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アタラクシア遺跡、妄執の牢獄編
愛情
しおりを挟む相手が何に苦しんでいるのかを解ってやれないことほど、苦しい事はない。
初めてそれを知って、ブラックは戸惑っていた。
(ツカサ君……落ち着いたけど、熱が下がらないみたいだ)
禁書の間で何かの本を読んだ後、ツカサは高熱を出して今にも倒れんばかりになってしまった。ツカサ自身は心配ないと言っていたが、あの座り込んで泣いていた姿を見たら何かあったのは嫌でも解る。
ツカサは、自分が読めない禁書を読んでこうなったのだ。
だが、前後不覚に陥ったツカサに「どんな本を読んだのだ」と無理に訊く訳にもいかず、ブラックはツカサをおぶって第五層の休憩室まで運んで来たのだが……。
(どうしよう、熱が出たらどうすればいいんだ。これ以上、何をすればいい?)
冷たい水に浸した布を額に当て、安全な場所に寝かせて。それから、見守る者はどうすればいいのだろう。判らなくて、ブラックは熱に喘ぐツカサの苦しそうな顔に眉根を寄せた。
……実際、ツカサを休める方法を思いついたのは、ブラックではない。
ただならぬ雰囲気に駆け付けた、ベルナーという男が提案してくれたのだ。
そう、ブラックは人を介抱する方法などまるで知らなかった。
ただ泡を喰って抱き締めるだけで何もできず、弱っていくツカサを見ているしかなかったのだ。それを思うと、ブラックは悔しくてならなかった。
「ツカサ君……」
今目の前で眠っているツカサの髪を撫でて、口内を噛む。
――今まで自分は、知識を高める事で何でも知っているような気になっていた。
曜術も、世界のことも、本に書いてある事だけではない事すらも己の中に蓄え、無意識に「自分は賢者なのだ」と自惚れていたのだ。
……だが現実はどうだろう。
金の曜術師であるというのに、金細工では自分の納得のいく物も作れず、何でも理解している気でいたのにツカサの看病の仕方すら知らない。
そもそも、自分には人を想う心すらなかったではないか。
結局、ブラックは大切な事を何も学んではいなかった。
愛する人に渡すための贈り物の作り方も、人を愛する方法も、苦しんでいる大事な人間を楽にしてやる手当ての方法すらも――――知らなかったのだ。
「……はは……ざまぁないね」
三十年以上生きて来て、何を学んで来たのだろうか。
自分の頭の中にある知識なんて、ほとんど役に立たないではないか。
最初で最後だろう大事な相手を守る事すら出来ないで、なにが知識か。どこが叡智を守る“導きの鍵の一族”なのだろうか。結局、何もできないではないか。
千の知識が在ろうとも、神に至る力が在ろうとも、何も役に立たない。
ブラックにとっては、愛する人を救う事が出来ないのなら何の意味もない。
十八年蓄えてきた知識すら、今のブラックには無力な情報でしかないのだ。
今その事に気付いたからこそ、ブラックは酷く自分に失望していた。
「ツカサ君……僕ね、自分が無力だなんて、考えもしなかったよ。今までの人生を棒に振ってまで、誰かを助けたいと思う時が来るなんて……予想もしてなかった」
だって、みんな自分を嫌ったから。
自分の正体を知れば、誰もが自分を避けて行った。
だから、考えようも無かったのだ。
唯一受け入れてくれた仲間達も、ツカサのように受け入れてくれなかった。
みんな大切な人が居て、それゆえに自分は常にその存在以下で、その存在を守るために自分への温情は廃棄されていく。
だから、誰も大切に思えなかった。
やがて離れて行くと知っていたから、温情も恋情も何も信じなかったのだ。
だけど今は違う。
初めて、誰かを失いたくないと思った。
自分の身が傷つくのすら怖くないと思う程、なりふり構わずそばに居たいと思う程に、この異世界から来た少年を好きになったのだ。
最初で、最高で、最後の恋だと思った。
命をささげても惜しくないと思えた。
だから、どうしても恋人になりたくて。
この愛しくて仕方ない少年と一緒に幸せになりたくて、頑張って来たのだ。
