異世界日帰り漫遊記

御結頂戴

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パルティア島、表裏一体寸歩不離編

12.シーポート炭鉱窟―遭遇―

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「…………大体解って来たぞ」

 この数分、いや、体感時間で恐らく数時間。
 俺は鉱山のおおまかな情報をなんとか掠め取って、再び森へと戻って来ていた。

 探索サーチも鑑定も出来ない俺が使えるのは、己の目と耳と勘。そして、ブラックから貰ったこの【隠蔽術の水晶】だけだ。
 だが、この水晶と俺のゲーム仕込みのスニーキング能力(こそこそ隠れること。つまりスパイ映画的なアレ)を使えば、素人だってやってやれない事は無い。
 ふっふっふ、心臓バクバクで決死の潜入だったが、今となっては良い経験値稼ぎだったぜ。このくらい軽い軽い!


 いやーしかし、こんな所で日本人の心の遊び「だるまさんがころんだ」が役に立つとは思わなかったよ。あの遊び、相手が振り返る瞬間を察知する練習になってたんだな。ダチとバカやってた甲斐が有った。

 意外と白熱して面白いよな、だるまさんが転んだって。
 それはともかく、まずは頭の中の情報を整理だ。

「えーと、まずここは……シーポート鉱山だっけ? 炭鉱とも言ってたけど……そうだ、携帯百科事典に載ってないかな」

 植物図鑑とかモンスター図鑑以外は使った事がなかったが、確か辞書っぽい物も有ったんだよな。俺はこの世界の地名とか全く解らないんで、あんまし見てなかったんだけども……。
 いや、だってさー、有名どころはブラックが説明してくれるし、街の説明なんてその街に着いてから聞けばいい。なにより、街の人に聞いたらちゃんと教えてくれるしな。でもま、今はありがたい。

「えーと、シーポートシーポート……あった、これだ」

 簡易辞書にあった説明は、こうだ。


【シーポート炭鉱】
 ハーモニック連合国東方、アスカー州にかつて存在した炭鉱。
 その名の通り石炭を採掘していた鉱山だが、事故が発生し閉鎖された。
 現在は事故の原因である毒ガス浄化の為に周辺も危険区域に指定され
 アスカー州の私設兵団により警備が続けられている。


 以上、引用終わり。
 ちなみにアスカー州ってのはパルティア島があるアルシャシード州の隣なんだが、それよりもまず先にツッコミを入れたい部分が有る。

「閉鎖された炭鉱っていうワリには……めっちゃ人が居るんだけど……」

 この辞書が何年前の物かは解らないが、説明に誤りアリだな。今でも採掘は続いてるみたいだし、なによりここには私設兵団以外の人間がいる。
 って事は閉鎖されてないじゃん。

 やっぱりこっそり採掘してるんだろうか。
 俺の持ってる百科事典が昔の物だとしたら、閉鎖が解除されてるのかもしれないけど、クラレットは「シアンのせいでトンネルを使うハメになった」と言っていた。って事は、採掘に関してもまだ許可が出てない可能性がある。
 もしシアンさん達【世界協定】の裁定員がこの炭鉱を閉鎖したんなら、クラレットが恨みに思うのも、こうしてコソコソ採掘してるのも納得がいく。

「やっぱあのゲスいオッサンがこれをやらせてるんだろうな……」

 整備士っぽい兄ちゃん達もこの場所に来てたし、その予想は間違いないだろう。クラレットがこの炭鉱を牛耳ってるなら、あの私設兵団だって怪しいもんだ。金に目がくらんで言いなりになってたりして。

 なにせ、あんな巨大なトンネルを自分達だけで使ってるんだ、アスカー州丸ごと買収したっておかしくない。俺の世界でも海底トンネルを掘るには莫大な金と時間がかかるのに、それを掘っておいて自分達だけで使うってんだから、確実に普通の金持ちじゃないだろう。
 そうなると、クラレットは凄い実力者って事になるが……。

「うーん……でも、どうして閉鎖された炭鉱でまだ採掘してるんだ……?」

 そもそも、事故がどういう物だったのか、ガスの事もどうなったのか。
 毒ガス浄化作業中って事も有るかも知れないけど、だったら、トロッコにあんなに土塊つちくれを乗せたり、洞窟の近くにスコップとか置く必要あるかな。

