「ブラック……目を覚ませ……!」
とにかく今は温める事。俺は心臓の所に手を当てて、ウォームを唱えた。
そうしてもう片方の手も添え、炎の曜気を体内へ送るイメージを作る。すると、今度は曜気を送ろうとする腕にだけ赤い光の蔦が現れて、ブラックの体にぴとりと張り付いた。片方だけの力で大丈夫かとは思ったが、ないよりましだ。
そうして温め続け、曜気を送り続けたが……一向に、ブラックが目を覚ます気配はない。……これは……やはり、寒さのせいなのだろうか。
「クソッ、この程度のウォームだけじゃ足りないのか……?!」
炎の曜気はたっぷり注いだはずだ。でも、それだけじゃ足りないらしい。
やはり、体の機能自体が弱っていては気だけではどうにもならないのか……。
だけどこれ以上温めるって、どうすれば…………。
「…………あ……」
考えて、俺は有る事を思い出した。
……それは、エロ漫画のワンシーン。山小屋に閉じ込められた二人が、寒さから逃れる為に全裸でひっつきあい、えっちに発展すると言う場面だ。
確かに人を温めるには人肌が最適だと言うし……もし、その状態で俺の体全体にウォームを掛けられたら……どうにかなるかもしれない。
だったらもう、悩んでいる暇なんてないよな。
「ツカサ君……?」
訝しげに俺の名を呼ぶアドニスに、俺はちらりと目をやる。
別に、呼ばれたからじゃない。俺はコートを脱いで、ぶっきらぼうに返した。
「今からする事に何か言うんじゃねえぞ」
服を脱いで下着だけになると、俺は自分の胸に両手を当てて息を吸った。
「…………全身を当てて、暖かさをブラックに伝えられるように……」
脳内で、自分の体から熱が移動するイメージを何度も作る。
そうして俺は仰向けに寝かせたブラックに圧し掛かった。
……ブラック、絶対に助けるからな…………!!
「我が体を伝い、この者の体に熱を宿せ……ウォーム……!」
そう呟いて、俺は裸の胸に体を合わせ、ブラックの首に抱き着いた。
体が熱い。だけどその熱は体内で巡る事は無く、じわじわと下がって俺が乗っているブラックの体へと染み込んでいく。……普通に温めただけじゃ、こんな感覚にならない。俺の【ウォーム】の術は成功したんだ。
だけど……ブラックの顔はまだ青白いままで。
「どうして…………」
「内部まで冷え始めているんです。……外部から体内へ気を送る事が可能だったとしても、全部の気が体内に浸透する訳ではありません。内部に直接気を送らなければ……彼は助からないでしょう」
アドニスが初めて口を出してきた。
気が浸透って……どうしてアンタがそんな事を知って……いや、そんな事を考えている場合じゃない。
それが本当だとすると、どうやって内部にまで熱を送ればいいんだ。
内部…………。
体の、中…………?
……そうだ、いつもやっている事の逆なら…………!
「ツカサ君?」
俺がブラックやクロウにされている事を、俺が自分でやれば……あるいは……。
アドニスの呼びかけに応えないまま、俺は体を少しずり上げる。
そうしてブラックの顔に近付くと、相手のちくちくする頬を包み込んで、躊躇うことも無くキスをした。
「っ…………」
唇が冷たい。本当に、危ないんだ。
俺はじりじりと痛みを訴えて来る目の奥と喉を叱咤しながら、ブラックの下顎を掴み、強引に少し口を開けさせた。
そうしてそこへわずかに舌を捻じ込んで、願う。
――どうか、ここからブラックの体内に熱が送られるように……
ブラックが、助かるように、と……。
「ん…………っ…………」
相手の素肌に己の素肌を合わせて、大きな手に自分の手を絡ませて、口を合わせながら相手の復活を願う。
自分の姿が滑稽でも無様でもいい。なんだっていい。
ブラックが助かれば、それで良かった。
だから、たのむから……目を開けて…………。
――懇願するように何度も頭の中で呼びかけながら、俺はウォームを掛け続け、合わせた唇から大地の気がブラックに流れ込むようにと必死でイメージした。
大地の気は自己治癒能力を増幅させる。今の状況で必要かどうかは解らなかったけど、炎の曜気だけではダメだと言うのなら、大地の気も注ぐしかない。
ブラックの心臓の鼓動が元に戻るなら、ブラックの体に熱が戻って来るのなら、なんだって捧げるつもりだった。
もう、あんな思いはしたくない。
あの地下水道遺跡の時みたいな、怖くて悔しい思いは。
「ブラック……!」
息を継ぐために一瞬だけ口を離す合間に、必死に呼びかける。
そしてまたブラックの口を塞ぎ、ただブラックに自分の全てを注ぐために一心不乱になっていると――――
「っ…………!!」
どくん、と、力強い音が……合わせた胸から、聞こえた。
「ブラック……!?」
思わず顔を離して呼びかけ、俺は両手をブラックの胸に当てる。
するとまた、どくんと心臓が脈打った。まだ少し冷たいけど、ブラックの体にちゃんと熱が戻ってきている。
頬も少し赤くなってて、指で触れたカサつく唇には色が戻って来ていた。
「は……。ぁは、は……あは…………よか、った……」
生きてる。
ブラックが、ちゃんと……生きてる……っ――――!!
「よか、った…………よがっだ……っ、う……うぇっ、よがっだよぉ……っ!」
ちゃんと心臓が動いてる。体が、暖かい。
確認するたび顔が痛くなって、涙がぼろぼろ零れて、声が上手く出せなくて。
もう、視界が水で歪んで目の前が見えず、俺はブラックの頭を抱き締めて素肌の胸に力一杯押し当てた。
「ぶら、っ、ぐ……う、うあぁ……ぶらっく、ブラックぅう゛……!!」
胸に、息がかかってる。もう、心配ない。心配ないんだ。
今はもうその事実を頭の中で繰り返すしか出来なくて、俺はしばらくの間ずっとブラックを抱き締めて泣き続けた。
自分の思いも、姿も、もうぐちゃぐちゃで何も解らなかったけど。
でも、たった一つ。
ブラックが生きていてくれた事だけは……ただ、嬉しくて仕方が無かった。
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