――だけど、今の自分には、何もできない。
普通の事なんて出来なくていいと思っていたのに、今になって後悔するなんて。
「歳を重ねても、人間って成長しないもんなんだね……」
髪を撫でる手が、額の濡れた布を掠める。
布がぬるくなっているのを感じ、ブラックは布を冷やすために立ち上がった。
今回は桶を携帯していなかったので、布は水場で直接濡らさなければならない。
しかし水浴び場では布だけを洗うのが難しいため、少し遠い水飲み場に行かなければならないのだ。ツカサの傍を離れるのは不安だったが、隣でロクショウが寝ているので大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせて、ブラックは休憩室を出た。
「あ……ツカサさんの具合はどうですか、ブラックさん」
「……まだいたんだ」
休憩室を出ると、すぐ横の壁にレッドを凭れ掛からせて、自分も隣に座っているベルナーの姿が在った。そう言えば、ツカサを運び込むので精一杯で忘れていたが、彼らもまだこの階層にいたのだった。
心底興味もなく言葉を放ると、ベルナーは困ったように笑って頭を掻いた。
「あ、あはは……その……レッド様の術を解いて下さらないと、私も帰れませんので……。スフィンクスはともかく、スライムは私には倒せないランクですし」
「ああ、なるほど……。でも、悪いけどまだ解かないよ」
「心得てます。……解いて頂くのは、お二方が回復して、逃げられるようになってからで構いません」
随分と殊勝だな。
目を丸くしたブラックに、ベルナーは苦笑を深めて肩を竦めた。
「さっきも言いましたけど……私は、一族の者ではありませんので。……それに、ツカサさんが気を失って、驚くほどに慌てふためいていた貴方を見ては……もう、悪魔だなんて思えませんよ」
「…………」
悪魔と言う単語に少し顔を歪めたブラックだったが、相手はもうその表情に怖がることも警戒する事も無かった。
「人を狂い殺すような輩が、自分の愛する者が倒れてあれほど慌てるなんてありえませんよ。私も子供がいますから……そういう事は、解ります」
妻帯者だったのかと少し驚いたが、まあ、不思議な事ではない。
恐らくそれが普通なのだろうから。
そのことに少し羨ましさを感じながら、ブラックは目を細めた。
「僕は悪魔だって言われてるんだろう? ならその考えは短絡的じゃないのかい」
「はははっ。だったら、私達に背を向けてこの部屋まで駆け込んだりしませんよ。人を思う感情が有ればこそ、あんな風に周囲を気にせずに必死になるのです。……貴方は人ですよ。間違いなく。それも……大事な物を、心をちゃんと持っている」
「……ベルナー……さん」
呆気にとられて呟くブラックに微笑みながら、ベルナーは背筋を伸ばした。
ブラックよりも貧弱で、老いが見えているような体の相手であるのに、その姿は少しも情けない物には見えない。
寧ろ、年相応の成長を見せた、まともな大人にみえた。
「私の宗教は、ナトラ教でしてね。その教義にはこうあるんです。『悪人であれ、一人でも大事に思う者がいるのなら……その者は全ての愛を解せる者である』と……。まあもちろん、それが常であるとは言いませんが……けれど、貴方は今私達の事など気にもしていない。それが、答えでしょう。人を守ろうとする存在は、悪魔とは言えません」
「……そんな事を言われたのは、初めて……です」
「こんな事、普段は誰も言いませんからね。……ああ、引き留めてしまってすみません。さ、早くツカサさんの所に」
「あ、はい……」
ブラックは我に返って急いで水飲み場で布を濡らすと、部屋に戻ってツカサの額に布を置いた。冷たい布が熱い身体に気持ち良いのか、ツカサは目を閉じたままで薄らと微笑む。それが例えようもなく愛おしくて、ブラックは火傷しそうなほどに熱い頬に、そっと唇を寄せた。
「…………大事に思うもの……か……」
呟いた言葉が、やけに重く感じる。
だがそれと同時に途方もなく得難い物を得たような気がして、泣きたくなった。
大事に思うもの、という言葉の意味が、自分のすぐそばに在る。