「マジで盗掘だった場合どうすりゃいいんだろ……」

 一番確実なのは、シアンさんに報告する事だけど……その前に奴隷のように働かされてる男達が殺されたらヤバい。
 あんな扱い方をしてるんなら、証拠隠滅で殺すくらいワケないだろうし。

 もしあの人達が本当に守護獣達のご主人様だったら、殺された場合にどう謝ったらいいか解らない。ヘタに動いたら、こっちだけじゃなく奴隷になってるあの人達も危険だ。でも、どうすれば。

 俺が今持ってるもので有用なものっていうと……眠り薬ぐらいしかない。
 でも、これを兵士達に飲ませるなんて出来っこないしな。
 夜に忍び込むにしろ警備は厳しいだろうし。

「むぅう……やっぱ装備したって言っても、これじゃあな……」

 後方支援とは言え、俺は状態異常魔法とかアサシンスキルとかは持ってないしな。唯一スパイっぽい技と言えば、死角から攻撃できる葉っぱカ……いや、メッサー・ブラットだけども、怪我させたら元も子もない。
 山狩りで追われるのはいやですよあたしゃ。

 小屋に近付くにも二十歩じゃ足りないし、唯一近付けそうな施設は兵士の詰所だから危なすぎるし。いや、でも、警戒しすぎるのもどうか。
 俺には隠蔽術があるんだし、ある程度なら探れるかも。
 よし、うだうだしてても仕方ないし行ってみよう。

 俺はゆっくりと時間をかけ、音を立てないように移動すると、兵士達が頻繁ひんぱんに出入りしている施設に近付いた。

 兵士達が詰めてるってことは、ここが地下で見た「管理棟」だろう。
 まあ管理棟とは言っても、塔でも何でもないんだけどね。この世界ではお馴染みの煉瓦造りのビルっぽい建物だ。多分元はここが炭鉱夫達の寮だったんだろう。

 コソコソと動きつつ、俺は管理棟の裏に回る。幸いな事に森はその辺りまで茂っている。草も伸び放題だし、水晶を使わなくても楽々だ。
 そうして、いざ森から出ようとした時。

「グオオッ!! ガァアアッ!」
「ええい煩い、この、役立たずめ!!」

 聞き覚えのある下卑た声と、獣の鋭い咆哮が聞こえる。その声がぶつかる合間に何かを振るうような音がして、俺は思わずその音がする方に駆け寄った。
 そこは、管理棟の裏側に面する窓。慎重に屈みながら近付いて、俺は中の様子を探るべく耳をすませた。

「クラレット様、それ以上やると死んでしまいます」
「うるさい! この、くそっ、お前のせいで兵士が減るわ採掘量も減るわ、悪い事ばかり引き起こしおってッ! 貴様が必要でなければ今すぐ殺しておるものを!」

 叫ぶ声の合間に、鋭い音がする。
 その音がビシリと何かに当たると、また獣のうめき声がした。
 間違いない。これは、鞭の音だ。クラレットは鞭で獣をいたぶってるんだ。

「ハァッ……ハァ……わきまえろ……お前が逃げる度に、お前はまた何かを失うのだ……悲劇を繰り返したいのなら逃げるがいい! 今度逃げたら一匹殺す!!」

 大声で怒鳴ったクラレットは、ガシャンという檻を閉めるような音を立ててどこかへ歩いて行ってしまった。複数の足音がそれに続き、遠くの方でまた金属を合わせるような音がする。
 やがて、その場には苦しそうな呼吸の音だけが残った。

 ……ここって……もしかして、牢屋か?
 もう誰もいないよな、呼吸音以外に音はしないし……。

 気配を探りながら、俺はゆっくりと立ち上がってそっと中を覗いてみる。

「っ……!!」

 俺は、思わず息を呑んだ。
 誰にでも開け放つ事が出来そうな、質素な窓。だがその窓を開けて逃げる事など出来ない程に、部屋の中の生き物は疲弊していた。
 毛むくじゃらで、人の二倍はある体格。大きな手には鋭い爪があったはずだが、爪は無残にもすべて砕かれていた。

 その生き物は、茶色の毛をした、俺が良く知っている怖くて愛らしいもの。
 俺は窓に手をついて、その生き物の名前を呟いた。

「おまえ……熊じゃないか……!」

 狭い檻の中で、傷だらけで倒れている生き物。それは、俺が動物園で見た熊そのものだった。ドービエル爺ちゃんみたいに角も付いていない、大きな茶色の熊だ。だけど、熊はわずかに腹を動かして呼吸するだけで、俺に気付きもしなかった。
 これ、もしかしてかなりヤバい状態なんじゃ……。

 思わず窓に触れた手に力を籠めると、窓が不意に動いた。

「え……ひ、開くの……?」

 そりゃ、誰にでも開けられそうではあったけど、鍵も掛かってないって……檻の意味なくない? いや、まあいい。それより熊が心配だ。
 慎重に窓を開いて、俺は檻の中に足を踏み入れた。
 そうして、熊に近付く。呼吸を確認したが、かなり弱々しくて危ない状態だ。

「傷が酷すぎる……なんでこんな事できるんだよ……」

 熊はあの洞窟の檻の守護獣達のように酷い怪我をしていて、俺は顔を歪めた。鞭で体を引き裂かれた傷……やっぱり、あいつらと一緒だ。
 って事は、あの場所の守護獣達も、多分。
 俺は嫌な事実に眉を顰めつつ、回復薬を傷に振りかけた。

「グァッ……!」
「シーッ、しずかに……!」

 この部屋には誰もいないみたいだけど、油断は禁物だ。俺は熊に静かにするように言い聞かせると、回復薬を呑ませるために頭をあげようとした。
 が、首の所で何かに引っかかって上手く行かない。

「くそっ、なんだよこれ……って、鎖……!?」

 熊の首には守護獣達と同じように首輪が嵌めてあって、そこから短い鎖が伸びていた。鎖の長さは、熊が伏せられる程度の余裕しかない。なるほど、だから窓が開け放してあったんだな。
 このまま手で上げると熊も俺も辛い状態になるが、膝枕をして熊の頭を固定してやれば、なんとか楽に薬が喉を通るだろう。

「ちょっと変な味だけど、我慢しろよ……他の奴らは我慢したんだからな」

 熊の傷だらけでボコボコになった頭を撫でつつ、血塗れの舌の上に青い薬をゆっくりと落とす。熊はわずかに顔を顰めたが、俺が撫でるとすぐにその強張りを緩めた。
 よしよし、撫でられるの好きなんだな。我慢してくれよ。

 やがて回復薬の瓶が空になると、やっと熊の体が発光し始めた。どうやらちゃんと飲んでくれたらしい。ちょっと零してるから気になってたんだけど、零しても俺の回復薬は効果覿面てきめんのようだ。

 体が光ると、頭のデコボコとした感覚がなくなっていく。
 実際ちゃんと確かめた事なんて無かったけど、回復薬って本当凄い薬だな。この世界の回復薬って、体の自己治癒力とか高めてるのかな、それとも漫画とかで良くある「時間を戻してる」系……?
 でも、それだと後遺症だとか古傷だとか治せないのも変だしなあ。

 どうでも良い事で悩みながら空を睨んでいると、不意に熊の頭が動いた。

「おっ、気が付いたか……?」
「グ……グォ……」

 橙色の綺麗な瞳が、周囲を見渡して俺の方を向く。
 熊は俺の存在に驚いたみたいだけど、まだ体が完全に治りきっていないのかうまく動けなかった。まあ、あの鎖の長さじゃ元気になっても動けないけど……。
 俺はしーっと指を立てつつ、膝の上の頭をもう一度撫でる。

「……うん、傷はなんとか治ったな。大丈夫か? どこかまだ痛い所とか、辛い所はあるか?」

 そう聞くと熊は一度自分の体を確認するように目を這わせたが、再び俺をじっと見て小さく鳴いた。たぶん、大丈夫って事だろう。
 この熊も俺の言葉が理解できるようだ。これで食われる心配は無くなったな。
 ほっとして、俺はようやく体の力を抜いた。

「はぁー……良かった……。にしても、本当あのゲス野郎最低だよな。抵抗できないようにして、こんな事するなんて……」
「グォオ」
「ん? あ……そっか、いきなり出てきてびっくりしたよな。俺はえーと……通りがかりの者って奴だ。えーと……訳が有ってこの炭鉱を調べてる」

 俺の言葉に、熊はしぱしぱとまばたきをする。うう、可愛い……。
 わしゃわしゃしたい気持ちを必死で抑えつつ、俺は熊に色々聞いてみることにした。言葉は解るんだから、相手も知ってる事が有れば反応してくれるだろう。

「えーとな、熊君。俺は怪しい物に見えると思うけど、騒がないでくれる?」
「グオ」
「ありがとな。あのさ……もし良かったら、教えて欲しいんだけど……ここって、クラレットって奴が牛耳ってる鉱山なんだよな?」
「グォオ」

 熊の首が小さく縦に触れる。やっぱりそうなのか。
 てか、この分だともしかしてこの熊って色々知ってるんじゃないのか?