こんなにどうしようもない自分のそばに居てくれる存在が、今ここにいるのだ。
愛を解せる。ツカサが居れば、ツカサにちゃんと「普通」の愛を与えられる。
その事を教えられただけで、ブラックは救われたような気がした。
「……僕は今まで、そんな事を言ってくれる人にすら、背を向けて生きて来たんだな……」
宗教などという面倒な物に縛られるつもりはなかったが、自分の生き方そのものを示してくれる存在と言うのは、確かに必要な物なのかもしれない。
この年まで生きて来て、初めて気付く事も有るのだ。
まったく、本当に自分の知識など他愛ない物だったと思わされる。
「それでも……君は……僕の事を凄いって、言ってくれるんだよね」
どんな知識を披露しても、ツカサはいつも自分を褒めてくれる。
自分が持つ情報を何一つ笑ったりせず、いつもブラックを頼ってくれるのだ。
そして、いつだって自分を振り向いて笑ってくれる。
「…………ん……」
少し声が口から漏れて、薄らとその琥珀色の瞳が瞼の隙間から見えた。
気が付いたのか、と慌てて近寄り、ブラックは顔を覗き込む。
「ツカサ君!」
「…………ら……く」
「うん、いるよ。ここに居るよ……!」
どうしたのと必死に問いかけると、相手は――――
幼さを残す顔で、微かに笑った。
「……い、て……よか……た……」
そう言うと、また目を閉じて安らかな寝息を立て始める。
どうやら少し熱が下がったみたいで、熟れた果実のように真っ赤になっていた頬は、赤味の強い桃色にまで薄まっていた。
思わずホッとして、ブラックはその場に座り込む。
これなら、あとは安静にしていればツカサはまた目を開けてくれるだろう。
「はぁあ……良かったぁ……」
大きな息を吐いて、ブラックはやっと気の抜けた笑みで笑った。
「……でも、僕は何一つできなかったなぁ…………」
ツカサの為に出来る事は、沢山あっただろう。
木の曜術師なら彼の熱を下げる術が使えた。水の曜術師ならばこの部屋を出ずに水を得られたし、手当ての方法を知っていれば彼を熱から守れたかもしれない。
その事を考えて、ブラックはふと気づいた。
「……守る…………」
他人を、守る。
言葉では理解していて、何度となくツカサを守ってはいたが……実際に、それをツカサに伝えた事はあっただろうか。それに、自分自身も「誰かを守る」と言う事をちゃんと考えた事が有ったのか。
天井を見上げて、ブラックは口を曲げた。
「…………愛する人を守るのが、本当の恋人……なんだっけ」
ベランデルンの街で働いている宝飾技師のゲイル師匠が言っていた。
男とは、愛する人を守るために命を懸けるものなのだと。
今更思い出すなんて師匠に怒られそうだが、それでも、怒られる事を考えるより、ツカサの顔を見たくなって、ブラックはもう一度ツカサの顔を見た。
「……僕が……君を、守る……」
この命を、笑顔を、相手を思うからこそ守る。
自分の浅ましい感情から来る防衛行為などではなく、ツカサの為を思うからこそ守るのだ。
そう。どこにでもいるような……ただの男として。
「……そうだよね……。ツカサ君、ごめんね……僕、もっと頑張るよ。君をちゃんと守れるようになるから……だから……早く、また僕に笑いかけて……」
一生守って見せるから、ずっとそばに居て。
その言葉をきちんと伝えるのは、まだ先の事になるだろう。けれど、それまでにはちゃんと、ツカサが自分に寄りかかってくれるような存在になって見せる。そう思って、ブラックはツカサの寝顔に微笑んだ。
そう、これからは「恋人」として、彼を守るのだ。
ツカサに甘えるだけではなく、この世界に孤独な存在として落とされたツカサが、自分の事を誰よりも頼りにしてくれるように。
そして、自分が渡したい「贈り物」を、笑顔で受け取ってくれるくらいに好きになって貰えるように。
「ツカサ君……今は……ゆっくり休んでね」
出来るだけ優しく、ツカサの唇にキスを落とす。
その感触にツカサがまた微笑んだような気がして――ブラックは、幸福に浸って笑った。
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