 脱走して捕まって暴行されても、殺されるわけじゃない。ってことは、この熊には何らかの重要な役目が有るって事だ。役目が有るって事は、多少この施設の事は知っているはず。じゃないと逃げられないし。
 全てとは行かなくても、断片的な情報くらいは聞きだせるはずだ。

「クラレットって、もしかして凄く金持ちか? ここの兵士とか買収しちゃったりしてる?」
「グァアゴ?」
「あ、買収って解んないのか。えーと……兵士達を言う事聞かせちゃうくらいに、アイツって偉い? あの外の男の人達を働かせてたりするのもクラレットか?」
「グォッ! グオォ!」

 凄い頷きだ。こ、こりゃマジっぽいな。
 相手は熊だから詳しくは聞けないが、それでも二択で教えて貰える質問には、熊は即答してくれる。
 俺は確かな手ごたえを感じて、その後も色々聞いてみた。

 それを総合すると、こうだ。
 クラレットっていう奴はどうやら凄いお金持ちで、この鉱山で採掘をこっそり行っている。地下のトンネルもクラレットの持ち物で、彼が命じて作らせたらしい。あの奴隷のように働かされていた人達は熊の仲間で、熊は彼らの事を知らせようと脱走を繰り返していたのだそうだ。
 やっぱり、あの人達は無理矢理働かされていたんだな。

「うーん……仲間か……ってことは、お前もあの中の誰かの守護獣なのか?」
「グォ?」
「守護獣わかんない? えっと……契約してる人があの中にいるか?」
「グォッ」

 そっか、熊もやっぱり守護獣だったのか……。
 まあそりゃそうだよな。じゃなけりゃ首輪なんて付けてないだろうし。

 そろそろ痺れて来た足を引き抜くと、熊が残念そうな顔をした。しょぼーんって可愛すぎか君は。本当熊って凶暴なくせに可愛いから困る。
 いや、そんな事思ってる場合じゃなくて。
 俺は足を揉みながら痺れを和らげ、一番重要な事を問いかけた。

「……なあ、熊君。俺はある療養所で、お前みたいに鞭による怪我を負った動物達を見た事が有るんだ。その療養所は、この施設の下のトンネルの通路に繋がってて……俺はそこからやって来たんだ。……そこの療養所の守護獣達って、もしかして……ここから連れて来られた奴らなのか?」

 そう。この答えが知りたくて、俺はここを探ってたんだ。
 檻の中の守護獣達が教えてくれた場所は、本当になのか。
 そして、彼らが俺にしてほしかった事は、男達を助けて欲しかったからなのか。

 知りたくて、そう問いかけた瞬間。

「え……」

 熊の表情が、まるで敵でも見るかのような表情に変わっていた。
 先程までの愛らしい表情ではない、俺を憎むような歪み切った顔。思わず熊から離れると、相手は忌々しげに喚きながら俺に手を伸ばしてきた。

 まだ折れたままの爪は、壁まで移動した俺にはギリギリ届かない。
 だけど、あまりに唐突な事態に、俺は逃げる事も悲鳴を上げる事も出来なかった。

 なんで。
 何でいきなり。俺、何か言ったか。お前の気に障るような事言ったのか?

「ゴァアアッ! グァアァアア!!」

 体全体が揺さぶられるような怒号に、俺の肩は勝手に縮こまる。
 ビリビリと空気を震わせるその音が恐ろしくて、思わず耳を塞いだ。
 どうして、どうして急に……!

「おいっ! 煩いぞ!!」
「ッ……!!」

 やばい、人が来る、逃げなきゃ……!!
 ここで見つかるなんて、絶対にやっちゃいけない事だ。そんな事をしたら、帰れなくなる。俺の事を信用して送り出してくれたブラックに、申し訳が立たない。
 帰るんだ。絶対に、無事な姿で。

 そう思うと、俺の体は勝手に動いた。
 熊の攻撃を壁を伝って避け、素早く窓から外に出る。窓を締める暇なんてない。俺は早くその場から逃げなければと思い、咄嗟に森の中に飛び込んだ。走って逃げたいけど、それじゃ見つかる。

 熊の声はあまりにも大きいから、外の兵士が寄って来るだろう。その時に下手に音を立てれば見つかってしまう。
 せめて、兵士達が施設に注目している間を狙わなければ。

 俺は荒い息を必死で抑えつつ、出来るだけ慎重に這いつくばって体を進めた。
 服が汚れるとかどうでもいい。怪我したって枝で腕を引っ掻いたって、生きて帰れりゃ良いんだ。それより、早くここから逃げなければ。

 早くしないと、ガシャガシャと鎖を引き千切ろうとする音が聞こえてくる。
 獣の低い呻き声が追ってくる。
 俺を敵と見なして、涎を垂らしながら睨んだあの熊が。
 もし捕まれば、俺は……。

「おい、煩いぞ!」
「どうした、また暴れ出したのか!!」

 兵士達の声が聞こえる。だが、もうそれも遠い。
 俺は水源地までようやく逃げ切って、やっと立ち上がった。

「ハァッ……ハァ……ひ、ひとまず……逃げられた……?」

 あまりに急な事すぎて、水晶が使えなかった。
 曜術や気の付加術を使うには、まず精神を安定させる必要がある。だから、今の俺みたいに動揺していたら、水晶に気をこめる事すら出来ないのだ。

 でも、もう、ここまでくれば。
 息を整えながら、俺は胸ポケットの中の水晶を服の上から握った。
 そうすれば落ち着くと思ったのだ。

「でも……どうしてあの熊は怒ったんだろう……」

 解らない。俺は、あの熊が怒るような事は何も言っていないはずだ。
 いや、一つ思い当たる節がある。熊は「療養所」と聞いて、表情を失くしていた。だとすれば、彼はその単語が出た事で俺を療養所の人間だと思い込んでしまったのではないだろうか。
 そう考えれば、突然怒り出したのにも合点がいく。

「はぁ……何もかも順調に行くってわけじゃないよな、本当……」

 俺は充分に注意して再び扉の中に入り、階段を下りつつ溜息を吐いた。
 熊とも仲良くなりたかったけど、嫌われちまったよ。

 でも、大丈夫かな。あれだけ騒ぐとまた苛められてしまうんじゃ。
 そうなると凄く後ろめたい。

「……今日は帰った方がいい、よな…………でも、大丈夫かな」

 殺される事は無い。それは解っている。
 だけど、俺のせいであの熊が痛い目に遭うのは辛い。
 あの熊はずっと人間に痛めつけられていたんだ、人間に不信感を抱いても無理はない。あの熊が怒ったのも、俺の不注意からだろう。
 獣に罪はない。俺だって、同じ事されたら発狂するかもしれないしな。

 階段を下りて、ふたたび土と鉄の臭いが充満する空間に戻った俺は、肩を落としてまた胸ポケットをぎゅっと握った。

「……あの熊の為にも、早くなんとかしないと……」

 だけどそれは俺一人の手には負えない。誰かの助けがいる。
 だから、早く帰りたい。
 早く帰って、ブラックに話して、一息つきたかった。

 もう頭がごちゃごちゃして考えがまとまらないんだ。一人で必死に調査して成果を上げても、怖い目に遭って落ち着こうとしても、今の俺は一人でいるしかない。
 誰かと冗談を言い合って怖さを吹き飛ばすことも、一緒に考えて答えを出す事も、抱き締めて貰って安心することも……出来ない。

「…………俺、こんなに弱かったかな……」

 自分の涙声が鬱陶うっとうしい。
 一人で行くと決めたのは、俺自身なのに。

「クソッ……俺のいくじなし、臆病モン……!!」

 こんな所で泣いても、安心できる場所に帰れる訳じゃない。
 頑張らなきゃ。頑張って、ブラックとロクのいる場所に帰らなきゃ。
 じゃないと、一生このままだ。

 俺は腕で乱暴に顔を擦ると、何度か深呼吸をして誰もいない世界を歩きだしたのだった。











※次回は※アリなので22時以降更新です
 ブラック以外の攻めとの絡み&嫌がる描写があるのでご注意下さい(´・ω・`)
 
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